狐の嫁入り ~祠に捧げられた武家の娘は、妖と契りて仇を討つ~
たなかし
其の一 神に喰われる花嫁
私は神さまに喰われる。
――そういうことらしい。
冗談みたいな話だけれど、私がいま棺の中に閉じ込められているという現実が、そのすべてを物語っている。
目を開けても何も見えない。真っ暗な空間には、湿気を帯びた檜の香りだけが満ちている。
外の音は遠く、ここが現実なのか夢なのか、時折わからなくなる。
息苦しいうえ、不快でしかない。
身じろぎ一つするにも木が軋み、音を立てる。それすらも躊躇われるような静けさだった。
辰の
その間ずっと、ただひたすらに狭く暗い棺の中で、揺れに身を任せるばかり。
空っぽの胃袋が、波打つたびに軋んで、冷や汗が首筋をつたう。
どこへ向かうのか――そう問うた折には、ただつちがみを祀るという古き
名も知らぬその地に、私は――。
先の見えないこの状況に、いよいよ限界を迎え、胃の奥から込み上げたものが喉を焼き始めた、その折――ぴたりと、揺れが止む。どうやら、棺が地面に下ろされたのだろう。
外からは、笛の音が聴こえ始める。それに合わせて鳴る太鼓は、私の内臓を容赦なくえぐる。
神楽……いや、それにしては騒々しい。演舞だろうか。どちらにしても舞いには違いない――私を捧げるための。
ああ、ありがたいことね。
神に捧げられる女のために、音曲まで添えてくれるなんて。
せめてそこに、
――でも、おかしい。
私は人質として飯山藩に向かったはずだった。
それなのに、なぜ私は生贄に捧げられねばならぬのか。
すべてはあの日――父上と岡野様の頼みを聞いたことから始まった。
***
座敷には春の陽が、優しく差していた。
障子越しに揺れる木の葉の影が、白い畳の上にゆらゆらと浮かび、い草の匂いが鼻を擽る。
父上は、部屋の奥に静かに座している。
背筋は伸びていたけれど、若い頃よりも幾分痩せて見えた。頬に刻まれた皺も、白くなりかけた髪も、昔のままではない。
けれど、その眼差しには、今も変わらぬ強さが宿っている。
私は一寸たりとも正座を崩すことなく、ただ黙って、父上の口が開くのを待っていた。
「
その言葉は、淡々とした口調で告げられた。
予期しないその言葉に、内心はかなり取り乱す。恐らく、肩も少しばかりせり上がってしまっただろう。しかし、上辺ではそれを悟られぬよう、努めて平静を装う。
「飯山藩との関係を、いま少し深める必要がある。堀田が幕府からの信を取り戻すには、ここで働きかけねばならん。縁談のまとまったばかりのお前にとって、十分酷なことだとは分かっている。だが……これは、堀田の家を守るためでもあるのだ」
父上の声には、情を混ぜない響きがあった。
それが、かえって私の胸を締めつける。
私は、少しだけ目を伏せた。
けれど、次の瞬間にはまっすぐ父上の目を見て、はっきりと頷いた。
「承知いたしました。この身一つで堀田の役に立てるのであれば、これ以上の名誉はございません。喜んで、お引き受けいたしたく存じます」
かつては、幕府に仕える旗本として、その名を広く知られた堀田家。
人々に一目置かれたのも、今は昔。
堀田の名が、昔のままではないことは、私もわかっている。
だからこそ、飯山藩との縁が、いずれ幕府との橋渡しとなるのなら――たった一年の辛抱で、堀田の名が救われるのなら。
この身など、惜しくはないと、自然と思えた。
廊下を踏みしめる音が近づき、襖が静かに開いた。
入ってきたのは、岡野様――私の許嫁であり、堀田が婿養子として迎えるお方。
羽織の縁に淡く紋が入り、身なりは控えめながらも上質で整っている。
背筋はすっと伸び、髪も凛と結われていて、動きの一つ一つに無駄がなかった。
目が合った瞬間、岡野様はほんの僅かに目元を緩めて微笑んだ。
「お邪魔いたします」
丁寧に一礼したあと、岡野様は静かに膝を折り、父の対面に座した。その姿を、私はそっと横目で見つめた。
あの頼もしさ、言葉の節々ににじむ誠実さ。
藩政の要職に就き、才覚と実直さで信頼を集めた若き逸材。
……この人がいれば、堀田の家はきっと大丈夫だ。
「人質の件、拝聴しております。……珠緒様がこの件を受けてくださること、深く感謝いたします。私も、出来る限りの力を尽くす所存です」
そう言って、深く頭を下げるその姿に、胸が痛んだ。
父上の傍らでそう言ってくださる岡野様が、この件を進言された張本人であることも、私は知っている。
……けれど、それは堀田の未来を思えばこそのこと。
堀田に男子はおらず、家を継ぐのは、この身しかいない。
岡野様は、かつて飯山藩に仕え、将来を嘱望されていた。
正式に藩を辞してまで、ゆかりもない堀田の再興を願い、婿入りを申し出てくださった――その覚悟に、私は強く心を打たれていた。
疑う理由など、どこにもなかった。
「この件は、岡野に一任してある」
父上が短くそう告げると、岡野様は深く頭を下げた。
私は、その所作に一切の濁りを感じなかった。
その一礼には、父への敬意と、堀田の名に対する真摯さが宿っていた。
岡野様は、かつて仕えた松平家に自ら取り次ぎを願い出てくださったという。
幕府との橋渡しが叶えば、堀田にとっては再興の道が開ける。
部屋に戻った私は、几帳の奥にある鏡台の前に、そっと座を取った。
文机の脇に置かれた手鏡を取り上げ、膝の上で角度を調整する。
鏡に映ったのは――
控えめに結い上げられた髪は、母上が遺してくれた小さな櫛で留められている。
ほどよく艶のある黒髪が、朝の陽を受けて静かに光っていた。
髪紐が緩んでいないか、首の辺りをそっとなぞる。
形ばかりの仕草だけれど、昔からこれをすると少しだけ気が引き締まった。
今度は手鏡を持ち替え、そっと顔を映してみる。
――少し、顔が火照っている。
頬が紅いのは、外の陽気のせいか。それとも……あの人の笑みに、気が緩んだせいだろうか。
薄く
唇の端が、かすかに緩んでいる。
――ああ、私、笑っていたのだ。
父上のために。家のために。
そして、岡野様と並び立つ、未来のために。
その笑みには、ほんの少しの不安と、少しばかりの恋慕と――それでもやっぱり、誇りと決意が滲んでいた。
***
――音が、変わった。
笛の調べが、いつのまにか止んでいる。太鼓の音も、途切れたまま再び鳴る気配がない。
代わりに、どこからか人々の声が混じるのがわかった。
最初は小さく、ざわめきのようだったのが、次第に怒声と悲鳴へと変わっていく。
何が起きているのか、棺の中からでは分からない。
けれど、はっきりと感じた――これは、ただの神事ではない。
風のような気配が、棺の隙間をすり抜けた。
次の瞬間、焦げたような臭いが鼻を突く。
火……?
胸が騒いだ。息を潜めるようにして耳を澄ます。
人の叫び声、金属がぶつかる音、何かが倒れる音、そして燃え上がる炎の音。
さらに、近づいてくる――複数の足音。
突如、轟音とともに、頭上から何かが棺の蓋を貫く。
その衝撃が、私の左肩を容赦なく打ち据える。
「あ……ぐ……!」
逃れようにも、狭い棺の中では身動きも取れない中、蓋が割れたことで、外の炎がそれを照らし出す。何か太くて重たいもの――樹の枝のようなものが、私の肩を抉っていた。
……そうか、祠に
焼け焦げた匂いとともに、私はただ、熱と痛みに呻くだけだった。
左肩には、樹の枝の先端が深く食い込んでおり、そこから血がとめどなく溢れている。
視界が霞んでいく。熱と痛みと煙とで、意識が徐々に遠のいていくのがわかった。
――だめ、まだ……私は……。
突然、棺が大きく揺れる。
その衝撃で、左肩に突き刺さった大きな枝が抜けた。
何事かと、どうにか視線を動かすと、棺の脇に、血に染まった裾が見えた。
それは、私をここまで運んできた、飯山藩の者たちのもの。
倒れているその姿には動きがなく、顔は見えなかった。どうやら、この者が棺に倒れこんできたようだ。けれど、既に息絶えている。ぴくりとも動かぬ身体が、それを物語っていた。
そして、その周囲には、見知らぬ男たちが刀を構えて立っていた。
顔も衣も、この地の者とは思えない。粗野な着流しに、刃を携えた無法者のような風体。
藩士ではない。
賊――まさか、襲撃を……。
思考がそこまで至ったときだった。
燃え尽きかけた祠の中心――倒れ伏した神木の根元に、白く、靄のようなものが、空気を染め上げるように立ち上った。
最初は、それも炎の揺らぎの一つかと思った。
けれどそれは、やがて人のような、けれど人ではない形を成した。
あまりにも美しく、そして恐ろしいなにかが、そこに立っていた。
炎に照らされたその姿は、息を呑むほど幻想的だった。
衣はどこか異国めいていて、だが和とも洋ともつかぬ流麗な仕立て。
ゆらりと立つその姿は、まるで、夢の中で見た絵巻物の人物のようだった。
男とも女とも言えぬ、その中性的で妖美な顔立ちに、私はただ見入っていた。
けれどその眼――紅とも金ともつかぬ、燃えるような光を宿した瞳だけは、明らかに、この世のものではなかった。
「……ふ……ああ……」
声音は、男のものでありながらも、どこか怪しく耳に残る。
その男――否、それが視線を巡らせたのは、次の瞬間だった。
辺りを囲んでいた賊たちが、一斉にざわめくのがわかる。
そのすべてが、私の知らない者たち。けれど、その目には明らかな恐怖が浮かんでいた。
「な、なんだ……あれは……!」
「やべぇ、逃げ――」
叫ぶ声が、言葉の途中で凍りついた。
次の瞬間、強風のような何かが祠を包み込み、賊たちの姿が霧に飲まれる。気づけば、賊たちは地に伏し、誰一人として動かなかった。
「ひ……!」
短い悲鳴だけが、一つ。
それきり、辺りから声はなくなった。
目の前の男は、何もしていないように見えた。
手を振ることも、足を動かすこともなく、ただそこに立っていただけ。
けれど、確かに彼の気配だけが、すべてを制していた。
風が止む。煙が晴れる。
男はゆっくりと、足元に倒れた黒焦げの大木――ご神木を見下ろした。
淡く揺れる炎が、彼の銀の髪を紅く染める。
その眼差しに、僅かな驚きと、そして……確かに、笑みが浮かんだ。
「……なるほど。封印は、解けたのか」
微かに囁いたその声には、嘲るような響きが混じっていた。
「馬鹿な人間どもだ。己が依り代に、火にくべるとはな。ははっ、あはははっ……はははははっ!」
男は、天を仰いで高く笑った。
その声はあまりに澄んでいて、けれどどこか狂気じみていて。
その姿から、目を逸らすという選択肢すら、私には浮かばなかった。
目の前のそれは、炎の揺らぎの中で、なお静かに立っていた。
まるで、すべてが自分の手の内にあるとでも言いたげに。
私は、声を絞り出した。
「……あなた、いったい何者なのです……? さっきの男たちは、あなたが……」
その声に、ゆらりと長髪が揺れた。
こちらを見たそれは、僅かに紅の瞳を細めると、冷ややかに口を開いた。
「小娘風情が。気安く問うな」
吐き捨てるような一言だった。
虫けらを見るかのような目。
その視線に、胸の奥がじくりと焼けた。
何よ……助けたと思ったら、その態度……。
悔しさと怒りが込み上げてくる。
心臓が、胸の中で早鐘のように打ち始めた。
傷口がずきりと痛み、脈打つたびに、そこから熱が逃げていくのがわかる。
「妖怪のくせに……偉そうにしてんじゃ――」
言いかけて、ふら、と足元がぐらついた。
……あれ?
視界の隅が白く霞む。
金属を擦るような音が、耳の奥で鳴り響く。
胃の奥がぐるりと捻じれ、冷や汗が背筋を伝った。
――へ、んなの……。
言葉にならない言葉が唇を震わせる。
もう、自分が何を言っているのかもわからない。
すべてが、霞に沈むようだった。
最後に見えたのは、淡く燃える炎の中で、なお揺るがぬそれの姿。
銀の髪が、どこか名残惜しげに揺れて――。
――私の意識は、闇に沈んだ。
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