9.『春の女神』



 そうして、僕はいく日もいく日もパウル子爵邸へ通っては、リザさんをモデルに少しずつ絵の完成度を上げていく。

 何度となくパウル子爵とペーターさんに評して頂き、子爵夫人からは妙なちょっかいを掛けられ、家に帰ればギュスターヴ兄さんやエドゥアール叔父さんから


「負けるな」


 という趣旨のお言葉を貰いまくった。



 そして、コンクールの作品提出期限が迫った、ある日。




「どう、でしょうか?」



 作業部屋に、二つの唸り声が響く。溜息も、二つ落とされた。



 勢揃いした子爵一家が、僕の描いた絵を見つめている。




「……イレール君」

「はい、なんでしょう、パウル子爵」



 パウル子爵は、何も言わなかった。



 ただ、僕へ手を差し出す。

 切れ長の目を、ほんのりと緩めながら。



 僕は、自ずと持ち上がる口角をそのままに、子爵の手を握り返した。



 途端、部屋の雰囲気が、一気に明るくなる。




「おめでとうございます、イレールさん。良かったですわね」

「ありがとうございます、リザさん」

「うんうん、とっても素晴らしい作品だわ。正に『春の女神』という名にふさわしい可憐さと気品を兼ね揃えていて、ふふ。流石はエドゥアール先生の甥御さんだわ」

「イレールさん、凄く素敵です。凄く凄く素敵ですっ」

「子爵夫人もペーターさんも、ありがとうございます。こうして無事完成したのは、ひとえに皆さんのお蔭です。感謝しています」

「何を言っているのよ。頑張ったのはイレールさんじゃない。これほどの作品を仕上げてしまうだなんて、本当に目覚ましい才能だわ。これで最優秀賞を貰ったも同然ね」

「いや、それは流石に言いすぎですよ」

「あら、なにを弱気なことを言っているの。美術アカデミー会員である主人が認めたのですから、当然最優秀賞で決まりよ。ねぇ、ペーター?」

「はいっ。僕、もしイレールさんが最優秀賞を取ったら、僕のお姉様がモデルを務めたのだと、色んな方に自慢しますっ」

「いいわよいいわよ、どんどん自慢しなさい。どんどん自慢して、ドミニク男爵の奥様を、これでもかと悔しがらせてやりなさい」



 おほほほ、と楽しげに笑うリザさんのお母様から、そっと顔を反らしておく。パウル子爵もさり気なく視線を外し、一つ咳払いをした。




「……まぁ、最優秀賞かはさておき、それなりの賞には間違いなく入るだろう。自信を持ちたまえ」

「はい、ありがとうございます、パウル子爵。子爵には、本当に沢山のアドバイスを頂きました。厳しくも温かなご指導、心より感謝します。ありがとうございました」

「頭を上げたまえ。感謝ならば、結果が出てからにして貰いたいものだな。

 確かに、君の絵は見事だ。だがコンクールには、数多くの作品が集まる。中には君と同等の、もしくはそれ以上の大作があるかもしれない。そんな状況で、どの程度の結果を残せるか。当初の目標を達成出来るのか。そこが問題になってくる。いくら卓越した絵だろうと、目的を達成出来なければ意味がない。よって感謝するのはまだ早い」



 そうだ。僕は、なんやかんやでフェルディナンさんと勝負する羽目になっていたんだ。



 そして、なんやかんやで、勝たなければいけなくもなっている。




「もう。あなたったらそんな意地悪を言って。折角の楽しい気分が台無しだわ」



 ペチン、とリザさんのお母様が、パウル子爵を叩く。



「大丈夫よ。あなた自身が認めた作品なのでしょう? ならば、最優秀賞で間違いないわ。それともあなたは、最優秀賞も取れないような絵に、太鼓判を押したのかしら?」

「……私の評価がどうであれ、それが全てではない」

「そうね、他の会員の審査もありますからね。それでも、あなたが信じてあげなければ、イレールさんだって胸を張って提出出来ないじゃない」

「別に、信じていないわけではない。だが絶対ではない以上、妙な期待を持たせるわけには」

「もう。あなたって、変なところで真面目なんだから」



 もう一つ、ペチン、と音が上がる。それから、叩いた箇所を、子爵夫人の手が優しく撫でた。



「まぁ、そういうところも素敵だけれど」



 うふふ、と上目で微笑み掛け、パウル子爵に寄り添う。子爵も満更でもない顔で、己の妻の腰へそっと腕を回した。



 唐突にいちゃいちゃし始めたお二人から、僕達はそーっと顔を反らす。互いの目が合い、自ずと苦笑が零れた。




「イレールさん。こちらの作品は、直接アカデミーのサロンまでお持ちになるのですか?」

「いえ。所属している美術部経由で出して貰う予定です。部内の締切は、コンクールの作品提出期限の前日なんですけど、その頃には絵の具も乾いているでしょうから」

「まぁ、そうですか。では、丁度良かったですわね」

「えぇ。なので、三日後の放課後にでも、絵を持って帰りますね。それまでは申し訳ないのですが、こちらに置かせて頂いてもよろしいでしょうか?」

「勿論ですわ。この作業場は、イレールさんの為に用意したものです。どうぞご自由にお使い下さい」

「ありがとうございます」

「イレールさん、イレールさん」



 つと、ペーターさんが僕の服を引っ張る。



「あの、三日後に絵を持って帰られるまでは、どうされるのですか? 我が家へは、もういらっしゃらないですか?」

「一応、明日明後日もお邪魔させて頂こうと思っています。今は良く出来たと思っていても、明日改めて見たら、やっぱりこうした方がいいかな、ここはこうなんじゃないかな、と思う場合もあるかもしれませんから」

「そ、そうですかっ。じゃあ、あの、もしよろしければ、コレクションルームに、いらっしゃいませんか? 先日、展示物を交換したのです。僕も、作品選びをお手伝いしました。なので、是非イレールさんに見て頂きたいです」



 期待に目を輝かせるペーターさん。

 リザさんが、微笑みながら僕へ頷いてみせた。



「では、お言葉に甘えて」



 ぱっと顔が華やいだ。

 全身で嬉しいと語るペーターさんに、僕もリザさんも、思わず頬を綻ばせた。



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