其の三 命を継ぐ契り

 ――夢の中にいるようだった。


 辺り一面には、沈黙が落ちていた。風はなく、木々の葉も揺れない。光善寺の裏手、ひと気のない小径こみちに立ち尽くしていた私の前で、は唐突に現れた。


 一息ひといき、銀の髪がふわりと宙を舞う。細く長い指が、空をすくうようにかざされた次の瞬間――。


 砂利を踏む音がすると、そこには、いつの間にか一台の牛車があった。


 どこから運ばれたのか、誰が繋いだのか、その姿を見た覚えはない。ただ気がつけば、闇の中に黒漆の車輪があり、そこから、重たげな牛がゆっくりと鼻息を吐いていた。


 やがて、昇り始めた陽が、静かに木々の影を引き伸ばしていく。世界が目覚める気配だけが、淡く辺りを染めていた。


「準備は整った。参るぞ」


 振り返った彼は、微笑むでもなく、ただ淡々とそう言った。


 不自然なほどに澄んだ声が、冷えた空気を裂いて響く。それは、彼の存在がに属していないことを証明するようだった。


 私は、言葉もなく、ただ頷いた。既に涙は尽きていた。ただ、胸の奥で燃える何かを頼りに、私は牛車に乗り込んだ。




 牛車の中は、不思議なほどに静かだった。


 黒漆の内装、障子の貼られた小窓は外の景色を映さず、まるで外界と切り離されたかのよう。音も、風も、ただの一つも入り込んでこない。


 牛が引いているはずの車が、道を進んでいるという感覚さえ、揺れを感じぬ車内ではもはや曖昧だった。


 私は、膝を抱えるようにして座った。しんと冷えた空気の中、胸の奥ばかりがざわついていた。


 間に合う……間に合うのよね……?


 何度も自分に言い聞かせるように、心の中で繰り返す。けれどその言葉が、まるで遠くへ沈んでいくように響かなかった。


 ――もう、父上に会えないのではないか。


 そんな考えが、何度も何度も胸を刺す。


 指先が、袖の端をぎゅっと握りしめる。


「どうか……もう一度だけでいい。会わせて……父上に……」


 それは懇願だった。


 その祈りを乗せたまま、牛車はなおも、進み続けた。

 中の静けさとは裏腹に、外から響く風を裂く音――それが、ただの牛車ではないことを、暗に告げていた。




「……着くまで、あとどれほどでしょう」


 張り詰めた空気の中、私はか細い声で問いかけた。

 けれど、返ってきたのは、風の音だけ。


 しばしの沈黙ののち、彼は、低く静かに言った。


「時刻を気にするほど、悠長な状況でもあるまい」


 それは、突き放すようでいて、どこか言葉を選んでいるようでもあった。

 私は口を噤んだまま、膝の上の手を握りしめる。


「父上は……」


 言いかけて、喉が詰まる。

 確かなことなど、何もわからない。だが、胸騒ぎがやまない。


「間に合わないかも、しれぬのですね……」


 その言葉は、自分自身への諦めのようにこぼれた。

 だが次の瞬間、彼の声が重なる。


「刑場の家老屋敷はすぐそこだ。問題はどのように入るか。相手もまさか、はいどうぞと門を開けるわけもあるまい。――かといって、方法がない訳でもない」


 私は、はっとして顔を上げた。

 その表情は相変わらず読めないが、その瞳の奥に、獣のような光がちらと走った。


「無理やりにでも、門を越える。……ただし、それなりの衝撃は伴うがな」

「無理やり、とは……?」

「この車を使う」


 その一言に、息が詰まる。

 まさか、牛車で――?


「塀を、突き破ると……?」

「それが最も手っ取り早い」


 迷いは、一瞬だった。

 戸惑いも、躊躇いも、この胸の奥の焦燥の前には意味を持たない。


「お願いします……すべて、託します」


 しっかりと彼を見据えて、そう言った。

 彼は僅かに唇の端を持ち上げ――だがそれは、笑みとは言い難い。


「ならば、しっかりと掴まっていろ。……飛ぶぞ」


 直後、それまで揺れさえ感じなかった車内が、大きく震える。

 外の景色は見えぬまま、ただ風の音だけが、鋭く、耳を裂いた。


 ――何かが、変わった。


 座っていた身体が、ふわりと浮き上がる。

 瞬間、重たい衝撃音と共に、この静寂そのものが崩れた。


 ……何?


 目の前にあったはずの壁が、まるで霧のように砕け散る。

 黒漆の板が宙に舞い、世界がぐるりと反転する。


 気づけば私は、空を舞っていた。

 目に飛び込んできたのは、白装束の父上の背中。

 霞む視界の中で、確かにそこに座していた。何人もの視線が、父上を取り囲んでいる。


 ――父上……。


 その名を呼ぼうとした唇を、風がさらう。


 地面が近づいてくる。けれど、恐ろしさはなかった。

 落ちゆく身体を、強く、けれど穏やかに支える腕があった。

 揺れる銀の髪。しんと静かな瞳。


 私はその腕の中で、ようやく息をついた。


 すべては、ほんの僅かの出来事だったはずなのに。

 時だけが、夢の中のようにゆっくりと流れていた。


 すぐに、ざわめきが広がる。

 突如として屋敷の壁を突き破った牛車。その中から放り出された私の姿に、役人たちは一様に驚愕し、武器を構えて取り囲む。


 ――その奥には、白装束に包まれ、正座した父上の姿があった。


 瞼を伏せたまま、僅かに顔を上げた父上は、騒動の主が誰であるかを悟ったのだろう。

 私の顔を、はっきりと見つめることなく、それでも迷うことなく、辞世の句を詠むことすらせず、静かに脇差へと手を伸ばした。


「父上っ!」


 大声で叫ぶ。

 私は、血の匂いが立ちこめるその場所へと駆け出していた。


 白装束の下から滲み出す紅。

 座したままのその姿に、周囲の役人たちの視線が集まっていた。


 間に合わなかった……父上は、迷うことなく、自らの腹に刃を入れてしまったのだ。


 私は、その傍らに膝をついた。

 血に濡れた衣を恐れることもなく、その身体を抱きしめる。


 温かい。幼き頃、その腕に抱かれていた当時のまま。

 

 「……なぜ、逃げない」


 それが、父上の口から出た最初の言葉だった。

 目を開けたまま、私を見ることはなく。


 その言葉に、すべてを悟った。


 ――これは、時間稼ぎだったのだ。

 自らを囮にして、役人たちの目を引き……私を逃がすための。


 「なぜって……逃げるなど、どうして出来ましょう……父上を残していくなど……」


 喉が焼けるようだった。

 声にならないものが、胸の奥で何度も、何度も跳ね返っていた。


 「この愚かな娘を、どうか、お許しください……」


 それは父上の意を反故にしてしまった、精一杯の私の謝罪だった。

 父上は、僅かに息を吐く。


 「……許しを、請うのは……わしの……堀田の名は……もう……」


 言葉が続かない。

 それでも、その言葉の続きを、私は知っていた。


 もう、守るものはない。

 けれど、娘だけは――。


 「違います! 堀田を守りたかったのは私です! その上で、私の意志で飯山藩に……それでも、父上がこうして、ここにいてくださった。それだけで……」


 熱いものが頬を伝う。

 涙か、それとも血か。もう分からなかった。


 「……育ったな……母に似て……珠緒……」


 その小さな囁きとともに、父上の身体から、力が抜けていった。

 私は、呼吸も忘れて、その頬に顔を寄せた。


「その女を、切り捨てい」


 屋敷の奥より突如、ひどく冷ややかな声が響いた。


 放たれたその命に、場がざわめく。声の主は見えない。けれど、そのめいが重いことだけは、誰の耳にも確かだった。


 介錯人は、一瞬たじろぐ。が、すぐに震える腕で刀を握り直し、私を見据えた。

 薄く開かれた唇から、震える息が漏れる。

 その目に、迷いはあった。けれど、命に背くことはできぬのだろう。


 私を斬るべく、彼は刃を振り上げ――その瞬間だった。


 背後から、すっと影が差す。

 音もなく迫ったその手が、介錯人の喉元を捉えた。


 まるで風のように、音も気配もない動きだった。

 介錯人の眼が見開かれ、かすれた声が喉に引っかかる。


 彼の姿は、介錯人を背にし、屋敷からは死角にあった。

 だが、私にははっきり見える。


 銀の髪がふわりと揺れる。静かに、確実に、彼はその命を絶ち――なおも、倒れる身体を支えるように持ち上げる。


 ――私は生かされたのだ。


「やったか?」


 私を切るよう命じた声が、再び響く。


「これはこれは、誰かと思えば」


 また一人、別の声。そこには、確かな皮肉と、薄ら笑いが混じっていた。

 はっきり顔を見ずとも、それが私であると確信しているのだろう。


 ――岡野。


 声を聞いただけで、私はその名を理解した。

 だが、唇が動くよりも早く、彼の指がそっと私の口元を塞いだ。


「仕留めました」


 響いたのは、介錯人とまったく同じ声。


 けれど、それは本人のものではないと、私は知っていた。

 それは、私を救った彼が紡いだ偽りだった。


 屋敷から姿を現したのは、二人の男。

 一人は、見覚えのある羽織を着た岡野。もう一人は、年配の家老――河野と呼ばれていたはずだ。


「まったく馬鹿な女だ。あのまま、祠でおとなしく死んでおればよかったものを。堀田にしても、まさか娘を救うために信州まで馳せ参じるとは……おかげで手にした堀田の名も捨てねばならぬ。まったく、余計なことをしてくれる」


 岡野は鼻で笑う。


 ――やはり。父上の疑念は、真だったのだ……。


「そう嘆くでない。名など、藩を手にいれた暁には、わしがしかるべく取り計らってやる。これで、松平の血筋も、当主を残して絶えた。まさか堀田の娘が、松平の姫の血を引いていようとはな……だが、それこそ都合がよい」


 河野は、濡れた唇を嘲るように歪める。


 どうにか、込み上げる怒りを抑えるのがやっと。もはや二人が何を言おうと、それを理解するほどの理性は残っていなかった。


「他藩の、堀田の娘を人身御供に仕立て上げたとなれば、責を問われるは、それを命じた松平であろう。……次の藩主は、しかるべき者が担うことになる」

「ふ……くだらぬ情に流された御仁には、荷が重すぎた。あとは、幕府にどう伝えるか……だ」


 岡野が静かに笑った、その時だった。


 ばり、と、空を裂くような音。遥か空の奥で轟くのは雷鳴。


 そして顔に当たったのは――雨。

 音もなく風が通り、晴れた空に、黒い雲が一筋走る。


 一滴ひとしずく、また一滴ひとしずく


 やがて、晴れわたる空から、信じ難いほどの激しい雨が降り注ぐ。


「な……狐の嫁入りか!」


 その場にいたすべての者が、顔を上げ、空を見た。


 大地を潤すような、正に恵みの雨。

 私が犠牲となった……はずの、そのすぐあと。

 誰の目にも、それは「神の応え」に見えただろう。


 河野は空を見上げ、足を止める。岡野も目を細め、雨粒を受けた手の甲を見る。

 そしてにやりと、唇を吊り上げたかと思えば、岡野と河野は、顔を見合わせた。


「……少々、筋書きを変えねばなるまい。祠に捧げた神事こそ、我らの発案とせねば……この功、松平のものにはさせぬ」

「急ぎ、城へ……流布の準備を。人心を掴むのは、今この時ですぞ」


 雨脚が強くなる中、二人は足早に屋敷の奥へと姿を消した。

 その背が見えなくなった瞬間。私の視界から、すべての色が溶けていった。


 握っていた父の手が、力なく落ちる。

 すがるように、私は彼を見上げた。


「父上を……お助けください……」


 彼は、静かに首を振る。


「それは、叶わぬ。俺とて、万能ではない。お前の父君は、すでに――」

「……ならば、せめて……苦しまぬように……」


 わかっていた。覚悟していた。けれども、実際に言葉で告げられると、声の震えは止まなかった。


 彼は、ほんの一瞬だけ目を細めると、小さく頷いた。


「――わかった」


 その言葉を聞いた瞬間、身体の力が抜けた。

 私の中にあったものが、すべて消えていくようだった。


 視界が滲む。


 音が遠のく。


 銀の髪が揺れたように見えたのを最後に――。

 私は、すべてを手放して、闇に落ちた。


***


 目を覚ますと、私は見慣れぬ天井を見上げていた。

 畳の香に、どこか懐かしさを覚える。


「お目覚め、ですかな」


 静かな声に振り向けば、そちらには穏やかな眼差しの住職が立っていた。

 その傍らには、控えめな灯りをたたえた香炉がひとつ。煙が細く揺れている。


「ここは――」

「光善寺の奥座敷です。三日ほど、眠られておりましたぞ」

「三日……も……」


 驚きとともに、身体が思うように動かないことにも気づく。

 ただ、喉の渇きや、微かに痛む手首。それらは確かに生きている証だった。


「お傍には、ずっと……あの妖狐殿が付き添っておりました。眠ることなく、水も口にせず。まるで、あなた様の生死を真に案じているように」


 言葉を失った。

 あの時、私は確かに……父上の……。すると、妖狐というのは……銀の髪の……。


「お話しせねばならぬことが、幾つかございます」


 住職が、手を合わせながらゆっくりと語る。


「以前も申し上げましたが、あなた様のお母上は、かつてこの寺で療養されておりました」


 住職は、静かに香炉の煙へ視線を落とす。


「――そして今、この寺に眠っておられます」


 目元がじんわりと熱を帯びる。知らなかった。まさか、そんな近くに――。


「お母上のご血筋には、松平の名がございます。分家ではありますが、間違いなく」


 松平――それはつまり、飯山藩主家の血。


「そして……あなた様が置いていかれた堀田様からの手紙、勝手ながら拝見致しました。無礼をお許しください」


 住職はそう言って、深く頭を下げる。


「確かその中に、『岡野』という名がありましたな」


 その名に、私ははっとする。


「光善寺の奥の墓地にはかねてより、『岡野』の名を刻んだ無縁墓がございます……赤穂の浪士と、同じ名の」


 どういうこと……? 頭が、うまく回らない。


「それと、あの妖狐殿のこと」


 住職は静かに目を伏せる。


「かつてかの山に封じられたとされる、白嶺命はくれいのみことという神使の名を、御存じですかな。封印として使われていたのが、あの神木でございました。そして、その腕の朱……恐らくは、生き血によって、主と定められたのでしょう」


 私の、腕にある傷。あの時の熱――。


「封印の神木が失われた今、血の契りを交わした者が白嶺命の主となる。そう記された古記もございます」

「では……だから、私を……」

「命を救われたのは、そのためかと。あるじあやかしは命を共有する――そう伝えられる契りです。人ではなき者と、血にて結ばれた契り。片方が死ねば、もう片方も消えるという……あくまで、伝承にすぎませんが」

「――そう考えると、あの者が私の命を救ったことの、辻褄つじつまが合うということ……」


 思わず呟いた声に、住職は頷いた。


「妖に成り下がったとはいえ、白嶺命は、かつては神に仕えし神使。あなた様が主となったならば、あの方はもはや、その命を守るための存在。……どうやら、その契りを解消するために現れたようですが、うまくいかなかったと見え――」


 その時だった。


「……べらべらと、よう喋る坊主だな」


 障子の向こうから聞こえた声に、私は思わず身を起こしそうになった。


 銀の髪に、金の瞳。

 しんと静まり返った夜の気配のなか、その存在はまるで夢の残り香のようだった。


 ――白嶺命。


「勘違いするな。俺は、ただ見張っているだけ。既に願いは叶えておる……だが、なぜか契約が切れぬだけのこと」


 その声はどこまでも冷ややかで、穏やかだった。

 どこか、他人事のように。


「……では、力をお貸し頂くことは」


 問うた私の声は、僅かに震えていた。


 白嶺命は、静かに目を伏せ、何も言わなかった。

 それは即ち――否、であることを意味していた。


 私はゆっくりと立ち上がり、手にしていた懐刀に指を添える。

 迷いはなかった。


 結い上げられていた髪に、刃を滑らせる。


 しゃり、と静かな音をたてて、長い黒髪が床に落ちた。


 肩にかかる程度まで短くなった髪は、結いも解け、淡い風に揺れた。


「……ならば、刺し違える覚悟で、飯山へ参ります」


 返答はなかった。

 けれど、それでよかった。


 私はそっと、部屋をあとにした。


***


 二人の墓前に、香を手向ける。

 細く昇る煙が、まるで天に願いを届けるかのように揺れていた。


「……父上、母上」


 声は小さく、けれど胸の奥から絞り出すようだった。

 涙は、もう出なかった。


 その時、背後に気配を感じて振り返ると、

 そこに一人の武士が立っていた。


 年の頃は父上より一回りは若く見える。

 髷はきれいに整い、着物も隙なく着こなしている。

 その身なりは、質素でありながら一分の乱れもなく――立っているだけで、どこか人を圧するような威厳があった。


 私は思わず、深く頭を下げていた。


「そなたは堀田殿の……余は、松平忠綱まつだいらただつなである」


 静かに名乗られたその名に、私は息を呑んだ。


 怒りが、胸の奥からせり上がってくる。

 今にも、その胸ぐらを掴みかねないほどに。


「あなたが、飯山藩主――松平……父上の、堀田の――仇!」

「お待ちなされ」


 割って入ったのは、住職の声だった。


「松平公は、堀田様を弔うため、お忍びでお越しくださったのです」


 私は、拳をきゅっと握ったまま、歯を食いしばった。


「堀田殿の件、まこと、申し訳なきこと。そなたを人身御供として捧げし件もまた、弁解の余地はない。すべては、藩主たるこの余が、政を家老に委ねたがゆえの過ち……。面目次第もない。叶うことならば、この非礼、どうか赦してはいただけぬか――」


 松平がそっと視線を逸らす。

 その表情に、どこか苦しげな影が滲んでいた。


「……お体の具合が、すぐれぬようにお見受けしますが」


 自分でも、なぜそんな言葉が出たのかわからなかった。

 けれど、何か言わねばならぬと思った。その一心で、口を開いたのだ。


 そんな私に代わり、白嶺命が一歩、前へ出た。


「毒だな」

「……毒?」

「脈と気の流れが乱れている。遅れて効く、よく仕組まれたものだ。気づかぬうちに、長く摂取していたな」


 言葉を失ったのは、松平様本人だった。

 顔がみるみる青ざめ、私も思わずその横顔を見つめる。


「……岡野、そして河野。そこまで手を回していたか」

「奴らは用心深い。祠にて賊を仕向け、とどめを刺し、堀田の刀を遺したのも……岡野という男の差し金だ。相当に周到と見える。隙など、一つとして見せぬつもりだろう」

「そ……それを、あなたは見ていたの……?」


 声が震えた。

 ならば――父上が、私を救わんと信州まで足を運ばれたことで……その結果が、あの仕打ち。

 想いのすべてを、にすり替えて……父上に擦りつけようと――。


 ふいに、胸がきゅう、と締めつけられた。


 私の肩に、再び重みがのしかかる。

 そのとき――白嶺命が、ぽつりと呟いた。


「あの男には、怨が憑いている。強い執着だ。あれは、ただの人間ではないぞ」

「え……」


 私は目を見開いた。

 白嶺命の声は、どこか遠くを見るように続ける。


「皮を被っているだけだ。の姿をしているが、中身は違う。何かを果たすためだけに、生まれてきたような男だ」


 背筋に、ひやりとしたものが走る。

 けれど、私は言った。


「……それでも、私は、討たねばなりません」


 白嶺命は、ふっと息を吐いた。

 その意味は、私にはわからなかった。


「改めて、お願い申し上げます。どうか……お力を」

「断る。言ったはず。俺は、お前を見張っているだけと」


 その言葉は、拒絶というより、どこか意地を張ったような響きに聞こえた。


 すると、住職が懐から、何かを取り出した。


 墨と、一筆ひとふで


「珠緒様。この筆は、あなた様が切り落とされた髪より、この場にて調えたものにございます」


 私は、思わず目を見張る。


「言霊を宿すのは、生きた想い。その筆にて、ふだに――願いではなく、したためなさいませ」


 静かに頷き、私は札を手に取った。

 墨に筆を浸し、真白な紙へと筆先を落とす。


 墨が滲むたびに、胸の奥にある想いが、一つずつ形を成していく。


 ――父の無念を晴らすまで。

 この一件の終わりまで。

 命を賭して、手を貸しなさい。


 筆を置いた指が、僅かに震えていた。

 けれど、心にもう、迷いはなかった。


 私は、その札をそっと持ち上げる。

 そして、白嶺命の前に、差し出す。


「願いではありません。命令です」


 風もないのに、紙の端が、かすかに揺れた。

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