最終話
ドラゴンの姿を目にした瞬間、村人たちは凍りつき、我を失ったように逃げ出した。叫び声を上げ、荷物も家族も顧みず、広場から建物の中へと散っていった。
役人たちも足がすくみ、腰が抜けそうになったが、どうにか理性を繋ぎ止めた。顔を青ざめさせながらも、手を振り、村人に避難を促して走り回った。
冒険者たちは、思わず後ずさる者もいれば、強張る指で武器を構える者もいた。魔法使いたちは震える声で呪文を唱え始め、剣士は地面に足を踏ん張って戦意を奮い立たせていた。
弓使いの冒険者がゆっくりと弓を引き絞り、視線を鋭くドラゴンへと向けた。狙いを定めようとしたそのとき――視界の端で、ドラゴンの背後に何かが動いた。
土埃の合間に見えたのは、もうひとつの影。黄土色のうろこを纏い、親と同じように緩やかなカーブを描く角を生やした姿。けれど、それはあまりに小さかった。
その体つきは未成熟で、翼は親に比べて不格好なほどに短く、まだ乾ききっていないように湿り気を帯びていた。羽ばたきも頼りなく、宙に浮かぶ姿は今にもよろけそうに揺れていた。
ひとつの推測が、全員の脳裏に同時に同じ像を結ばせる。
子供――ドラゴンの、子だ。
その瞬間、それまで張り詰めていた空気にわずかな変化が生じた。弓を構えていた手が緩み、詠唱を続けていた魔法使いの唇が止まった。誰もが息をのみ、沈黙の中で視線を交わす。
ドラゴンの主といえば、石でできたゴーレムや、あるいは幾つもの頭を持つヒュドラのような巨躯の魔物が一体、ダンジョンの最奥に陣取っている。そういうものだ。少なくとも、これまで読まれてきた文献にはそう記されていたし、実際にそのような例が大半だった。
親子、しかも同時に姿を現すなど、誰も想像すらしていなかった。冒険者として数々の修羅場をくぐり抜けてきた者たちですら、その異例の光景に言葉を失った。
宙に舞うドラゴンの親子は、人間たちに一切の攻撃を加えることなく、ただ羽ばたきながら静かにこちらを見下ろしていた。動きひとつ、視線ひとつさえも挑発的ではなく、ただそこにあるというだけの、異質な存在。
それでも、空気を切り裂くように鋭い声が上がった。
「子供がいるからとて、油断するな。村ごと燃やされる前に、せん滅するぞ!」
興奮と恐怖の入り混じった怒号だった。声に引き寄せられるように、他の冒険者たちも再び武器を握り、呪文の詠唱を再開し始める。
緊張が再び張り詰めるその刹那――。
周囲のざわめきが、ふっと止んだ。
――ありがとう。
その言葉は、誰もが確かに「聞いた」と感じた。だが、それは空気を震わせて耳に届いた音ではなかった。むしろ、意識の奥底に直接流れ込んできたような、不思議な感覚だった。
冒険者も、役人も、村人も、みな一様に目を見開き、互いの顔を見回す。何が起きたのか理解できずにいた。
女性を思わせるその声は、やわらかく、それでいて芯のある響きで、再び静かに語りかけてきた。
――この地を寝床として、しばらく借りさせてもらっていました。この子を、無事に孵らせるまで。
その一言が、すべてを結びつけた。
人々は一斉に、夜空を見上げた。翼をゆったりと広げたドラゴンが、その懐に小さな子を抱くように、優しく覆っていた。黄土色のうろこが月明かりにわずかに光を反射していた。巨大なその瞳が、静かに地上の人々を見下ろしている。
このドラゴンが、私たちに語りかけているのだ。
――どうやらここは、人間の住まいのある地域だそうで。私たちが住み着いたことで、ずいぶんと迷惑をかけてしまっていたようでした。
静けさに包まれた夜空の下、思念の声が穏やかに響き渡った。
――だから、駆除しようと近づいてくる気配にも、私は気づいていました。それも当然のことと、受け入れていたのです。
広場に立ち尽くす人々の間を、かすかなざわめきが駆け抜ける。しかし誰も口を開こうとはせず、その言葉の一つ一つに耳を傾けていた。
――けれど、理由は分かりませんが……それを食い止めようとしている人間がいるようでした。
その瞬間、役人たちの胸に、ぞっとするような感情が走った。
あの混乱の最中、自分たちが日々行っていた決定や交渉。どれもが目先の利益を守るための、半ば姑息とも言える判断だった。
だがそのひとつひとつが、結果的に、ドラゴンの巣に踏み込む冒険者たちの動きを遅らせていたのだ。
それがこの親子の命を救っていたとは、誰も想像すらしていなかった。
――そのおかげで、こうして子が生まれることができた。感謝しなければなりません。
ドラゴンの言葉は、静かに、しかし確かな重みをもって人々の心に届いた。
――あなたたちに危害を加えるつもりはありません。だから、私たちはこの地を離れます。
――ありがとう。また逢う日まで――。
夜空を背に、ドラゴンの親子がゆっくりと背を向ける。翼を広げ、大きく羽ばたこうと身をかがめたそのときだった。
「待ってくれ!」
ひとりの男が、思わず前に踏み出した。防災担当の役人だった。
彼は知っていた。このままドラゴンが去ってしまえば、ダンジョンは役割を終えて崩れ去るだろう。
そうなれば、目的を失った冒険者たちは村を離れる。それは、冒険者の滞在によって成り立っていた村の経済を、根本から揺るがすことを意味していた。
それでも、大勢の人々が見守るなかで、「ダンジョンに残ってくれ」と声を上げることはできなかった。
上げかけた手をゆっくりと下ろし、肩を落とす。唇を引き結び、視線を地面へ落とす。
その肩に、静かに手が置かれた。役人たちの事情を唯一知るあの冒険者が、無言で首を振った。その目には、責める色はなかった。ただ、終わりを受け入れようとする静かな意志があった。
飛び立とうとしていたドラゴンは、そんな役人たちをふと振り返った――ように見えた。
夜の闇に溶けそうなその視線には、何かを測るような静けさがあったが、それも一瞬のことだった。
すぐに親子のドラゴンは前を向き直り、大きな翼をはためかせる。風が唸りをあげ、舞い上がる砂塵が人々の足元を包む。子を胸に抱くようにして、その巨躯は音もなく夜空へと浮かび上がっていった。
その羽ばたきは、まるで空を切り裂くようだった。鳥などとは比べものにならない速さで、あっという間に隣の山の頂きへと到達する。まるで、最初からそこに向かうと決めていたかのように迷いがなかった。
そのときだった。
空高くを滑空していたドラゴンが、突如として旋回した。
弧を描くように宙を舞い、身をひねって長い尾を山肌に叩きつける――まるで地そのものをなぎ払うかのような動きだった。
重々しく響いた衝撃音。それは地を揺らすほどの圧力を帯びて、村の広場まで伝わってきた。闇に閉ざされた遠くの斜面で、大量の岩が転がり落ちる様が、ぼんやりとした輪郭のまま視認された。
村人たちの間にざわめきが走る。誰かが悲鳴をあげそうになるのを飲み込み、皆が目を凝らして山を見つめた。
だが奇跡的に、その岩雪崩は山の中腹で止まり、村には被害が及んでいなかった。
書記官が、一歩前に出て冷静に状況を見極める。
あの尾の一撃は、意図的なものではなかったのではないか。
地理に不慣れなうえ、夜目が利きにくいまま山間を飛行していたドラゴンが、誤って岩肌に接触した――そう考えるのが自然だ、と。
彼の言葉に、周囲の緊張が少しずつ緩んでいく。
人々は改めて夜空を見上げたが、そこにもう、ドラゴンの影はなかった。
やがて広場に集っていた人々も、ぽつりぽつりとその場を離れていった。冒険者たちは装備を解き、武器をしまい、互いの無事を確かめ合うように言葉少なに散っていく。
役人たちは黙ったまま、静かにダンジョンの入り口を見つめていた。
主のいなくなったダンジョンは、用を終えた器のように、ただひっそりとそこに口を開けているだけだった。
そんな風景の中、長い夜はようやく明けていった。
朝になり、まだ空に薄い靄がかかる頃。
役人たちは眠気と重苦しい予感を抱えたまま、恐る恐る広場に足を踏み入れた。
かつてダンジョンの入口を囲っていた岩のアーチや、苔むした石柱はそのままだった。
しかし、構造の端々がひび割れ、表面の魔力の膜のようなものが剥がれ落ちていく様が、まるで皮膚のように剥がれ、崩れていくようだった。
それは昨日、ドラゴンが去ったあとから始まっていた「終わり」の兆し――その現実を、今日になってようやく全容として突きつけられたのだった。
理解はしていた。ダンジョンとは、主を失えば自壊する宿命にある。
だが、目の前でそれが起きているのを見ると、やはり胸の奥に冷たい穴が開く。
役人たちは言葉を失い、ただ静かに肩を落とした。
広場の隅では、冒険者たちがテントを畳み、焚き火の跡をならし、荷をまとめていた。
長く続いた非日常が、静かに、しかし確実に終わろうとしていた。
――とうとうダンジョンは終わった。
それと共に、冒険者たちも去っていく。それは、村の収入の柱が失われることを意味していた。
だが、もはや誰もそれを止めようとはしない。ただ、受け入れるしかなかった。
そのときだった。
広場から少し離れた宿屋の方角から、ざわめきが聞こえてきた。
不穏な気配に書記官ははっと顔を上げた。
昨晩、ドラゴンが飛び去るときに尾で山肌を叩きつけた場面が、脳裏によみがえる。
もしあのときの衝撃で山が崩れ、なだれとなって村に被害を及ぼしていたとしたら。
急ぎ山を見上げる。朝靄のなか、山の中腹に木がはげ落ち、岩がむき出しになった斜面がうっすらと見えた。
岩雪崩の痕だ。そこから延びるように、谷が一本走っているようにも見える。
胸騒ぎを覚えた書記官は、何も言わずに駆け出した。他の役人たちも顔を見合わせ、後に続いた。
宿屋の裏手に着いたとき、彼らは目を疑った。
本来そこには、耕されず放置されていた広い空き地があったはずだ。
だが今、その場所には水面が広がっていた。それは「池」と呼ぶにはあまりにも大きく、むしろ湖と呼ぶにふさわしい規模だった。
水面は朝日に照らされ、微かに湯気を立てながら静かに波打っていた。
それを囲むように、村人たちが大勢集まり、言葉を失ったままその光景に見入っていた。
湿った土、根こそぎ剥がれた草、乾いた岩肌。どれもが新しく、水の流れによって削られたものであることが一目でわかった。
そのとき、村人のひとりが何かを見つけて指をさした。
「あれを見ろ、水が流れてくる先を。昨日、山が崩れた辺りじゃないか?」
視線を向けると、確かに湖の反対側に、新しくできた小川のような流れがあった。
山の中腹――昨夜、ドラゴンの尾が叩きつけられた場所――から、冷たい水が細く、しかし絶え間なく流れてきていたのだ。
村人たちが一斉にどよめく。
水は澄んでおり、村の井戸よりも遥かに豊かに見えた。誰かが小石を投げ、水がはじけると、魚影のような何かが一瞬水面を走った。
思わぬ恵みに、希望とも戸惑いともつかぬ空気がその場を包んだ。
---
あれから、ひと月あまりの時が過ぎた。
村のはずれ――かつて冒険者たちが野営をしていた広場の裏手に、新たな畑が拓かれようとしていた。
そこへ水をもたらしているのは、山肌を削って現れた谷から流れ出た、あの湖の水だ。
透明で冷たいその水は、山の養分をたっぷりと含みながら村へと降りてきており、
長らく雨に恵まれず、土が痩せていたこの地にとっては、まさに恵みそのものだった。
鍬を振るう村人たちの顔には、慎ましいながらも確かな希望の色が戻ってきていた。
「この野菜は、ドラゴンの奇跡の水で育ったって触れ込めば高く売れるんじゃないか」
そんな冗談めいた声が役場で交わされる頃には、
かつての焦燥や喧騒はすっかり色褪せ、村は再び穏やかな時間の流れを取り戻していた。
冒険者たちはいつしか一人また一人と村を離れ、
あの喧騒が嘘だったかのように、再び閑散とした風景が戻ってきた。
それでも、防災担当は畑の縁に立ち、鍬を持ったまま空を見上げてぽつりとつぶやく。
「結局、ダンジョンビジネスで一攫千金なんて夢見ないで、
地道にやってくしかないってことなのかもな……お天道様は見てるってやつか」
それを聞いた会計担当が隣で肩をすくめ、少しだけ笑みを浮かべて応じる。
「この場合、見てたのはお天道様じゃなくて、ドラゴンでしたね」
どこかで鳥が一声さえずると、広場を通り抜ける風が、草の穂先を揺らしていった。
かつてダンジョンがあった広場は、今ではその存在の名残もほとんど失われ、
苔むした石畳の中央に、ひとつの小さな石碑だけが残っている。
古びた石に刻まれているのは、たった一行の静かな記録だった。
――ここに、母子の竜が羽を休めていった。
その言葉が、淡く差し込む朝の光に照らされていた。
やがて石碑の上に、一枚の羽が舞い降りる。
それは、どこか金の粉をまぶしたような、薄く、柔らかく、温かい色をした羽だった。
ダンジョンのある村 @hiramememe
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