Shut

@Safetypin

Shut

 ファインダー越しに見える世界だけが、現実だった。

 景色は滲み、嘘みたいに光る。それはあまりにも遠く、決して触れられない程にただ遠い。

 

 

 秒針すら黙り込む部屋。

 散らかった机の上、無造作に置かれたカメラだけが、唯一変わらない存在感を放っていた。そこだけ時間が止まったように、沈黙を湛えている。

 

 ――いつから、私は「風景」になったのだろう。

 

 自嘲気味な思いが胸をかすめる。

 薄暗い部屋の窓際に立ち、ぼんやりと外を眺める。遠くに見えるネオンの灯りが、まるで呼吸するように明滅している。

 どこかで車が走り去る音がして、続いて訪れる静けさに心はまた引き戻される。

 真夜中の音が私を絡め取っていく。

 

 日常はコピー&ペーストだ。

 起きる。息を吸う。そして夜が来る。それだけ。

 そんな定型句のような繰り返しのなかで、心に巣食う不安と焦燥感は渦を巻きながら大きく育っていくばかり。

 

 けれども行動を起こすだけの勇気も、そこに至る動機さえもない。

 考えすぎて疲弊し、結局は何もしない――そんな毎日。

 

 太陽の下は居心地が悪かった。

 陽光は明るすぎて、むしろ私の輪郭をぼやけさせる。

 

 だから夜の音、そして影が私を甘美に誘う。

 夜の街灯が照らす一瞬の情景だけが、かろうじて私を現実に繋ぎ留める。それはまるで、蜘蛛の糸のように脆く、そして確かな存在だった。

 

 カメラを手に取る。

 僅かに抵抗する重みが確かにそこにある。少し冷たいその感触が柔らかく馴染み、心がわずかに落ち着く。

 レンズを拭きながら、ふと自分がこのまま何も変わらずに生きていくのかと考えた。

 

 答えは、期待していない。

 期待するほどの意欲もない。

 

 コートを羽織り、ドアを開ける。廊下に一歩踏み出すと、アパートの古い階段が軽くきしむ音が響いた。

 足元から冷たい空気が這い上がり、頬に触れる。息を吐き出すと、白い霧が一瞬、夜の中に浮かんで消えた。

 

 現実逃避だと誰かが嗤う。

 けれど、そんなことはどうでもいい。夜に紛れてしまえば、きっと聞こえなくなる。

 

 ――夜が、煩い。

 

 

 まばらな光を追って、足はただ動く。

 目的もなく、ただ漣に乗るように夜を移ろった。

 

 迷い込んだのは駅のロータリー。

 壁一面に並ぶ幼稚園児たちの絵。昼の喧騒が消え、まるで美術館のようだった。

 

 無意識にファインダーを覗こうとして、やめた。代わりに、目の前の絵に引き寄せられる。

 

 『うみのいきもの』


 幼稚園児たちが描いた、好き勝手な線と、やけに鮮やかな色。

 

 「綺麗ですよね」

 

 気づけば隣に少女がいた。

 目線は絵に向いているようで、どこにも焦点が合っていないようにも見える。視線が交わりそうでいて、決して合わない。

 

「自由とは、斯くあるべきでしょう」

 

 絵の中央、赤いクラゲを指さす。

 主役というには、地味すぎて、クラゲというには、派手すぎる。

 その存在は、中途半端に浮遊していた。名前のわからない、曖昧な輪郭。

 

 ――自由ってみんなで作るもの?

 

 疑問。

 『海を描こう』と決められた上で筆を取ること、それは本当に自由なのか?

 赤の輪郭がぼやける。

 

「このクラゲは誰かの意思で『ここにいる』ことを運命付けられました」


 クラゲと海。

 赤と青の境界は曖昧になる。


「けれども、彼は溶け込んでいます。思うに自由とは"自由らしさ"を得ることです。ほら、まるで何者にも縛られず漂っているみたいでしょう?」

 

 ――じゃあ、自由なんてないんだね。


「滲み、馴染み、調和する。本来、それは輪郭を持たないものです。けれど、太い主線で自己を描くのは、些か協調性に欠けると思いませんか?」


 いつの間にか少女の姿さえも曖昧になっていく。

 カメラを構え、静かにシャッターを切る。夜の街灯の下、フラッシュも焚かない静かな撮影。

 乾いたシャッター音だけがかすかに響く。


「……それとも、あなたは"輪郭"を失うのが怖いのですか?」

 

 ファインダーに映らない少女の像は、静かに笑う。

 壁に貼られた絵だけが、変わらずそこにある。

 

 私は、この子と話していたはずなのに。

 そんな疑問が浮かんだけれど、深く考える気力も湧かない。私は絵に描かれた赤いクラゲをもう一度見つめ、それから歩き出した。

 

 

 聞き慣れた音が、夜道を裂く閃光を生む。

 それはどこか、ノスタルジックな感覚さえ呼び覚ます。

 

 壊れかけたベンチの上。

 風に煽られ、赤い光が頼りなく明滅する。

 

 その風が運んできた焦げた香りが、タバコの存在をそっと知らせた。

 吐き出した白は、彼女の苦悩のひとかけらのようで、霧散してはまた戻る。

 

 「いいカメラだね。何を撮るの?」

 

 擦り切れたような微笑が私に向けられる。

 私は何も答えられず、カメラをそっと抱え直す。

 

 ――現実。


 のつもり。

 それでも、言葉は濁る。


 一拍。

 煙が漏れ、口元を彩る。

 

 「誰にとっての?」

 

 彼女の問いは、煙よりも薄く、けれど確かに肺の奥に焼きついた。

 

「たかが紙切れ1枚、何をもって真実を語るんだろうな」

 

 捨てられ擦り切れた週刊誌。

 その1ページに、彼女の捨てた煙草の死骸が重なる。


 ――それでも、事実以外は写せない。

 

 灰が舞う。

 子どもの冗談を聞くように、笑顔の彼女は首を振る。


「"真実"と"事実"。真実は不変だが、事実は誰かの目と手で形を変える。粘土みたいだな?」


 薄気味悪く明滅する自販機の鼓動が早まる。

 

 「カメラに映るものは、お前の目が見たものじゃない。機械が切り取った"別の視点"だ。印象的な構図を狙うなら尚更、作為が入る。さぁ、お前の言う現実はどこにあるんだろうな?」

 

 白い煙が黒に飲み込まれる。

 言葉の端々に棘があるのか、それとも単なる事実を冷静に述べているだけなのか判別がつかない。

 

 女は夜空を見上げた。

 けれど街の明かりが強すぎて、星はほとんど見えない。

 

 「まあ、私だって同じだよ。誰だってそう。結局、人は自分の選んだものしか見ないし、信じない。そうでもしないと、こんな世界じゃとてもじゃないけど生きていけないからね」

 

 言葉が終わるのを待っていたかのように、ビル風が吹き、落ち葉が小さく渦を巻く。

 

 今度は私がカメラを構え、シャッターを切る。

 すると、そこに残ったのは路上に捨てられたタバコの吸い殻と、古い週刊誌。

 そして彼女の煙草の香りが、そこに残る。

 

 私はベンチに手を置き、少しだけ空を見上げてみる。

 けれど、星はまばらで、意地悪なほど見えない。街の光が強くて、星の弱い輝きは打ち消されている。

 

 私も、この街にかき消される1つの影に過ぎないのかもしれない。

 

 思わずもう一度シャッターを切った。何を写したいのか、何を残したいのか自分でもわからない。

 それでも少なくとも、今は切り取られた視点のほうが正しく思えた。

 小さな箱の中で、私は世界を覗いている。


 

 見えない光を追うことに飽き、ベンチを後にする。

 

 どこへ向かうでもない。

 闇夜の街をさまよい、ネオンに照らされる道路や、人気のない裏路地、看板だけ煌々と照らされた閉店後の商店街を彷徨う。

 

 ふと、暗がりの一角で水音がした。

 近づいてみると、小さな公園の噴水だった。夜の噴水は止められているかと思いきや、かすかに水が噴き出している。

 昼間の子どもたちの笑い声が嘘のように消えた空間。


 必要とされることで存在できるというのは、人も物も場所も同じだ。

 

 ベンチの傍には猫が一匹、丸くなっている。

 近づくと目だけがこちらを向いた。


 鋭い視線。

 ひどく饑えているわけでもなさそうだが、人間を警戒しているのか、こちらを睨むように睨んでいる。私はしばらく猫を見つめた後、カメラを構えた。

 

 フラッシュも焚かず、ただ街灯の明かりだけで撮る。

 撮れた写真はきっと暗すぎて、猫は見えないだろう。

 

 それでも良かった。

 私はシャッターを切ることでしか、この世界に触れられない気がしている。

 

 猫はすぐに立ち上がり、フェンスを越えてどこかへ消えていった。

 追いかける気にはなれなかった。

 

 

 夜を渡るうちに、何度も同じような街角を通り過ぎる。

 24時間営業のコンビニの灯り、深夜でも煌々と光る自販機、そしてその照明すら届かない路地裏。

 

 もしかすると、同じ場所を通ったかの知れない。

 それでもどれもやけに新鮮に映るのは、夜が特別な時間だからだろうか。

 

 雑居ビルの陰から漏れる蛍光灯のわずかな光で、一組の男女が言い争っているのを見かけた。

 言い合いというほど激しい声ではなく、どこか淡白に、けれど互いの言葉に毒を含んでいるようなそんな口調だった。


 傷付ける道具として、拳でなく言葉を選んだのだろう。

 まるで、相手の心を抉りたいがためだけに発せられるようなささやき声。

 

 二人とも痩せていて、頬がこけている。

 男は震える手でタバコを持っているが、なかなか火をつけられないようだ。

 女はそんな男の手元を冷めた目で見ている。

 

 私に関わりのないこと。

 

 そう思いつつも、私は何故かシャッターを切る。

 こんなやり取りを撮ったところで、何の意味もないのに。


 それでもレンズ越しの光景にしか心を注げない自分がいる。

 意味や動機なんて後付けでいい。撮らなければ何も残らないのだから。

 

 やがて二人は気づいたように、私を睨んだ。

 しかし私がカメラを下ろすと、すぐにまた小声で言い争いを再開する。


 お互いに相手の言葉を聞くつもりはなく、ただ傷をえぐり合うために言葉をぶつけ合っているように見えた。

 彼らの世界に私はいなかった。

 

 

 遠くで鳥の声が聞こえた気がする。

 

 夜明けが近い。

 けれど街は依然として、薄暗いまま。

 ビルの合間から少しずつ空が白み始めるのを感じる頃、私は川沿いの遊歩道に立っていた。

 

 波のない川面は鏡のように街の光を映し出している。

 そこに歪んだ月が映り、風が吹くたびに揺らめく。私は思わずシャッターを切った。切り取られた光景は、私にどんな感情を与えるのだろう。

 

 綺麗、なのに、どうしてこんなに悲しいんだろう。

 その瞬間、心が微かに震えた気がした。けれど、その小さな震えを覆い尽くすように虚無感が去来する。


 いつもそうだ。

 何かを感じても、すぐにそれは雲散霧消してしまう。私の心はすっかり冷めきってしまったのかもしれない。

 そうではないことを期待しつつも、どこか自身の内面の諦観が見え隠れする。

 

 川沿いを歩き、やがて橋の上に差し掛かる。

 動き出した電車の音が遠くから微かに聞こえる。人々が起き出すまでにはまだ少し時間があるだろう。

 

 私は橋の欄干に寄りかかり、ぼんやりと下を覗いた。

 川面は静かで、私の姿を吸い込むように映し返す。そこにはぼんやりとした顔の自分がいた。疲れた表情。覇気のない瞳。

 

 こんな姿を撮る価値があるのだろうか。

 

 自嘲気味にそう思いながら、ファインダーを覗いてみる。

 けれど、そこに映るのはただの影でしかない自分の姿。少し歪んだ、儚げな存在。

 

 私はカメラを下ろした。

 嫌にシャッターは重かった。

 

 数秒その場に立ち尽くしてから、ゆっくりと歩き出す。

 川沿いを抜け、大通りへ出た頃には、街は朝へと移ろう一歩手前だった。空は薄青く染まり、ビルの上にかすかな光がにじんでいる。

 

 

 どこかで一息つこうと考え、見つけたのは年季の入った喫茶店。

 鉄の扉に小さな看板が掛かっている。大きなチェーン店ではなく、個人経営らしい。


 扉を開けると、コーヒーとタバコの混ざったような匂いが鼻をくすぐった。

 今時珍しい、煙草の吸える喫茶店。


 ある側面では時代に取り残された存在だ。

 

 店内は薄暗く、アンティーク風のランプが申し訳程度に照らしている。

 客はほとんどいない。


 レトロなテーブルがいくつか並んでいて、一番奥に初老のマスターらしき男性がカウンターの向こうでコーヒー豆を挽いている。 

 短い挨拶と共に小さく頭を下げるマスター。

 私はカウンター席に腰を下ろした。何か頼もうとメニューを見ようとする前に、マスターが苦味の効いた深煎りの香りを漂わせたコーヒーを差し出してくる。

 

 「お疲れのようだからね、これがいいよ」

 

 どうやら私の顔色を見て判断したらしい。

 遠慮なく受け取り、一口飲んだ。

 少し濃いめで、酸味は控えめ。ほどよいコクと苦味が自己主張を始めた眠気を吹き飛ばしてくれる。


 私は黙ったままコーヒーを飲み続ける。

 マスターはそれを見て、慣れたようにカウンターの向こうで別の作業を始めた。


 朝の仕込みだろうか。

 静かな店内には、豆を挽く音と換気扇の軽い音だけが響く。

 

 「夜通し撮影でもしていたのかい?」

 

 マスターの声に、私は少し首を傾げた。

 どうやら肩から下げているカメラを見て察したようだ。私は小さく頷くだけだった。

 

 「うちの常連さんにもカメラ好きがいるんだよ。世界を色んな角度から見つめるのって、面白いだろうね」

 

 マスターの言葉に、私は微妙な表情を浮かべる。

 自分の中で“面白い”という感覚は失われて久しい気がしていた。

 

 「……そう、ですね」

 

 心にもない返事が出てしまう。マスターは短く笑い、一瞬だけこちらを見る。

 そして、それ以上は何も言わない。私はコーヒーを飲み干し、カウンターに小銭を置いて店を出た。


 立ち上がる時、やけにカメラが重く感じた。

 

 

 外へ出ると、空気は少し肌寒いけれど、夜の鋭い冷たさとは違った。

 深夜から早朝へ、そして朝へ向かうこのわずかな時間帯は、世界が色を変える過渡期のようにも感じられる。

 

 コーヒーの苦味がまだ口の中に残っている。

 私は無性にシャッターを切りたくなって、通りの向こうを撮影した。


 ビルの狭間に差し込む柔らかな光。

 まだ開いていないお店のシャッターに描かれた落書き。全てが、光を帯びつつある。

 

 やがて私は大きな橋へ出る。先ほどとは違う橋だ。

 街の中央を流れる大河に架かる歩道付きの橋で、朝の風景が少しずつ動き出していた。

 小走りの学生、自転車を押すサラリーマン、犬の散歩をする老人。夜には見られなかった人々の生活が、呼吸するように動き始める。

 

 橋の上に立ち止まって、私は再び川面を見下ろした。

 今度は朝の光をまとった水面が眩しくきらめいている。

 夜とはまるで違う顔を見せる川。私はシャッターを切る。


 切り取られる一瞬一瞬が、私の中で少しだけ温かさを生んでいる気がした。

 

 しかし、その温もりはやはり長続きしない。

 心はすぐに冷え、むしろ夜の静かな闇が恋しくなってしまう。

 生き生きと活動を始める人々の姿を見ていると、自分がまるで置いてきぼりを食らったような気分になるのだ。


 太陽の下はやはり居心地が悪かった。

 

 

 街が完全に目覚める頃、私は人混みに流されながら駅前に戻ってきた。

 さっきとは打って変わって、人が多い。

 学生服、ビジネススーツ、作業服、さまざまな人々がロータリーのバス乗り場やタクシー乗り場へ足早に向かっている。

 

 何気なく、昨夜見た幼稚園児の絵の壁を探す。

 陽光にさらされて、夜とはまた違う表情を見せていた。


 賑やかな人波の中にあって、むしろそのカラフルな絵が浮き立たずに溶け込んでいるのが不思議だ。

 少なくとも美術館の様相はもはや無かった。

 

 あの少女はもういない。

 ファインダー越しに見える世界だけが、やはり現実だった。

 

 通行人にぶつかりそうになりながら、私はまたシャッターを切った。

 クラゲの輪郭は思ったよりも曖昧だった。

 

 

 やがて一日が動き出し、私は疲れ切った身体を引きずるように家へ戻る。

 昼間の街はどこか落ち着かない。

 周囲の人々は当たり前のように動き、時間に追われ、息を切らしながら生きている。

 

 私が住むアパートは築年数不明の古い建物だ。

 階段が軋む音にさえ慣れてしまった。


 玄関を開け、部屋に入ると、相変わらず散らかった机の上にカメラをそっと置く。

 シャッターを切るだけで精一杯だったのか、撮った写真を確認することすら面倒だった。


 本当は真実から目を背けたいだけかもしれない。

 ノイズを振り切りベッドの上に倒れこんだ。


 やがて眠りに落ちる。

 瞼を閉じても、夜の残像が網膜にちらついていた。

 

 

 目が覚めると、夕方だった。

 窓から差し込むオレンジ色の光が部屋の埃を照らしている。

 外からは子どもたちの笑い声が聞こえ、その奥で遠く車のクラクションが鳴っている。

 

 私は起き上がり、冷蔵庫を開けて水を飲む。

 空腹感もあるが、外へ出る気力が沸かない。


 ふと視線がカメラに移る。

 レンズキャップを外し、先ほど撮った写真をディスプレイで確認してみた。

 

 そこに映し出されるのは、どこか非現実的な街の姿。

 見慣れたはずの風景なのに、画面の中では異様な静けさや哀愁のようなものが強調されている。


 私が本当に見たかったものは何だったのだろう。

 

 どれもこれもピントは合っているのに、何かが欠けているような気がした。

 まるで、私自身の感情のピントがずれているかのように。

 

 

 日はまた暮れる。

 私は再びコートを羽織り、部屋を出る。


 夜は好きだ。

 すれ違う人々の顔がよく見えないのも、逆に安心できる。見透かされることも、知る必要もない。

 

 街灯が灯り、ネオンが瞬き、遠くで酔客の笑い声が響く。

 昼とは別の街。昨日と同じ夜がまたやってきたようでいて、どこか違う。


 私たちは毎日少しずつ違う時間を生き、ほんのわずかずつ壊れたり変わったりしている。

 

 人気のない裏通りへ入ると、コンクリートの壁に力強いタッチのグラフィティが描かれていた。

 多色使いのペンキがコントラストを際立たせ、見る者に訴えかけてくる。


 街の落書きでありながら、一種のアートにも思えた。

 そして、その壁の前には手にスプレー缶を持った少女が立っている。


 少女は派手な色の服を着てはいるものの、表情は意外なほど真剣だった。

 まるで最初からそこに存在していたかのように、壁と一体化した空気を纏っている。

 

 ペンキの匂いと夜の湿った空気が混ざり合い、その場所だけが異様に濃厚な温度、ある種の熱気を帯びていた。


 ふいに、少女が私の存在に気づいたように振り向く。

 驚くでもなく、むしろ当然のような顔をして、軽く頷く。


「完成したらさ、写真撮ってよ」


 思ったよりも朗らかな笑みだった。


「どうせ、いつかは消されるもんだ。それでも私はここにいるって、いつかの誰かに証明してやるんだ」


 ――消されるのに描くの?


 スプレーの噴射音が止む。

 心底不思議そうな彼女の表情が酷く印象的だった。


「結論だけで生きるなんて寂しいじゃん。生きるって不合理なもんでしょ? 矛盾だらけで、いつかは何も無くなって、それでも何かしたくなる――それが人間じゃないの?」


 何かを残さずにはいられない思い。

 それは私の写真に対する衝動と同じだった。


 同じはずなのに、どこか彼女の存在が高潔に思えた。

 私が漠然とシャッターを切る中で、彼女の絵は確かに彼女の意思として生を受けている。


 カメラを初めて買ったあの日、少なくとも今よりは純粋に写真を楽しんでいた日々を思い出した。

 感じたことのない妙な後ろめたさを自覚する。


 私もきっと、写真が好きだったんだろう。

 今はもう分からないけれど。


「それに、今が楽しければOKとか言う気はないんだけどさ。せめて楽しく生きてる風は装いたいじゃん」


 少女は再び壁に向き合い、勢いよくスプレーを噴射する。

 色鮮やかなペンキがコンクリートを覆い、先ほどまでの無機質な灰色が一瞬で塗り替えられていく。

 近づくとほんの少し、塗料でむせるような匂いが鼻を刺した。


「楽しくないのは、案外自分のせいだったりするかもよ?」

 

 カメラを握る手の力は、自分が思っているよりも強かった。

 彼女の姿は、まるで自分の生き方を肯定するように堂々としていた。


 少女がちらりと私を振り返り、悪戯っぽく笑う。

 その瞳には、夜だというのにどこまでも明るい火が灯っているようだった。


「自分の居場所は自分で作らないと。誰かのルールに従って生きるのも自由だけど、私は私の居場所が欲しいの。だから描くんだ。消されるってわかってても、やらないと気が済まないんだよね」


 シャッターを切る。

 

 夜の街灯がコンクリートを照らす薄暗い光。

 消えた少女の背に代わって、グラフィティは強調されるように浮き上がり、雄弁に存在を語っている。


 私はしばらくその場に立ち尽くしていた。

 彼女が再び壁と向き合う姿は、自分の色を必死に残そうとする意志そのものに見えた。


 ――私はどうなんだろう。

 

 この少女のように、何かを残す覚悟があるだろうか。


 結局、私は漠然とシャッターを切るだけで、世界に対して何を提示できるのだろう。

 そんな疑問が胸をよぎる。


 足元を冷たい風が撫で、ペンキの匂いと夜気が混ざり合う。

 壁のグラフィティは確かに「ここにある」。

 私の写真と同じように、少女の意志が刻まれている。


 私は写真を撮るたびに、自分の居場所がどこにあるのか分からなくなる。

 きっと、私は写真の中にしかいないのかもしれない。


 どれだけ撮っても、私は世界の一部になれないままだった。


 それでも、今この瞬間、私は確かにここにいる。

 消されてしまうかもしれない風景だとしても、ここでシャッターを切る私は存在している。

 そんな気がした。

 

 

 古いジャズの音色に誘われ扉を開ける。

 客は少なく、カウンターに座る年配の男性と、テーブル席で一人グラスを傾ける女性だけ。

 

 品のいいバーだった。

 私は入り口近くの席に腰掛ける。

 

「今夜は冷えますね。何か温かいもの、いかがです?」

 

 アルコールよりも、ホットワインかホットカクテルのようなものが欲しい気分だった。

 小さくうなずき、バーテンダーがおすすめを作ってくれるのを待つ。


 その間にも私は店内を見回し、カウンターの上に整然と並べられたグラスやボトルを目に留める。

 許可を取り、そのうちの何枚かを写真に収める。

 

 「撮影がお好きなんですか?」

 

 バーテンダーが言った。

 私は苦笑して、カメラを持ち上げてみせる。

 

 ――ついシャッターを切ってしまうんです。

 

 バーテンダーは何かを察したように軽く笑みを返すと、目の前にホットワインを置いてくれた。

 シナモンがほのかに香り、湯気が立ち上る。

 

 「寒い夜には、体を温めてくれますよ」

 

 カウンターの男性客も、テーブル席の女性客も、どこか遠い世界に沈んでいるようで、互いに干渉しない。

 世界と私の関係のようでどこか違う、居心地のいい孤独だった。

 

 私も同じように、この空間の片隅で、離れた世界との距離を測るようにホットワインを一口飲む。

 

 ほどよい酸味と甘み、そして体を温めてくれる熱。

 私は少しだけ息をつく。こんな小さな幸せに気づけるのも、夜がもたらす恩恵なのだろうか。

 

 気がつけば数枚、シャッターを切っていた。

 ガラスに揺れるランプの明かり、琥珀色の液体、そしてバーカウンターの奥で視線を落とすバーテンダー。

 

 

 店を出たときには、また深夜になっていた。


 空は雲で覆われ、月の姿も見えない。

 風が少し強まってきたようで、髪を乱す。深夜特有の静寂に戻った街を、私は再び歩き出す。

 

 いつの間にか、遠くから警察車両のサイレンが聞こえてくる。

 何か事件でもあったのだろうか。人影はまばらで、道行くタクシーのヘッドライトだけが地面を撫でていく。

 

 コンビニの前を通りかかると、先ほどまでいなかったホームレスが座り込んでいた。

 段ボールと新聞紙を敷き、コンビニの明かりを背景にして、顔をうずめている。


 カメラを向けるべきではないと思いながらも、私の指は勝手にシャッターを切っていた。

 

 ――何なんだろう、私は。

 

 そんな自問自答だけが虚しく頭を駆け巡る。

 彼らの惨状を記録したいわけでもない。ただ、視界に入ったものを残さずにはいられないのだ。


 記憶できないなら、せめて写真という形で固定しようとする。

 それは私自身を繋ぎ止める行為でもある。


 もはや、私はカメラの一部、シャッターの付属品なのではないだろうか。

 自嘲気味に笑うしかなかった。

 


 歩き疲れた頃、いつの間にか夜明けが近づいていることに気づいた。

 藍色の空に、わずかにオレンジのグラデーションが差し込み始める。


 思えば、昨日と同じように、私は夜をさまよい、シャッターを切り続けていた。

 

 気がつけば、ガラス張りの高層ビルの前に立っていた。

 昼間なら大勢の人が行き交うオフィスビルも、この時間帯はまだ静かだ。

 ビルの壁面は大きな鏡のように街を映している。私はそこに近づき、自分の姿を探した。

 

 ぼんやりと映った、自分とは似ても似つかない他人のように見える影。


 そこに、もう一人の私がいた。

 目が合ったような気がする。

 

「夜景、綺麗だったね!」

 

 鏡の中の私は元気に笑っていた。私とは違う、あまりにも明るい声音で。

 あまりにも眩しい瞳で。


「一緒にいると楽しいね!」


 ――私は、そうは思わない。

 

 しばらく音信不通だった私の笑顔は、思ったよりも元気そうで。

 それが、ひどく不快だった。

 期待に満ちた眼は、太陽に似ている。

 

「でも、離れられないでしょ? ピーターパンじゃないんだし」

 

 鏡の私は、そこに立ち続ける。

 暖かくて、明るくて、鬱陶しい。

 

「傷つけたいわけじゃない。ただ『良い日だった』って思ってほしいの」

 

 ――随分、優しいね。


 余計なお世話だった。

 私は反発するように、鏡を睨む。

 けれど鏡の中の私は相変わらず穏やかに笑う。まるで私の抵抗を見越しているかのようだ。

 

「人間誰しもが、自分には甘いものでしょ? 世界が私に厳しいなら、私くらい 私に優しくしてあげなくちゃね!」

 

 苦く、そして優しい言葉。相反する感情が内側から込み上げてきて、胸がざわつく。

 

 ――甘やかせるほど、自分に親近感はないよ。

 

 「優しくされるのが怖いの?」

 

 問いかけに、私は何も答えられなかった。

 勢い任せに構えるカメラ。

 小さなファインダーに映った自分は、とても悲しそうに見える。


 滑稽なほど、頼りなく、孤独に震えている。

 

 どこへ行っても、逃げても、私は私から離れられない。

 現実を見る勇気がないだけなのに、見ているふりをしているだけなのに、シャッターを切ることでごまかしているだけなのに。

 

 それでも、私はカメラを抱えている。

 シャッターを切る行為だけが、私が私であることを再確認する唯一の方法になってしまったのかもしれない。

 

 ――楽しいなんて思えないよ。


 「そう言うと思った。でも、それが本音なら、もう少しちゃんと寂しそうに言ったほうがいいんじゃない?」

 

 夜の終わり。

 澄んだ冷気が頬を撫で、言葉が霧散する。

 

 逃げ場なんて、どこにもなかった。

 鏡の私はそこでじっと、優しくも冷ややかにも見える笑みを湛えたまま立ち尽くしていた。


 鏡の向こうで微笑むのは、私が憎悪してやまないほど明るい“私”そのもの。

 私は再びファインダーを覗き込み、そっとシャッターを切る。


 けれど映り込むのは鏡に映る虚像と、夜明けの光に染まる私。

 

 その瞬間、朝日の眩しさに目を細め、思わずカメラを下ろす。

 気づけば私は小さな溜め息を吐き、笑っていた。


 苦いような、どこか吹っ切れたような笑み。

 

 ――どうして、笑ってるんだろう。

 

 鏡の中の私も、同じ表情で笑っている。

 

 どこへ行っても、どれだけシャッターを切っても、私は私を避けては通れない。

 それが当たり前の事実。


 でも、きっとそれでいい。いや、それでしかないのだろう。

 

 カメラを握りしめたまま、私はゆっくりと鏡に映る自分に背を向けた。

 遠くで車の音が聞こえ、街はもう動き始めている。


 次の夜が来るまで。

 その間、私はまた生き延びる。


 いつか、少しだけ勇気を持てる日が来るかもしれない。

 それこそが、細い蜘蛛の糸のような希望なのかもしれない。

 

 ――それでも。

 

 私はシャッターを切る。

 今は、それしかできないから。

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