6‐1.何がしたいんだ



「ふぅ……」



 ようやく心が鎮まってきた。いやぁ、完全なる落ち着きを取り戻すまで、紅茶三杯分掛かってしまったわ。

 手持無沙汰も相まって、遠慮なくガブガブ飲んでいたら、傍で控えていてくれた使用人が、お代わりを取りに行ってくれた。なんだか申し訳ない反面、完全に一人になれて開放的というか、ほっと肩の力が抜ける。自分が思っているよりも、子爵家訪問に緊張していたのかもしれない。



 よし。こういう時は、昨日描いた裸の女神でも見るか。



 僕は、鞄を膝の上へ置き、蓋を開ける。中には、二冊のスケッチブックが入っていた。赤い表紙の方は、リザさんや子爵夫人に見られても大丈夫なよう、無難な内容しか描かれていない。

 対して青い表紙は、完全に僕の趣味。いや、四割くらいは、エドゥアール叔父さんの作品の模写なので、習作用だと言えなくもない。

 いや、習作用のスケッチブックです。




 まぁ、それはさておき。誰かが戻ってくる前に、こっそり見ておこう。

 僕は、習作用のスケッチブックを、鞄に入れたまま開く。すると、髪を両手でかき上げ、肌を惜しげもなく晒して佇む女神がお目見えした。



 いやー、我ながら上手く描けたのではなかろうか。あまりの出来の良さに、思わず持ってきてしまったんですけど。

 ほら、僕って、女性のセクシーな瞬間を見ると、意識がよく吹っ飛ぶじゃない? だから、いつも口惜しい気持ちになるんだよね。何故僕は、何も覚えていないのか。間違いなく女体の神秘を拝見している筈なのに、何故一切合切記憶にないんだ、って。こんなに悔しいことはないよ、本当。



 そういう事情もあって、最初から最後までまるっと覚えている状態で描けた時は、それだけでもう凄く嬉しいんだ。

 だから、というわけではないけれど。こうしてこっそり眺めては、自画自賛しつつニヤニヤする時間が、僕は結構好きです。




 とか思っていたら、何やら背後から視線を感じた。


 

 何気なく振り返ったら、テラスとお屋敷を繋ぐ扉の影から、小さな男の子の頭がはみ出していた。先程少しだけ顔を合わせた、リザさんの弟さんのようだ。



 何故かこちらを、じーっと見つめている。




「えっと、ペーターさん、ですよね? 初めまして。あなたのお姉様の学友で、イレールと申します。ご挨拶が遅れてしまい、申し訳ありません」



 リザさんの弟さんは、僅かに首を横へ振った。



 そして、またじぃぃぃーっと見つめてくる。



「…………えーっと……僕に、何かご用でしょうか?」



 愛想笑いを浮かべて、出来るだけ優しく問い掛ける。

 するとペーターさんは、二・三度体を揺らし、おずおずと口を開く。




「イレールさんは、まだ帰りませんか?」




 おっと。そんな真っ向から無邪気に聞いちゃいますか。



「そう、ですね。まだ、帰りませんかね」

「じゃあ、いつ帰りますか?」

「いつ、と言われますと、えー、そうですねぇ……リザさん達が戻ってきてから、ですかねぇ」



 ペーターさんは、頬をぷくっと膨らませた。明らかに、まだいるのかぁ、と言いたげである。しかし、声には出さない。他の言葉も発しない。只管無言で、僕を凝視し続ける。



 うん。非常に居た堪れない。




「……もしよろしければ、召し上がりませんか?」



 取り敢えず、目の前にあった茶菓子を手で差してみた。



「これ、僕が持ってきたお菓子なんです。うちの商会で、今一番おすすめしているもので、とても美味しいですよ。良かったら、お一ついかがですか?」

「……結構です。知らない人から、食べ物を貰ってはいけないと、お父様とお母様に言われていますので」

「あ、そ、そうですか。それは、素晴らしい教育ですね」



 はは、と乾いた笑いを零し、カップに残っていた紅茶を飲み干す。



 そこからの、この沈黙である。



 もうどうしろって言うんだ。

 込み上げてきた溜息を、静かに吸い込む。




 視界の端で、ペーターさんの様子を窺う。どう考えても、これ以上の会話は望めない。

 ならばいっそ諦めよう。貴族の嫡男だろうと知るものか。向こうが僕に帰って欲しいと思っているなら、こっちだってわざわざ話をしようと思わないわ。



 子供相手に大人げない、と薄々気付きながらも、僕は黙って鞄からスケッチブックを取り出した。勿論赤い表紙の方をだ。

 適当なページを開き、鉛筆を構える。そうして、庭に咲き誇る花や木を描いていった。



 名付けて、僕、今スケッチに集中しているので、話し掛けないで下さい、作戦。



 心の中で、あー忙しい忙しいと呟いては、淀みなく鉛筆を走らせ、美しい庭を何度も眺める。



 すると。




「……わぁ」



 不意に、真横から幼い声が聞こえた。




 いつの間にか、ペーターさんがスケッチブックを覗き込んでいる。




 驚いて、一瞬鉛筆を止めた。でも、すぐにまた動かす。気にしないフリをしつつ、目に付いた花を鉛筆で描いていった。

 その間、ペーターさんは一切離れてくれない。こんなにも相手をしませんよって空気を醸し出しているにも関わらず、だ。



 ……なんか、小さい子を無視するとか、物凄く心苦しくなってきた……。




「……絵に、興味があるんですか?」



 罪悪感に負け、口を開く。



「はい。絵を見るのは、好きです。毎日、コレクションルームで、お父様と一緒に見ます」

「そうですか。それは羨ましいですね。先程、僕もパウル子爵のコレクションを拝見させて頂きましたが、どれもこれもとても素晴らしかったです。毎日見たくなる気持ちも分かります」

「はい。お父様のコレクションは、凄いのです。凄い作品が、沢山あります」



 ペーターさんの口角が、ほんの少しだけ持ち上がった。



 お、と僕の口角も、内心上がる。



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