其の二 嘘と誠の狭間で

 ――濡れている。


 背に感じるのは、じめりとした冷たさ。

 鼻先を掠めるのは、土と苔と、かすかに鉄の匂いが混じった、息の詰まるような空気。

 目を開ければ、そこには天井のない闇が広がっていた。


 ここは……どこ?


 いや、違う。うっすらとした格子の影――石の壁、錆びついた鉄格子。

 そこが、牢獄であることを理解するのに、時間はかからなかった。


 身体を起こそうとして、思わず呻いた。

 左肩に走る鋭い痛み。包帯のようなものが巻かれているが、血の滲んだ感触が、まだ生々しく残っている。

 それを見てようやく思い出す。燃えさかる祠、倒れた神木、そして――。


「夢じゃ……なかったの……」


 漏らした声は、微かに震えていた。

 生きて、ここにいる。それだけは、確かだった。


 その時、背後で重い扉が軋んだ。

 細い明かりとともに、番と思しき男が現れる。無精ひげの頬に、こちらを見下すような目。


「ようもまぁ、ぬけぬけと生き残ったもんだ」


 男は鼻で笑い、肩をすくめた。


「藩士たちを皆殺しにしておいて……澄ました顔しやがって」


 藩士――?


 思わず口を開く。


「私は……何も、しておりません……」


 身を乗り出しかけて、また激痛に呻く。

 左肩はまだ、火が灯るように熱を持っていた。


「ふん。見苦しい言い訳だな。そうまで言うのなら――」


 番は鉄格子の前に立ち、苛立ちを乗せた言葉を重ねる。


「あの刀はどう説明いたす? あの場に落ちていた刀には、堀田の紋があった。お前の家のな」


 ――堀田の家紋……?


 その意味を、頭が理解する前に、言葉が口をついて出た。


「まさか……父上が……?」


 番は、面白くもなさそうに鼻を鳴らす。


「ああ、そうだ。お前の父親も、同じように捕まってる。娘が人身御供にされたと知って、単身、乗り込んできたそうだ。……さて、芝居か本気か」


 胸が締めつけられる。


 父上が……この地に。

 私を助けるために。


 でも、それならどうして――。


「……父上が、そんなことをするはずが、ありません」


 唇が、震えていた。

 吐き出すような番の言葉が、突き刺さる。


「潔白を訴えるというならば、それらしい証拠の一つでも示してみせい。ま、元幕臣の娘とはいえ、殺しの共犯と見なされれば、死罪は免れまい。獄門も覚悟しておくがいい」


 喉の奥が詰まり、声が出なかった。


 番はそのまま立ち去った。

 再び静寂が訪れる。重苦しい沈黙の中、私はそっと身を寄せ、格子の隙間から外を伺う。


 薄い月明かりが、石壁に落ちている。

 屋敷の奥庭だろうか。そこに、一人の男の姿が照らされる。


 ――岡野様?


 僅かに見える横顔。

 きちんと結われた髪、背筋の伸びた立ち姿、控えめな意匠の羽織。

 間違いない。あの方だ。


 思わず、喉が震える。

 助けに来てくれたのだ。父上と……私のことを、見捨てずに――。


「岡――」


 名を呼びかけた唇が、ふと凍りつく。


 こんな姿……見せられない。


 肩に痛みを覚える。

 薄汚れた襦袢、血に染まった包帯、牢の底で震えるしかない自分。


 こんな無様な姿を、あの方にだけは見られたくなかった。

 それに、今ここで声を上げたら、何かを乱してしまう気がした。


 ――何か、考えがあってのこと。

 岡野様なら、きっと、すべてを解決してくれる。


 信じている。

 私は、あの朝の微笑みを、言葉を、信じているのだから。


 指先が、鉄格子をぎゅっと握る。

 何も言えぬまま、ただその背中を、胸の奥に刻み込むように見つめ続けた。


 重い音を立てて、鉄の扉が開いた。

 それと同時に、冷たい空気が足元から這い寄ってくる。


 現れたのは、先程の番ではなく、年嵩の役人だった。


「出ろ。お前は、放免だ」


 言われた意味が、すぐには飲み込めなかった。

 ただ立ち尽くす私に、男は深く溜め息を吐くと、続けた。


「お前の父が、すべての罪を認めた。藩士を討ったのは自身の意思だと、そう申した。そのため、お前は無罪とされた。今日より、光善寺へ向かうよう言い渡されている。寺で尼として過ごすこと、それが赦しの条件である」


 言葉が、耳の奥で反響していた。

 父上が、罪を、認めた。あの場に父上はいなかった。なのに……。

 それはつまり――私の命を救うため。


 口の奥がきゅうと苦くなった。

 喉元からこみ上げるものを、唇を噛んで堪える。


「……参ります」


 擦れた声でそう答えると、役人は頷き、踵を返した。

 私は、震える膝を押さえながら、静かにそのあとを追った。


***


 牛車の中は、思いのほか静かだった。

 草の香りが混じった風が、わずかな隙間から入り込んでくる。

 車輪が土を踏む音だけが、遠くで途切れ途切れに響いていた。


 揺れるたび、軋む音が微かに耳に届く。けれど、牢の石壁に響いたあの冷たい音に比べれば、なんと柔らかいことか。

 窓のない室内に身を収め、私は膝を抱くようにして座っていた。まだ左肩はじくじくと痛み、包帯の内側からは、じわりと熱がこもる。


 目的地は、光善寺。藩内でも古くから続く寺で、罪を犯した者や身寄りのない者を引き受けるとされている。


 ……つまり、私は――見捨てられなかっただけの、罪人の娘。


 すべては堀田の再興のため、飯山藩ここに来たはず……なのに、私は――神に捧げられた。


 あの日、あの祠の奥で、私は生贄として棺に閉じ込められた。それが本当にであったのか、あるいは、政の都合にすぎなかったのか――それすらも、未だ分からない。


 宝永の年に起きた富士の大噴火――その灰が信濃の山々にも届いた。

 灰は畑を覆い、空はいつまでも霞んだまま。雨は降らず、地は乾き、作物は枯れ、人心は乱れた。

 各地で一揆が噂され、政の中枢はただ、静かに焦っていた。

 そして、いつしか藩は、へとすがった。禁忌とされていた、生贄の儀式を。


 そこに選ばれたのが、私だった。血筋も名も整っていながら、切り捨てやすい、他藩の娘――都合のよい生贄。


 そう考えれば、すべては繋がる。


 しかしながら、父上は私の窮地をどこで伝え聞いたのだろうか。そして、岡野様もどうして、それを知るところとなったのだろう。あそこに岡野様がいたということは、即ち、父上を救ってくださるに違いない。


 一抹の希望を抱くと、胸の奥が、またじんわりと痛んだ。傷口ではない、もっと深くにある、見えない場所。


***


 門をくぐると、ふわりと線香の香が鼻を擽った。


 静かな境内には、初夏の陽ざしが柔らかに差し込んでいた。

 土の匂いに混じって、微かに木々の息吹が感じられる。

 石畳の先に続く苔むした石段を見上げると、その奥に、どこか仄暗くも厳かな本堂が姿を見せた。


 鐘の音も、鳥の囀りもない。

 時がここだけ止まっているかのような静けさ。


 私は小さく息を呑み、促されるままゆるゆると牛車を降りた。

 草履の底が土に触れ、しゃり、と小さな音を立てる。ふと足元を見ると、乾いた地面にはうっすらと白い灰が積もり、踏みしめた跡が淡く残った。

 膝を折るように一礼し、そのまま、ゆっくりと石段を上がってゆく。


 胸の奥でじわりと広がる緊張が、重くのしかかっていた。


 本堂の前まで進むと、番の男がそっと引き戸を開けた。


 その瞬間。


 冷たい風が私の顔を包み、線香の香りがいっそう濃くなる。

 淡く、けれど確かに広がる香煙が、堂内の空気を柔らかく染めていた。


 仏の御前に響く、僅かな足音。

 目を凝らせば、堂の奥には、大きなご本尊がひっそりと佇んでいる。

 金泥の衣をまとった阿弥陀如来。

 その穏やかな眼差しが、何もかもを見透かすようで、私は思わず視線を伏せた。


 やがて、柱の陰から一人の僧が現れた。


 背はやや曲がり、年の頃は七十に届こうかというほどの老僧であった。

 皺の刻まれた顔には、しかし不思議と張りのある声が宿っている。

 薄鼠の法衣を纏い、手には数珠をかけていた。


「大きくなられましたな」


 その一言に、私は思わず顔をもち上げる。


「え……?」


 目が合うも、その面差しにはまるで覚えがなかった。


 老僧は、微笑みを浮かべながらゆっくりと私に歩み寄る。

 柔らかい歩幅で、丁寧に、時間の流れに逆らうかのように。


「あなた様が、まだ物心つくよりも前のこと。お母上が療養のため、しばしこちらに逗留されていたのです。その折、あなた様も一緒に……ほんの短い間でしたがな」


 語る声は深く、そして懐かしさに満ちていた。

 私の中には何の記憶もないというのに、なぜだろう――胸が、すぅっと軽くなる気がした。


「ようこそお越しくださいました。堀田様より、あなた様のことは既に承っております」


 父上が? 一体、どういうことなの?


 住職であろう老僧は、そう言って本堂の奥へと手を差し伸べた。


「さ、どうぞ。御仏の前にて、お預かりしたものをお渡しせねばなりません」


 私は、言葉もなくただ頭を下げ、そのあとを静かに追った。


***


 夜が更けた。

 風も止み、寺はひっそりと息を潜めている。


 柱の隙間から射し込む月光は既に失われ、部屋の中にはあんどんの淡い光が静かに灯っていた。

 その明かりを頼りに、私はひとり、布団の縁に膝を抱えていた。


 眠れなかった。

 体は疲れているはずなのに、瞼の裏で、父上の声が、住職の言葉が、何度も何度も繰り返される。

 何かを確認するように、そして何かを拒絶するように。


 あの時、住職は言った。

 「堀田様より、あなた様へ託されたものがある」と。


 髷留めは、確かに父上のものだった。

 幼い頃、床の間に飾られていた武具の中に、あの黒漆の飾りがあったのを覚えている。

 その光沢が、どこか誇らしげで、凛としていて――あれはそのものだった。


 けれど、それを手放したということは。

 もう、武士ではなくなった――堀田の名を背負う者ではなくなったということ。


 住職は続けて、小さな文箱を差し出した。

 中には一通の手紙が入っていた。

 けれど、私はそれを受け取ったまま、ずっと開けられずにいた。

 怖かった。読めば、すべてが終わってしまう気がして。


 でも、今はどうしても――どうしても、読まずにはいられなかった。


 震える指先で、文をほどく。

 さらりとした紙の質感。墨の香り。そして父上の筆致。

 それだけで、胸の奥がきゅうっと締めつけられた。


 ――珠緒へ。


 その文字を見た瞬間、涙が溢れそうになるのを必死で堪える。

 微かな震えの残る筆跡は、迷いがなく、ただ静かに言葉を紡いでいた。




 許せ。

 本来ならば、そなたのような娘に、このようなことを託す父であってはならぬ。

 されど、わしにはもう他の道がなかった。

 そなたがこうして生きていること――それだけが、わしの願いであり、救いである。

 誇りを持て。珠緒。

 わしの娘であることに、誇りを持て。


 


 ――ああ。だめ。


 だめなのに。

 涙が、とめられなかった。


 どんなに目を伏せても、零れ落ちる。

 紙に落ちた雫が、墨を滲ませる。


 父上の言葉を、自分の涙で消してしまう。

 許されないことをしているようで――息が詰まりそうになる。


 だけど、それでも読み進めた。


 


 岡野のことは、信じておらぬ。

 この件を持ちかけてきたのは、奴であった。

 されど、わしの眼も曇っておったのかもしれぬ。

 岡野の人となり、真に見極められずにあったこと、口惜しく思う。

 娘を託すと決めた以上、信じたかった。

 信じねばならなかった。

 だが、今のわしには、もはやそれを確かめる術もない。

 もしも、そなたが心に迷いを抱くことがあらば――信ずるよりも、見極めよ。

 わしが間違うたぶん、そなたは真を見抜け。

 それが、我が遺言である。


 


 ――手が震えた。


 岡野様が……?

 でも、そんなはず……そんなはずがない。

 あの方は、私を――堀田の未来を思って、申し出てくださった。


 優しい笑みも、温かな声も――全部、全部、本物だったじゃない。


 信じたい。でも、信じる父上が、そう言っている。

 なら、どちらを信じれば――。


 胸の中で、信念と感情がぶつかり合って、滅茶苦茶になっていく。

 わからない。何も、わからない。


 私は、何のために生き延びたのだろう。

 命を救われて、こうして、父上の死を読まされて。


 一体、誰を信じればいいの?


 声をあげて泣くことは、できなかった。

 ただ、静かに。目から、頬へ。頬から、襟元へ。

 涙が、絶え間なく流れ続けた。


 その夜、私は一つの現実を知った。


 父はもう、戻らない。

 そして、私の信じていた未来も、もう、どこにもないかもしれない、と。




 ――どれくらいの刻が過ぎただろう。

 横目にあんどんの火が、ふと揺らぐ。

 部屋のどこかで、風が通ったような気がした。


 けれど、障子は閉じられたまま。

 戸も、窓も、微動だにしていない。


 ――なのに、空気が変わった。


 しん、と張り詰めるような静寂。何かが、こちらを伺い見ている。

 ゆっくりと顔を上げると、そこにが立っていた。


 灯りの届かぬ柱の陰から、ふわりと現れた影。長い銀の髪が、風もないのに淡く揺れている。その目は、紅とも金ともつかぬ妖しげな色に燃え、まるで夜そのものを纏っているかの如く。


「ようやく、静かになったようだな。小娘」


 低く、艶を含んだ声音。柔らかく響きながらも、明らかに見下すような響きを孕んでいた。

 声の主は祠で見た、あのだった。炎の中に現れ、賊を一瞬で屠った存在。

 それが、何事もなかったように、目の前に立っている。


「ずいぶんと、濡れていたではないか。……涙など、流して何になる?」


 その言葉に、胸がちくりと疼いた。声を返そうとしても、喉が動かない。父上の手紙を読み、感情が焼けつき、もう、言葉すら出なかった。


 けれど、は構わず、するりと近づいてくる。静かに、しかし確実に、私の領域に足を踏み入れてくる。


「取引に参った。人の娘よ。お前の願いを、一つ叶えてやろう」


 挑発するような微笑みが、その薄い唇に浮かぶ。

 取引など、何のことやらさっぱりわからない。

 でも、その言葉に、ようやく、私の唇は微かに震えた。


「……父上を……助けて……」


 それだけを、絞り出すように伝える。

 は、ゆっくりと目を細めた。口の端が、愉しげに、そして僅かに歪む。


「死にゆく者を助けたいとは。哀れな娘だ」


 鼻で笑うその仕草は、やはり私を見下している。

 けれど、私は引かなかった。


「たとえ無駄でも、伝えたいのです……父上に……」


 ――どうか、最期に一目でいい。会いたい。一言でいい。想いを、届けたい。


「よかろう。それが望みなのだな」


 確認しているようだった。けれど、私はそれ以上、何も言えなかった。


 なぜ、私のもとへ現れたのか。なぜ、私の願いを聞き入れるのか。目の前の存在が、何者であろうと関係ない。もし、この手で運命を変えられるなら――。


 はあくびのように、ふわっと息を吐くと、すらりと立ち上がる。その動きには、人ならぬ気配が確かにあった。


「面倒だが、案内あないしてやろう。人の娘よ」


 そう言って、私に手を差し伸べる。掌の中心には、朱の光が揺らめいていた。

 ……私はただ、吸い寄せられるように、手を伸ばした。

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