2‐1.噂の子爵令嬢



 放課後、僕は校舎裏にいた。平民クラスの教室がある棟と、貴族クラスの生徒が主に使う棟、二つの建物の丁度中間辺り。

 背中には校舎の壁、目の前には植木、そしてその奥には、テニスコートが葉っぱの間からチラリと覗いている。



 テニス部の声を聞きつつ、僕はスケッチブックに鉛筆を走らせた。ただいま美術部の部活中。と言っても、部員がそれぞれやりたいことをやりたいようにやっているだけ。

 美術部は平民クラスの生徒しかおらず、しかも三学年合わせて十人にも満たない。加えて芸術肌というか、協調性の少々欠けた方々ばかりなので、こうして僕は一人気ままに、野良猫のスケッチをしていると、そういうわけである。



 この場所は、たまたま見つけた。野良猫の集会場らしく、大抵四・五匹の猫が日向ぼっこをしている。

 最初は警戒されたが、餌を持って毎日訪れた結果、今では仲良く、とまではいかなくとも、いても許してくれるようになった。僕が観察していても、睨んだり逃げたりしない。ただ尻尾を揺らし、寝転がっているだけ。それがとても嬉しかった。




 特に思い出に残っているのは、いきなり目の前で交尾をおっぱじめられた時だろうか。




 いやー、あれは最高だったね。まだ明るい内から破廉恥な、と内心めちゃくちゃ爆笑した。けれど、ここで笑い出したらただの変な人なので、必死で口の内側の肉を噛み締めながら、只管目の前の光景を描き留めてやったわ。

 最後痛みに転げ回る雌と、やり切った顔で自分の股を舐める雄とか、本当もうなんなの? いや、分かっているけどね。猫がそういうものだって、分かっているけど。これを人間に置き換えたら、本当酷い。



 いつかプロの画家になったら、モデルと称して人間同士のまぐわいも見てやるんだ。



 そんな決意を新たに、僕は鉛筆を動かし続ける。ついでに、時々葉っぱの間から覗く女子テニス部の様子もスケッチしておく。

 スコートがひるがえるところや、その拍子に覗く太ももから尻のライン、ボールを返すと同時に跳ねるポロシャツ越しの胸など、テニスウェアの下から漂う女体の躍動感を大切にしつつ、せっせと鉛筆を走らせた。

 ほら、僕って、服の描写が苦手だからさ。こういう動きのある瞬間を捉えては、習作に励んでいるんだよ。うん。



 なんて言い訳をしていると。不意に、忙しない足音が聞こえてくる。

 徐々に近付く音に、なんだ? と顔を上げた。




 ほぼ同時に、女子生徒が一人、金色の髪を靡かせながら、校舎裏へ飛び込んでくる。




 壁際に座る僕と、一斉に逃げ出した野良猫達を見て、彼女は青い瞳を丸くさせた。

 だが、すぐさま後ろを振り返り、かと思えば、植木の間へ突き進む。




「あ、あのっ。わたくしがこちらへいることは、どうかご内密にっ」



 そう言うや、木の影へ隠れた。



 ぽかんと口を開けていたら、また足音が近付いてくる。今度は、二つ。



「ふむ。この辺りにはいないようだな」

「左様でございますね、フェルディナン様」



 男子生徒らしき声が聞こえたかと思えば、そのまま遠ざかっていった。



 しばしの沈黙が流れる。




「……い、行きましたか?」

「え、あ、はい」



 女子生徒が、そーっと顔を覗かせる。警戒する兎みたいに青い瞳を動かし、周囲を窺った。そうして安堵の息を吐くと、木の裏からぎこちなく姿を現す。

 大きな胸を、やんわりと揺らしながら。



 見覚えのある胸に、自ずと彼女の正体が分かった。




「お寛ぎのところ、大変申し訳ありませんでした。また、不躾な頼みを聞いて下さり、誠にありがとうございます」



 育ちの良さが窺える一礼に、思わず僕も頭を下げ返す。

 ついでに、彼女の動きに合わせて波打つ胸も、さり気なく見てしまった。



「失礼ついでに、一つお願いがあるのですが……もしよろしければ、もう少しだけ、こちらに隠れさせては頂けないでしょうか? 今出ていくと、鉢合わせてしまうかもしれませんので」

「あ、はい、それは、大丈夫です」

「本当ですか? ありがとうございます。とても助かりますわ」



 彼女はもう一つお辞儀をすると、僕の隣へやってきた。ハンカチを地面に敷いて、ちょこんと腰を下ろす。長い金色の髪を左の肩へ流し、一纏めにしてから自分の太ももの上へ乗せた。



 ……なんか、いい匂いが漂ってくる。



 髪にオイルでも付けているのかな。それとも、彼女自身の匂いだろうか。馴染みのない香りに、ちょっとドキドキしてきた。でも、緊張していると知られるのは恥ずかしいので、いや、別に気にしていませんけど? っていう顔でスケッチへと戻る。

 流石にテニス部女子の胸や尻を描く勇気はないので、さっきまでいた野良猫の絵に、毛の流れや影を付け加えていった。




「……お上手ですのね」



 つと、間近で声が上がる。



 視界の端に、可愛らしい顔と大きな胸が入り込んできた。



「……ありがとうございます」

「猫、お好きなのですか?」

「そう、ですね。モデルにするぐらいには」

「学校で飼っていらっしゃるのですか?」

「いえ、あの子達は野良猫です。いつもこの辺りに集まって、各々好きなように寛いでいるんですよ」

「そうなのですか。可愛らしいですわね」

「そうですね」



 素っ気なく答えつつも、意識は完全に胸へ向かう。

 この距離で見ると、一層迫力があった。なんせ、首元に巻いたリボンが、胸の上に乗っているんだよ? 一年生カラーの赤に、貴族の証である金色のステッチが入ったリボンが、意気揚々と寝転がっているんですよ?

 おいおいリボン君、羨ましいなこの野郎。滅多にお目に掛かれないたわわな胸に、毎日毎日乗っかれてよぉ。ちょっと僕と場所を代われやこら。



 とか思っていたら。




「あの」



 彼女の声に、ぴくりと小さく肩が跳ねる。

 しまった。あまりの羨ましさに、見つめすぎたか。



 怒られるかな。恐る恐る顔を上げると。




「失礼ですが、イレールさん、でいらっしゃいますか? 画家のエドゥアール先生のお弟子さんの」




 彼女は、拍子抜けするほど平然とした表情で、僕を見つめていた。



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