第100話「空と海と盟友と」

「わあ……すごい景色」


 ドラゴンの里のはずれ、丘の上からの眺めにアイリーンは感嘆の声を上げた。


 四方を山に囲まれた里だが、この丘から海へ向かっての方向には視界を遮るものが存在しない。

 アイリーンの目の前にはただただ蒼穹の空が広がり、足元には遠く海に向かって緑の山肌が伸びていた。


「すごいねー。あれが海っていうものなんだ。ねー、綺麗だねー」


 アイリーンの言葉の後半は、お腹に向かって語り掛けられたものだった。

 といっても、アイリーンのお腹はまだまだぺたんとしており、そこに命が宿っているなんて到底思えないほどのものだが。


「まだ聞こえねえだろ、腹ん中でガキの形もできてねえよ」


 そう苦笑するウルスナに、アイリーンはむうっと膨れ面を返す。


「いつ赤ちゃんの魂が宿るかわかんないじゃない。こうして今のうちからお話ししておけば、ママのお腹にいる頃から愛してくれたなーって思ってくれるかもしれないでしょ」


「腹のうちにいるときのことなんて覚えてるわけねーだろ。お前、覚えてるのか?」


「そりゃ覚えてないけどぉ」


「だろ。そもそもあれが海だよって言われたって、腹の中からじゃ見えねえだろうが。はあそうですかってなもんだ」


 シシシとウルスナは笑いながら、どかっとアイリーンの横に腰を下ろす。


 この場にはアイリーンとウルスナしかいない。

 クーデターが鎮圧されてから数日、一躍時の人となった雄士はドラゴンたちに歓待を受けて里に留まっていた。

 雄士がドラゴンたちに囲まれている間、お嫁さんたちは里を自由に観光していいという許可を得て、里じゅうを散策していたのである。


 とはいえ特に観光資源などない村のこと、早々に見るものも尽きたのだが……。

 退屈を持て余していた折、ウルスナがいい景色が見られる場所があるとアイリーンを連れ出したのだった。

 ちなみにアミィも誘ったが、雄士のボディガードをしたいからと断られた。確かにドラゴンを素手で殴り倒せる人間などアミィだけだろうが、アミィには雄士を守れる自分に価値を見出してるところがあるなとウルスナは思っている。

 デアボリカ? あんなのどうでもいいが、ドラゴン相手に特産品を売りつける商談で忙しいようだ。万が一にでもあいつがドラゴン相手に詐欺でも働かないよう、ウルスナは密かに目を光らせていた。


 草原を渡る冷たい秋の風が、さあっとウルスナの頬を撫でる。


「……ま、ガキが大きくなった頃に話のタネにはなるかもな。お前のかーちゃんととーちゃんは、ドラゴンの里に行って内乱を食い止める大活躍をしてきたんだぜ。そこで見た高原の景色が絶景でな、いつかお前も連れてってやるよ……ってさ」


「ふふっ」


 ウルスナの言葉に、アイリーンはおかしそうに喉を鳴らす。


「絶対信じないよね、そんなの。あたしだったらホラ話だって思っちゃうよ」


「かもな。俺だってほんの一か月前の自分に、お前これからドラゴンの里に行ってドラゴンを撃ち落とすぞって言っても100パー信じねえ」


 ざあああああああああああ……と草原を風が走り抜ける音がする。

 どこか地鳴りにも似た風の音を聞きながら、アイリーンとウルスナは並んで遠い海を眺めた。


「ユージィはすごいよね」


「そうだな」


「あたしみたいなのがドラゴンの里に足を踏み入れるなんて、まだ現実感がないんだ。そういうのは歴戦の冒険者とかがすることで、冒険者になって半年のあたしなんかがいていい場所じゃないよね」


「歴戦の冒険者どころか……。こんな場所に来れた冒険者なんて、俺たちが史上初だろうぜ」


 ウルスナの言う通りだった。

 歴史上、この里を訪れた冒険者は皆無だ。

 侵攻に来た軍隊はいたが、陥落せしめたことはない。途上にある険しい山々によって足をとられたところを、ドラゴンたちの集中砲火によって山ごと焦土と化した。

 雄士たち一行こそ、友好的にドラゴンの里に足を踏み入れた史上初の人間である。


「……あたし、こんなところにいていいのかな」


 アイリーンはぼそりと呟き、膝を抱えてしゃがみこむ。


「たまたま好きになった男の子がユージィで、ただそれだけがあたしがここにいる理由。あたしはアミィさんみたいにホウキに乗れないし、ドラゴンを一発で殴り倒したりできない。ウルスナみたいにドラゴンの群れをまとめてなぎ倒せるような魔術も使えない。……あたし、本当にここにいていいの? ユージィの赤ちゃん産む資格なんてあるの?」


「……」


 後半に連れてどんどん涙混じりになっていくアイリーンの言葉を、ウルスナは目を閉じながら聞いた。


 アイリーンの気持ちはわかる。正直、自分だってそう思っている。

 しかしウルスナはニッと不敵な笑みを浮かべると、ぐしぐしとアイリーンの髪を乱暴な手つきで撫でた。


「馬鹿だなあ、おめーは。女に生まれてきた時点で、ガキを産む資格は神様に与えられてんだよ。好きな男のガキを孕んだんだ、今更引き離す権利なんざ、たとえ王様だろうがあるもんかよ」


「だけど! あたし、役に立てないよ! アミィさんみたいにユージィを守ることもできない! ウルスナみたいにカッコよく商談でユージィのサポートをしてあげることもできない! あたし、ただの孤児だもの! お貴族様のアミィさんやウルスナとは違うの! 何の教育も受けてない平民の、冒険者になって半年のひよっこに過ぎないの……! こんなあたしが、本当にユージィのそばにいていいの!?」


 そんなことはない。アイリーンに秘められた魔力や直感は天賦のものだ。特にあの防御魔術はすごい。ドラゴンのブレスですら跳ね返してみせたではないか。あれを真似しろと言われてできる人間が、どれだけいようか。

 正直に言えば、ウルスナにもできない。誰もいないところでこっそりと真似してみたが、複数枚のバリアを頑強に組み合わせて結界とするのはすさまじい集中力が必要だった。ましてや任意の方向に敵の攻撃を弾き返すよう瞬時に計算するなど頭がおかしくなりそうだった。あれはアイリーン個人のセンスによる神業なのだ。


 だから自信を持て、お前は十分すごい。……そう言ってやるのは容易いが、問題の本質はそういうことではない。

 要はアイリーンが感じているのは劣等感だ。普段は自分と同等に振る舞っているアミィとウルスナが、突然アイリーンには逆立ちしてもできないような芸当をしてみせたのに焦っているのだ。

 そしてその後押しをしているのがマリッジブルー。結婚に伴う環境の不可逆な変化に、このまま結婚して子供を産んでしまってもいいのかと悩んでしまっている。


 涙をぽろぽろ零しながらこちらを見ているアイリーンに、ウルスナは小さなため息を吐いてみせた。


「いていいんだよ。当たり前だろうが」


「でも……」


「じゃあお前、ユージーンの嫁にはふさわしくないから別れろ。子供も堕ろせ。……そう言われたら受け入れるのかよ」


「やだ!!」


 アイリーンはお腹に手をあて、ばっと身をよじってまだ見ぬ我が子を庇う。

 ったく。


「嫌だろ? 抵抗するだろ? それでいいんだよ。お前がユージーンのそばにいていいかどうかは、お前自身とユージーンが決めることだ。それ以外は誰が何を言おうがただのノイズだ、聞き流せ。お前の心が自分はふさわしくないって言うなら、ガキのことを考えろ。ガキにとっちゃ、お前とユージーンが世界で一番頼れる存在だ。お前が味方しないなら、そのガキにはユージーンしか頼る者がいないんだぞ」


 ウルスナの言葉に、はっとしたようにアイリーンは自分のお腹を見つめる。

 そんなアイリーンの頭を、ウルスナは柔らかな手つきで撫でた。

 いつの間にかバンダナを外しており、煌めくような金髪が秋風にそよいでいる。


「わかります。不安なのでしょう? わたくしたちは親に愛されず育った子供ですから、そんな自分がまともな親になれるのかと悩む気持ちはとても理解できます。わたくしも同じ気持ちですわ」


「ウルスナも?」


 見上げてくるアイリーンに、ウルスナは頷く。

 アミィがこの場にいなくてよかった。彼女の前では、きっとこんな話はできなかっただろう。きちんとした親に育てられたアミィの前ではアイリーンは心を開かなかったかもしれない。何より、自分がこんな感情を隠し持っていることをアミィに知られたくない。まともな親を持つアミィに嫉妬していることを本人に知られるなんて、ウルスナの矜持が許さない。


「ええ、アイリーン。わたくしも同じ不安を持っています。自分は子に愛情を注げる母親になれるのか。自分はユージーンにふさわしい伴侶であれるのか。……なら、同じ悩みを持つ仲間同士助け合えばいいじゃないですか」


「助け合う……」


 瞳を大きく広げるアイリーンに、ウルスナは頷きを返す。


「はい。一緒に育てていきましょう。孕んだ時期もほぼ同じなのです、産む時期も同じでしょう。双子のように育つでしょうから、互いの子をお腹を痛めて産んだ実の子のように慈しんで育てましょう。もしわたくしたちのどちらかの身に何かあれば、残った方が2人を我が子として守り育てるのです。わたくしたちは“家族盟友”なのですから」


「……うん。何かあればなんて不吉だけど……約束するよ。ありがと、ウルスナ」


 アイリーンははにかむような微笑みを浮かべ、こくりと頷いた。


「えへへ。ウルスナと一緒にお嫁さんになれてよかったな」


「ええ、わたくしもそう思いますわ」


 アイリーンが欲しかったのは、慰めではない。共感だ。

 同じ悩みを持つ同志がいて、助け合おうと言ってくれた。その事実がアイリーンの心を満たし、少しだけ母親としての強さを得る。


 さて、アイリーンの不安はウルスナが晴らしてくれた。

 ではウルスナの不安は誰が晴らしてくれるのか。

 自分は本当にここにいていい人間なのかという疑問は。


 正直、ウルスナですら自分は場違いではないかと考えてしまう。天下に名だたるシャルスメルの辺境伯家を生家にして、なお分不相応を疑うほどに、今彼女たちが置かれている立場は重い。

 何故なら彼女たちは今、ドラゴンと人間という長らくいがみ合ってきた2種族の融和という歴史のターニングポイントにいるのだ。もし仮にここで誰かが突然ドラゴンたちに魔術を振るい虐殺を行ったりすれば、両種族は世界の終わりまで殺し合うことになるだろう。


 自分たちは人間種族を代表する親善大使なのだ。誰に任じられたわけでもないが、いつのまにかそうなっている。

 高位貴族としての教育を受けているウルスナには、自分たちが途方もなく重い立場に置かれていることが理解できてしまっていた。そしてそのカギを握るのはよりにもよって、雄士という人類トップクラスに思考回路が意味不明なソシオパスなのだ。ここで雄士が何か対応を誤れば、ドラゴンと人間は戦争状態に突入しかねない。


 いっそアイリーンのように視野が狭くマリッジブルーごときで落ち込める幼い自意識しか持たないなら、自分の置かれた状況に気づかずにいられただろうに。わかってしまったばかりに、ウルスナは密かにキリキリと胃を傷ませていた。この痛みが我が子に伝わらないことを祈るばかりだ。


 この胸の不安は、わたくし一人で飲み下すしかないのでしょうね。

 ウルスナはそう胸の中で独りごち、苦笑を浮かべた。


 この不安を打ち明けられるような者はいない。アミィならわかってくれるかもしれないが、自分が不安を抱いているということ自体をアミィに知られたくない。

 ウルスナにとって、アミィはライバルなのだ。お人よしで、朴訥で、美形で、腕っぷしが強く、意外に学識もあり、この上なく頼りになる。そうした美点を持つアミィのことを信頼している一方で、そんなアミィに負けたくないとも思う。

 女としてのプライドが、アミィには負けるなとウルスナを衝き動かしている。


 こうして自分がアイリーンに親切にしてあげているのも、姉貴分としてアミィより頼られる存在でいたいという打算に過ぎないのかもしれない。

 そんなことをちらりと考えてしまい、ウルスナは密かに溜息を吐いた。


 客観的に見れば、ウルスナだって十分にお人よしだし、妹分のアイリーンが可愛いという気持ちは真実なのだが。たとえウルスナくらい頭が良い人間であっても、自分のことは正確には分析できないものなのである。


 ……よし!

 ウルスナはバンダナを頭に巻き直し、ぱんっと自分の両頬を叩くと、おもむろに立ち上がる。


 この胸の不安を癒す手段はただひとつしかない。


「帰ったら思いっきりユージーンに甘えていちゃいちゃするぞー!」


 男だ!

 たくましい男の腕に抱かれているとき、女はすべての悩みを忘れられるのだ!



≪説明しよう!

 我々の世界の男が嫌なことがあったときに柔らかな女の肌に触れてストレスを解消するように、この世界の女はゴツゴツした男の腕に抱かれてストレスを吐き出す!

 たとえ貞操逆転しようとも、異性とイチャつくことでストレスを発散するのはどこの世界でも同じなのだった!≫



「え、ずるい! あたしもあたしも!」


「さっきお前の悩みを聞いてやったろ。その分俺にいちゃつかせろよ」


「それとこれとは話が違うでしょー!」


 子犬のように周囲をぴょんぴょんと跳ねて抗議するアイリーンにけらけらと笑い声を返しながら、ウルスナは蒼穹の空を背に草原を下っていく。


 ああ、秋風に吹かれて随分と体が冷えてしまった。

 これはお腹の子供にも大変良くない。

 早くパパの肌で暖めてもらって、安心させてやらないとな。


 そんなことを胸の内で呟きながら、ウルスナはドラゴンの里の風景を心に焼き付けていく。


 いつかわたくしたちの子供が、この場所からどこまでも広がる青空と海を見ることがありますように。

 それは未来へと続く願いだった。


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今回で100話到達です!


100話も付き合っていただいてありがとうございます!

ここまで面白ければ何卒☆やハートで応援いただければ嬉しいです。

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