第3話 - 2
麗の朝は早い。まだ太陽が昇りきる前にスマートフォンが控えめにアラーム音を流し、1コールが鳴り終える前に画面をタップして消した。二度ほど瞬きをして、すっと意識が覚醒する。目覚めは悪くない方だ。
薄い毛布を剥いで起き上がり、ベッドから降りる。ブラインドカーテンの紐を引っ張って開けると、湘南の海が見渡せた。麗の部屋は高層マンションの12階にある。ファミリー向けの広い部屋だが、一人で暮らしている。麗が高校に通い始めてから両親の経営している病院が海外に拠点を移したので、麗は一人で日本に残ることになった。今のところ特に不自由はない。
部屋に物は少なく、額はベッドとテーブル、勉強するために使う長机と椅子、小さな棚という最低限のセットに留めている。家具はどれも白色で、全体的にグレーと白色で統一しているため、どこか無機質な印象だ。机の横の本棚には参考書が並び、医学部の赤本も置いてある。物が少ないのは単に片づけるのが面倒なので、初めから物は増やさないようにしているだけだった。
「おはよう、白玉」
愛猫のラグドールが麗の足首に身体をすりつけている。全身が真っ白の毛だが、尻尾と耳は淡いクリーム色をしている。ふわふわとした毛並みが素肌に触れてくすぐったい。
キャットフードを食べる白玉の横で、麗は立ったまま白湯を飲んだ。喉を通ったお湯が空っぽの胃に落ちていく感覚に意識を研ぎ澄ませると、自分もただの生き物なんだなという不思議な感覚が味わえる。
飲み終えたガラスのマグカップをすすいだら支度を始める。ルーティンワークは嫌いだけど、気が向いたら走りに行くことにしている。今朝はまだ涼しそうだから1時間くらいは走りたい。
スキンケアは、洗顔をしてから化粧水、乳液、日焼け止めで終わりにする。化粧してもどうせ汗で落ちるし、面倒だから初めからしない主義だ。
ジャージに着替え、海岸沿いの道を走りながら英語のポッドキャストを聞く。たまに止まって水を飲むのは、また熱中症で倒れたくはないから。あの日は寝不足で朝食を抜いていたからのもあって倒れてしまったが、それ以降は外出時には帽子を被り、マメに水を飲むようにしている。あのとき助けてくれた椿の顔を思い浮かべたら、走りながら勝手に口角が上がってしまった。
家に帰ってプロテインを飲んでからジャージを脱いだ。黒のキャミソールの上にチェック柄のシャツを羽織り、下はショートパンツに着替える。頭に日よけのキャップも忘れない。トートバッグにタブレットと参考書を入れて玄関に出ると、白玉が座って見上げていた。
「行ってくるね」
白玉の首の横の毛を撫でると目を細めて最初の3秒は喜んでくれたが、あとは満足したようでリビングの方に帰っていった。そういうそっけないところも可愛いと思いながら、麗は家の鍵を閉めた。
夏休みに突入してからは、用事のある日以外は傘屋で勉強するのが日課になっている。
傘屋までは電車に乗って行くこと40分。草色の暖簾をくぐって扉を引くと、扉の上に取り付けられていたウィンドウチャイムの細い金属の金が涼やかな音をたてる。
「いらっしゃい」
店に入ると椿がいた。空になった食器を厨房に片づける途中だったようで、右掌に載せたお盆の上にはグラスや平皿が積まれている。
「空いてる?」
「いつもの席でしょ。空いてるよ」
いつもの席とは、厨房が見えるカウンター席の一番端だ。ここだと厨房の中で働いている椿を見ることができる。
椿の今日の髪型はポニーテールだ。丸く曲線を描いた後頭部から下部にかけての凹んでいるところにヘアゴムをかけてバランスよく括っている。椿の髪は日によってお団子だったり三つ編みをアレンジしたスタイルだったり様々だ。見ていて飽きない。
椿に比べたら麗は自分の髪に気を使わない方だった。父親譲りのプラチナブロンドの髪色は珍しがられるだけで、自分では生まれたときからこの色なので特に感想を抱いたりはしない。
椿がカウンターに入り、サイフォンでコーヒーを入れていた爺さん(店主の傘町さん)の背後を通り過ぎた。カウンター下の冷蔵庫から冷えたデザートグラスを取り出し、あんみつの用意を始める。麗はじっとその姿を見守る。あまり見ていると椿に小言を言われるから、ちらちらと盗み見るようにしている。しかし麗は存在感があるせいで何をしても目立ってしまうので、椿はもう気にしないことにしているらしい。
注文してから数分もせずに椿が配膳に来てくれた。半月型のお盆の真ん中にはクリームあんみつが鎮座している。バニラ味のソフトクリームには小豆とさくらんぼ、みかん、求肥が添えられて、ガラス容器の下の方にはひし形の寒天が入っている。
お盆を置きながら椿は「どうしていつもクリームあんみつ?」と今更なことを尋ねた。
「椿が作ってくれるから」
「店員だからね」
「他のメニューもあるけど、あんみつはあそこで作ってるでしょ? この席からだと見やすいの」
麗がカウンターを指すと、椿は「見ていたのは知ってたけど……」と言いよどんだ。
「作っているところを見て面白い?」
「真剣な顔してる椿は飽きないよ」
麗が即答すると椿は黙ってしまった。唇を噛んでもごもごとしている。それから絞り出すように「その、早く食べないとアイス溶けちゃうよ」と言った。
「ほんとだ」
とろけて先から滴っていたバニラをスプーンで掬って口に運んだ。
「おいしい」
「ごゆっくりどーぞ」
「もう行っちゃうの??」
椿は後ろを向きながら目元だけで振り返った。もとから涼やかな奥二重の目元がさらにつめたく細められる。けれど声は丸くて優しい。
「仕事中」
「ええ~」
口に咥えたスプーンは手の体温でぬるくなっていた。
麗は託児所に預けられた子どものように、良い子であんみつを食べ始めた。桃色の求肥を噛むともちもちして甘い。咀嚼しながら考える。
椿は可愛い。初めて他人に対して可愛いと思った。白玉はいつもかわいいけど、特定の人間のことをもっと知りたいと興味を持つのはこれが初めてだった。
トートバッグに入れて参考書を持ってきているが、傘屋で開くことはあまりない。椿がいれば話しかけて、お客さんで賑わっていたら、スイーツを食べながら椿を観察する。椿がいなかったら爺さんに話しかけて椿の話を聞く。でも最近は椿のシフトを教えてもらったので、そのタイミングに合わせて来ている。
椿を見ていると、なんというか癒される。体の中に溜まっていた毒気が浄化されて無くなってしまうみたいに軽やかで柔らかい気持ちになる。
初めは年上かと思ったから、同い年と聞いて驚いた。大人びた印象だったのだ。顔立ちは派手ではないが品があるし、話し方がゆっくりとしていて落ち着いている。取り乱すとその冷静さが無くなってバタバタしたり、さっきみたいに口ごもったりするのがギャップで親しみやすい。同い年だと知ってラッキーだと思った。
クリームあんみつを平らげた頃、店に来た年配の夫婦が「椿ちゃーん!」と呼ぶ声がした。
「はーい」と椿が伝票を片手に夫婦の席に行く。
「椿ちゃん、大きくなったねえ。前に会ったときは小学生だったかな」と女性が親しげに声をかけ、椿は照れくさそうに笑っている。
常連客の旦那さんが奥さんを傘屋に連れてきたらしい。
「いつものはまだあるかい?」と訊く旦那さんに、椿は「煎茶と日替わりお団子のセットですね。今日はみたらし団子ですよ」と感じよく即答した。
「あら、あたしの好物」
「お二つ、お持ちしますね」
椿はにこりと目を細めた。接客スマイルだとしても邪気がなくて気持ちがいい。厨房に戻っていく椿のことを夫婦が褒めている話し声を耳にして、麗までなんだか鼻が高いような、誇らしい気持ちになった。
椿はお店の常連さんたちから可愛がられている。常連客たちの好みをよく覚えていて、お気に入りのメニューやお茶の温度の好みまで把握している。記憶力が良く、機転が利く。地頭がいいのだろう。雰囲気は文系っぽいけど、案外理系かも?
椿のことをもっと知りたいのに、椿はいつも学校のことは教えてくれない。
この間、傘屋に来たときに話そうとした時の会話が蘇る。そのときは夕方で、店は暇そうだったから話せそうだと思ったのだ。カウンターで台を拭いている椿に話しかけた。
「椿はどこの学校に行ってるの?」
「花山高校だけど」
「鎌倉から離れてるよね。ここから遠くない?」
「……家はこっちの方だから。傘町さんがおばあちゃんの知り合いなんだ。そのご縁で働いてる」
「そうなんだ!椿はバイトもしてて偉いね。部活とかは? やってないの?」
「今はしてない、かな」
「私も帰宅部だから一緒。あー、でも生徒会だけやってる。親が入れってうるさくて。ねえ、花山高校だったら私の家からも近いから……」
「ごめん」
ぺらぺらと喋ってしまって、一瞬謝られたことの意図が分からなかった。
「あまり、学校の話はしたくない」
「え……?」
椿からの初めての拒絶だった。
「ごめんね」
椿は申し訳なさそうに笑った。ふだんは釣り気味の眉毛を下げて、眉間には皺が寄っていた。目に見えないけれど、とても分厚い硬質ガラスのような壁が聳え立っている気がした。椿との心の距離は近づいたと思っていたのは間違いで、実はずっと離れていたのかもしれない。見えない壁越しに見えている椿は、それまでと変わらず可愛いままだけれど、もっとそんな邪魔なものを取っ払ったところで話してみたい。
友達だと思っているのは私だけなのか?
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