8‐1.順調



「イレールさん。そろそろ休憩にしませんか?」



 パウル子爵邸に用意して頂いた作業場へ、リザさんが入ってきた。紅茶と菓子の乗ったワゴンを押して、近付いてくる。



「あぁ、はい。ありがとうございます」



 持っていた筆を置く。絵の具で汚れた手を拭い、エプロンも外した。リザさんが用意してくれた紅茶を頂きに、休憩用のテーブルへ向かう。



 首や肩を回す僕の前へ、リザさんはティーカップを置いてくれた。礼を言い、有難く紅茶を一口飲む。自ずと溜息が零れた。紅茶の香りと温かさが、じんわりと体へ広がっていく。




「どうですか、調子の方は?」

「順調と言っていいと思います。色付けも佳境を迎えましたし、完成まで後もう少し、というところでしょうか」



 僕は、先程まで向かい合っていたカンヴァスを振り返る。

 白いワンピースを纏った春の女神が、青々と生い茂る草木の中で、慈愛に満ち溢れた微笑みを浮かべていた。



「後は、細かい部分を描き加えて、パウル子爵達に意見を聞いて、気になった箇所を修正して、とやっていく予定です。それでも、絵画コンクールの作品提出期限には、十分間に合います」

「そうですか。良かったですわ」

「これも、リザさんを始めとした、パウル子爵家の皆さんのお蔭です。ありがとうございます」

「いえ、わたくし達はやりたくてやっているだけですわ。勝手にしているのですから、感謝などされる立場ではございません」

「それでも、この作業場を提供して下さったから、僕は落ち着いて作品作りに取り組めているんです。本当に助かりました」

「その点に関しても、元はと言えばわたくしが巻き込んでしまったようなものですから。お母様も、ドミニク男爵の奥様と張り合ったりされて。お父様とペーターなど、ただただイレールさんの制作過程を楽しんでいるだけですもの。この程度、罪滅ぼしにもなりませんわ」



 頬を押さえ、リザさんは重々しく息を吐く。

 僕も流石に、そんなことありませんよ、とは言えず、曖昧に笑って誤魔化した。




「それにしても、不思議な感覚ですわ」



 つと、リザさんは、描きかけの絵を見やる。



「これほど美しい女神のモデルを、自分が務めただなんて。やはり描き手が良いからでしょうか?」

「それを言うなら、モデルがいいから、ではありませんか?」

「わたくしはただ、立っていただけですわ」

「なら間を取って、パウル子爵とペーターさんのお蔭にしましょう。あの方々のアドバイスを元に描いてきましたから。的確な指摘が、きっと功を奏したんですよ」



 リザさんは、


「まぁ」


 と唇を緩ませる。



「そうですわね。では、父とペーターにそう伝えておきます」

「お願いします。ついでに、忌避のない意見をいつもありがとうございます、ともお伝え下さい」

「かしこまりましたわ」



 微笑むリザさんにつられ、僕も笑みを浮かべた。




 不意に、リザさんの横顔を、日の光が照らす。

 金色の髪は光を反射し、輝く粒がいくつも毛の上を滑っていった。



 美しい顔を縁取る明かりに、僕の目は自ずと惹かれる。

 直後、視界が一瞬だけ、ブレた。



 リザさんだけが、異様によく見えるようになってくる。

 いつぞやに多目的室で起こった現象が、またきた。

 夢と現実の合間にいる時に似た、不思議な感覚。




 周りの景色がぼやけていく中、僕は無言で席を立つ。足裏の感覚さえ曖昧な状態で、カンヴァスの前へ向かった。

 鳥肌の止まらない腕で筆を掴み、リザさんが纏う光をじっと見つめる。それから慎重に、絵の具を乗せていった。

 カンヴァス上の女神が、一粒、また一粒と、煌めきを帯びていく。



 しばらくすると、太陽が雲で隠れたのか、リザさんを照らす光が失せた。輝く粒も姿を消し、自ずと僕の視界も元へ戻る。




「ふぅー……」



 筆を置き、上半身を後ろに引いた。カンヴァス全体を眺め、一つ頷く。



 すると、カンヴァス越しに、リザさんと目が合った。



 ……なんか、物凄い微笑ましげなお顔をされているのですが。




「す、すいません。いきなり立ち上がったりして」

「いえ、お気になさらず。なにか良いアイディアでも浮かんだのですか?」

「あぁ、まぁ、アイディアというか、なんというか」



 テーブルに戻り、曖昧に頬をかく。



「単純に、今のリザさん、いいなぁ、と思いまして。特に、髪に当たる光の感じが、凄くいいなと。なので、その辺りをちょっと女神に描き加えてみました」

「え……あ、そ、そう、ですの。それは、お、お役に立てたようで、良かったですわ」



 さっと顔を俯かせると、リザさんはティーカップを口へ寄せた。珍しく、音を立てて飲んでいる。

 どうしたのかと窺っていたら、リザさんは、唐突に立ち上がった。




「ど、どのように、変わったのでしょうか? とても、気になりますわね」



 足早にカンヴァスへと近寄る。画面を見るや、ほぅ、と息を吐いた。



「素晴らしいですわ。太陽の光が、まるで女神だけを抜き出しているかのようです。目が勝手に吸い込まれてしまいますわ」



 頬に手を添え、もう一つ息を吐く。その拍子に、豊満な胸が、たゆんと揺れた。



「ありがとうございます」



 二つの意味で。



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