ep2:山本美咲(19)「メロディを奏でる指先」前編
鍵盤に置いた指先が震えている。
「もう一度。冒頭からやり直し」
佐々木先生の声は、いつもより少し厳しく響いた。練習室に漂う緊張感に、私は一瞬息を詰めた。
「はい」
私——山本美咲は深呼吸をして、再びピアノに向き合った。ショパンのバラード第1番。全国音楽コンクールの課題曲だ。冒頭の静かな旋律から始まり、徐々に激しさを増していく名曲。私はこの曲に全てを賭けていた。
穏やかに始まる導入部を弾き進める。指先は正確に動き、音符は楽譜通りに紡がれていく。私の脳裏には、入学試験で演奏してこの音大に合格した日の喜びが蘇る。子供のころから「才能がある」と言われ続けてきた私。ピアノは私のアイデンティティだった。
しかし——
「美咲、止まって」
佐々木先生の言葉に、私は弾くのを中断した。瞳を上げると、先生の眉間にはっきりとしたしわが刻まれている。
「技術は申し分ない。でも、何も感じない」
その言葉は針のように私の心に刺さった。
「音符は完璧だけど、心がこもっていない。このままではコンクールで勝てないわ」
「でも、メトロノームどおりに弾いて、強弱も楽譜通りに……」
「美咲」先生は私の言い訳を遮った。「ショパンは機械じゃない。あなたも機械じゃない。技術だけではピアニストになれないわ」
言葉に詰まる私を見て、先生はため息をついた。
「今日はここまで。明日までにもう一度、曲と向き合ってごらん。なぜショパンがこの曲を書いたのか、そこから考えなさい」
レッスンが終わり、練習室を出ると、すでに外は暗くなっていた。四月下旬だというのに、肌寒い夜風が頬を撫でる。大学の校舎から出ると、桜の花びらが舞い落ちてくる姿が、街灯の明かりに照らされて儚く美しかった。
「美咲、お疲れ様」
声をかけられて振り返ると、同じピアノ専攻の河合さやかが立っていた。明るい茶色の髪を肩で切り揃えた、いつも笑顔が素敵な同級生だ。
「あ、さやか。お疲れ様」
「佐々木先生のレッスン、厳しかった?」
「うん……」私は正直に答えた。「技術は良いけど、心がこもってないって」
「あー、それ私も言われたよ」さやかは親しげに肩を組んできた。「みんな最初はそう。プレッシャーがあるとなおさらね」
二人でキャンパスを出て、いつもの定食屋に向かう。さやかは地元出身で、私は一人暮らし。時々、こうして食事をともにするのが日課になっていた。
「コンクールまであと一ヶ月か……」テーブルにつきながら、さやかが呟いた。「緊張する?」
「ううん、大丈夫」と言ったものの、私の内心は真逆だった。大学に入ってから、自分の演奏に自信が持てなくなっていた。高校までは常に上位だったのに、音大では皆が実力者揃い。群を抜いていた私の技術は、ここでは「普通」でしかなかった。
「あのさ、美咲」さやかが急に声のトーンを変えた。「ちょっと変な質問かもしれないけど……ゲームとかする?」
「ゲーム?」予想外の質問に首を傾げる。「あんまりしないかな。子供の頃にDSとか少しだけど」
「最近ね、すごく面白いのを始めたんだ」さやかは目を輝かせた。「『プロジェクトナレッジ』っていうMMORPG。オンラインゲームだよ」
「へぇ」興味はあまりなかったが、さやかの嬉しそうな表情に乗せられて聞き続けた。
「私、練習でストレスたまると、たまにログインして遊ぶんだ。別の世界に行ける感じがして、すごくリフレッシュできるよ」
「ふーん」定食を前に箸を取りながら、私は曖昧に返事をした。
「美咲も試してみない?ストレス解消になるよ。それに……」さやかは少し声を落とした。「ゲーム内に音楽を演奏する職業があるんだ。現実の楽器の知識が活かせるみたいで」
その言葉に、少しだけ心が動いた。
「考えておく」
その夜、練習室に戻った私は深夜まで練習を続けた。指は正確に動くのに、心がこもっていないという佐々木先生の言葉が頭から離れない。どうすれば「心」を込められるのか。バッハやモーツァルトならまだしも、ショパンは感情の起伏が激しい。その波に乗れないことが、私の最大の弱点だった。
部屋に戻ったのは午前0時を回っていた。シャワーを浴び、ベッドに横たわっても、なかなか眠れない。スマホを手に取り、何気なくアプリストアを開いた。
『プロジェクトナレッジ』
検索窓に入力すると、美しいファンタジー世界のイメージが画面いっぱいに広がった。レビューを見ると、評価は高い。音楽を演奏する職業があるというさやかの言葉を思い出し、ダウンロードボタンを押していた。
「ちょっとだけ、気分転換に……」
そう呟きながら、私は新しい世界への扉を開けた。
---
「ようこそ、冒険者。エルドラシアの世界へ」
チュートリアルが始まり、柔らかな女性の声がナレーションを担当していた。
「まずは、あなたの分身となるキャラクターを作成しましょう」
画面には種族選択の項目が表示されている。説明文を読みながら、5つの種族それぞれの特徴を確認した。
アルディアン——人間に似た種族。万能で適応力が高い。
シルヴァリオン——背が高く優雅な種族。自然や精霊との結びつきが強く、魔法に秀でている。
ミレニット——小柄で知的な種族。知識と技術に長ける。
フェリシアン——猫のような特徴を持つ敏捷な種族。
タイタノス——巨躯で力強い種族。戦闘や鍛冶に優れる。
私はすぐにシルヴァリオンを選んだ。優雅さと魔法への適性。ピアノを弾く私に最も近いイメージだった。
次に容姿カスタマイズ。髪は私より少し明るい銀紫色のロングヘア、瞳は紫紺色に。現実の自分よりほんの少し背を高くして、スレンダーな体型に調整した。名前は少し考えてから「メロディア」と入力した。
「素晴らしい選択です、メロディア」ナレーションが続く。「あなたは今、アズールの森に立っています。これから冒険の第一歩を踏み出しましょう」
画面が切り替わり、鮮やかな青緑色の森が広がった。木漏れ日が差し込み、遠くでは小鳥のさえずりが聞こえる。思わず息を呑むほど美しい光景だった。
「初めまして、メロディア。私はエルミア」
突然、銀色の髪を持つシルヴァリオンのNPCが現れた。
「これからあなたを冒険者の世界へ導きます。まずは基本操作を覚えましょう」
私はエルミアの指示に従って、移動や戦闘の基本を学んでいった。思ったより直感的な操作で、すぐに慣れることができた。
「次は、あなたの進む道を決める時です。職業、つまりジョブを選びましょう」
画面に15種類の職業が表示される。剣士や魔術師など様々な選択肢があったが、さやかの言葉を思い出し、「メロディメイカー」に目が留まった。
「歌や楽器で魔法を紡ぐ吟遊詩人。仲間を鼓舞し、敵を惑わす」
説明文を読み、迷わずこれを選んだ。すると、キャラクターの手に美しい竪琴が現れた。
「メロディメイカーは希少な職業です」エルミアが続ける。「敵に直接ダメージを与える力は弱いですが、仲間を強化する力は比類なきもの。そして、特定の旋律を奏でることで、様々な効果を生み出すことができます」
「どうやって演奏するんですか?」私は思わず聞いていた。
「演奏モードに入ると、画面上に音符が流れてきます。タイミングよくタッチするだけで、美しい音楽が紡がれます。より正確なタイミングで演奏するほど、効果も高まります」
エルミアの案内で、簡単な練習曲を試してみることになった。画面上を流れる音符に合わせてタップしていく単純なシステムだったが、ピアノを弾く私にとっては驚くほど簡単だった。リズム感、指の正確さ、そして音楽的な感覚。現実世界での私の強みがそのまま活かせる。
「見事な演奏です!」エルミアは驚いた様子で言った。「これほどの腕前は初心者では珍しい。あなたは音楽の才能に恵まれているのですね」
その言葉に、少し照れくさい気持ちになった。大学では「普通」でしかない私の技術が、ここでは特別なものとして評価される。その感覚が、妙に心地よかった。
「では、最初の冒険に出かけましょう。アズールの森に出現した魔物を倒す任務です」
エルミアに導かれるまま、森の奥へと進んでいく。すると小さな青い球体の魔物が現れた。
「スライムです。初心者にはちょうど良い相手でしょう。メロディアさん、演奏で魔物を惑わせてみましょう」
私は演奏モードに入り、「惑わしの旋律」という技を選択。流れてくる音符に合わせて竪琴を奏でると、美しい青い光が広がり、スライムの動きが鈍くなった。その隙に、私は初心者用の短剣で攻撃。何回か繰り返すと、スライムは光の粒子となって消えた。
「やりました!」
思わず声を上げていた。実際にはただの画面をタップしているだけなのに、まるで本当に魔法の音楽を奏でているような感覚がある。
「素晴らしい上達ぶりです」エルミアが微笑む。「これでチュートリアルは終了です。これからはあなたの力で冒険を続けてください。困ったことがあれば、いつでも冒険者ギルドを訪ねてください」
そして彼女は光に包まれて消えた。
一人になった私は、しばらく森の中を探索しながら、いくつかのクエストをこなしていった。プレイ時間が2時間を超えたところで、ふと現実の時間に気づいた。
「やばっ、もう2時!」
慌ててログアウトし、ベッドに飛び込む。明日も朝から練習がある。しかし、眠りにつく前に思った。
「久しぶりに、楽しかった」
---
「美咲、大丈夫?ずいぶん眠そうだけど」
翌朝の練習室で、さやかに心配そうに声をかけられた。確かに、寝不足で目が重い。
「ちょっと夜更かししちゃって」と答えながら、ピアノの前に座る。
「もしかして……ゲーム始めた?」
さやかの鋭い勘に、思わず笑ってしまった。
「うん。『プロジェクトナレッジ』。昨日ちょっとだけ」
「やっぱり!」さやかは嬉しそうに手を叩いた。「どんなキャラクター作ったの?」
「シルヴァリオンのメロディメイカー」
「えっ、私と同じ職業じゃん!でも種族は違うんだ。私アルディアンだよ」
朝の練習前のひととき、二人はゲームの話に花を咲かせた。さやかは「ティアラ」という名前で既にレベル25まで上げていて、小さなギルドに所属しているという。
「今度一緒に冒険しよう」さやかが提案した。
「うん、でも……コンクールのことがあるから、あんまりのめり込みすぎないようにしないと」
「大丈夫、ほどほどにね」
そう約束したものの、その夜も私はゲームにログインしていた。昨日よりも長く、3時間ほど遊んでしまった。
翌日、さやかとパーティを組んで一緒に冒険することになった。初心者の私に合わせて、彼女は簡単なクエストを選んでくれた。
「リズミカルヒール!」
さやかのキャラクター「ティアラ」は私と同じメロディメイカーだが、彼女は主に回復魔法に特化していた。一方、私は強化魔法を中心に覚えていった。
「メロディア、後ろ!」
振り返ると、大きなクモのような魔物が迫っていた。とっさに「勇気の行進曲」を演奏すると、私たちの攻撃力が上がる効果が発動。さやかのキャラクターが魔法で攻撃し、何とか倒すことができた。
「さすが美咲!リズム感抜群だね。効果がすごく高いよ」
「ピアノやってるからかな」
「絶対そう。私なんか全然リズム感ないから、効果いまいちなんだよね」
そんな会話をしながら、私たちは次々とクエストをクリアしていった。
そして一週間後、私たちは「死者の谷」という中級者向けダンジョンに挑戦していた。
さやかのギルドから参加したベテランプレイヤー「ルーク」(タイタノス/シールドガーディアン)と「カゲロウ」(フェリシアン/シャドウストーカー)を加えた4人パーティだった。
「初心者にしては腕がいいな、メロディア」
ルークは巨大な盾を持った頑丈なタイタノス族のキャラクターだ。パーティの前衛として敵の攻撃を受け止める役割を担っている。
「ありがとうございます」
「敬語はいいよ」ルークは笑った。「ここではみんな対等な冒険者だ。それに、君のバフ効果は本当に高い。かなり才能があるよ」
「そうだよね!」さやかが同意する。「美咲のバフ、効果時間も長いし、強化率も高いの」
「美咲?」カゲロウが反応した。彼は黒猫のような姿のフェリシアン族で、素早い動きと鋭い攻撃が特徴だ。「リアルの名前?」
「あ、ごめん」さやかは口を押さえた。「つい本名で呼んじゃった」
「構わないよ」私は笑った。「山本美咲です。よろしく」
「へえ、山本さんか。俺は・・・まあ、カゲロウでいいや」彼はそう言って話題を変えた。「ボス部屋まであと少しだ。みんな準備はいいか?」
このダンジョンの最奥にいるボス「骸骨王」は、なかなか手強い敵らしい。私は少し緊張しながらも、皆のサポートに力を入れた。
「ルーク、盾構えて!」カゲロウが指示を出す。「メロディア、バフを頼む!」
「了解!」
私は「英雄の鎮魂歌」を選択し、完璧なタイミングで演奏を始めた。ピアノを弾くときの集中力がここでも活きる。音符が流れ、私の指が画面上を舞う。すると青白い光がパーティメンバーを包み、全員の能力が大幅に上昇した。
「すげえ!」カゲロウが驚きの声を上げた。「最大効果だ!」
「さすが神の演奏」ルークも感心したように言った。
「神の演奏?」
「完璧なタイミングで全ての音符を捉えると、スキルが最大効果を発揮するんだ」さやかが説明してくれた。「でも、それができる人はほとんどいないよ。私なんて半分くらいしか合わないし」
「ピアノやってるから、指のコントロールには自信あるからね」
そう答えながら、どこか誇らしい気持ちが湧いた。現実では「普通」の私の技術が、ここでは「神の演奏」と呼ばれるほど特別なものになる。
ボス戦は激しい攻防となったが、私のバフ効果もあって、何とか勝利することができた。
「やったー!」さやかが歓声を上げる。
「お見事」ルークはパーティチャットで言った。「メロディア、君の演奏のおかげだ。我々のギルドに入らないか?」
その提案に、私は少し驚いた。
「ギルド?」
「ああ、『オーケストラ・ドラゴーン』というギルドだ。音楽好きが多くてね。君のような才能ある演奏者は歓迎だよ」
「私も入ってるよ」さやかが付け加えた。「みんないい人ばかりだし、週末にはギルドハウスで演奏会もやってるの」
「演奏会?」
「ゲーム内でね」ルークが説明する。「メロディメイカーだけじゃなく、他の職業でも表現できる即興演奏のイベントさ。かなり盛り上がるよ」
「面白そう」
そう答えて、私はギルドへの勧誘を受け入れた。その日から私の「プロジェクトナレッジ」での生活は一変した。ギルドメンバーとの共同クエスト、イベント参加、そして週末の演奏会。
特に演奏会では、私の「神の演奏」が高く評価された。ギルド内外から観客が集まり、私の演奏を聴くために集まってくるようになった。現実ではあくまで「音大生の一人」でしかない私が、ゲーム内では一目置かれる存在になっていくのは、正直なところ、とても心地よかった。
ただ、困ったことも起きていた。
「美咲、今日も寝てたじゃない」
授業中に居眠りをしてしまい、さやかに起こされた。
「ごめん……」
「最近、朝練来なくなったよね?」
確かに、夜遅くまでゲームをしていると、朝起きるのがつらくなる。私は練習よりもゲームを優先するようになっていた。
「ちょっと体調が……」
嘘をついた私の顔を、さやかは心配そうに見つめた。
「コンクールまであと二週間だよ?大丈夫?」
「うん、大丈夫」
そう答えながらも、自分でも不安だった。実際、ショパンのバラードの練習は思うように進んでいない。佐々木先生からの指摘も改善できていない。
「今夜は早く寝るから」
そう約束したものの、その夜もゲームにログインしていた。ギルドで特別イベント「月光祭」の準備が始まっていたからだ。この祭りは年に一度のビッグイベントで、各ギルドが出し物を競い合う。「オーケストラ・ドラゴーン」は音楽の演奏会を計画していて、私はソロパートを任されていた。
「メロディア、この旋律どう思う?」ギルドマスターのエルダンが新しい楽譜を見せてくれた。
「素敵ですね。ただ、ここの転調はもう少しなめらかにした方が……」
ピアノで培った音楽知識が、ここでも役立つ。私の提案を取り入れながら、演奏会の準備は進んでいった。メンバーたちの信頼と期待を集める中、私はますますゲーム内の活動に時間を割くようになっていった。
現実では、佐々木先生のレッスンでまた叱責を受けた。
「美咲、先週より後退しているわ。練習してるの?」
「はい……」弱々しく答える私に、先生は眉をひそめた。
「嘘をつかないで。ミスが増えてるし、表現も薄い。コンクールまであと10日よ?このままじゃ予選も通らないわ」
その言葉は現実を突きつけるものだった。しかし、その夜も私はゲームにログインしていた。月光祭まであと5日。ギルド全体が忙しく準備を進める中、自分だけ抜けるわけにはいかない——そんな言い訳をしながら。
ある深夜、演奏の練習を終えた後、カゲロウから私信が来た。
「いつも遅くまでご苦労様。学生だよね?大丈夫?」
「ええ、大学生です。大丈夫ですよ」
「そっか。何か勉強してるの?」
少し考えてから、正直に答えた。
「音楽大学でピアノを専攻しています」
「へえ!」彼は驚いた様子だった。「だからあんなに演奏が上手いんだ。納得」
「ありがとう」お世辞かもしれないが、素直に嬉しかった。
「実はさ、俺も音楽やってたんだ。ずっと昔だけど」
「え、そうなんですか?何を?」
「ギターとボーカル。バンドやってた。今は別の道に進んだけどね」
「へぇ、バンド……いいですね」
「でも、お前みたいに本格的じゃないよ。音大って大変だろ?」
「まあ……」
「何かあるの?」
彼の言葉に、胸の内が少しほどけた気がした。
「実は……コンクールを控えてて。全国規模の。でも上手くいかなくて」
「それは大変だな。いつなの?」
「あと一週間くらい」
「え?」彼は驚いた様子だった。「それなのに、こんな時間までゲーム?大丈夫か?」
その言葉に、現実が突然押し寄せてきた。そうだ、私は何をしているんだろう。大切なコンクールを目前にして、ゲームに逃げている。
「ごめん、そんなつもりじゃなかった」カゲロウは慌てて言った。「でも、本番近いなら、少し休んだ方がいいんじゃないか?月光祭は録画しておくから」
「ありがとう。でも、大丈夫」
そう答えた私だったが、その夜、久しぶりに不安で眠れなかった。翌朝の練習では、指が思うように動かない。ブランクがついてしまったのだ。
コンクール前日、佐々木先生との最後のレッスンで、私は精一杯の演奏をした。しかし——
「美咲」先生は厳しい表情で言った。「明日、ベストを尽くしなさい。それだけよ」
それ以上の言葉はなかった。私にもう何を言っても無駄だと感じたのだろう。
その夜、ギルドの月光祭前夜祭が行われていた。皆が集まる中、私も最後の調整として参加した。
「メロディア、明日が本番だね!」エルダンが声をかけてきた。「君の演奏で我がギルドは優勝間違いなしだ」
「ありがとう、頑張ります」
そんな会話をしながら、ふと現実のコンクールを思い出した。明日は二つの「本番」がある。ゲーム内の月光祭。そして現実の全国音楽コンクール。
「どうかしたの?」さやかのキャラクター「ティアラ」が心配そうに聞いてきた。
「ううん、何でもない」
半ば強引に不安を押し殺し、私は深夜まで祭りの準備に参加した。その日はついに午前3時までゲームをしてしまった。
コンクールの朝。
目覚ましの音で飛び起きた私は、全身の疲労感に襲われた。目の前がぼやけ、頭が重い。それでも必死に身支度を整え、コンクール会場に向かった。
東京芸術劇場。大きなホールには既に多くの参加者や関係者が集まっていた。私の出番は午後3時。それまでの時間、練習室で最後の調整をするはずだった。しかし——
「美咲、顔色悪いよ?」
控室でさやかに会った。彼女も別の部門で参加していた。
「ちょっと寝不足で……」
「月光祭の準備、遅くまでやってたの?」
さやかの瞳には心配と少しの非難が混じっているように見えた。
「ごめん、つい」
「私も誘ったから悪いんだけど……」さやかは申し訳なさそうに言った。「本番頑張って。応援してるよ」
時間が過ぎていく。練習室でショパンを弾くが、指が思うように動かない。睡眠不足と練習不足。最悪のコンディションだった。
「山本美咲さん、準備をお願いします」
ついに呼び出しがかかった。私は深呼吸して、ホールへと向かった。
大きなステージ。輝くグランドピアノ。そして客席に並ぶ審査員たちの厳しい視線。
私はピアノの前に座り、再び深呼吸した。
「始めてください」
合図があり、私はショパンのバラード第1番を弾き始めた。冒頭の静かな導入部。ここは何とか形になる。しかし徐々に激しくなる中間部に入ると、指が思うように動かなくなった。
「集中して……」
心の中で自分に言い聞かせるが、昨夜の疲労が体を支配している。そして、最も技巧的な部分で、ついに大きなミスをしてしまった。
一瞬の沈黙。
客席からかすかなざわめきが聞こえる。パニックになりそうな気持ちを何とか抑え、私は演奏を続けた。ゲーム内でのアドリブの感覚を思い出し、何とか形を整えて終わらせる。しかし、それは私の理想とはかけ離れた演奏だった。
「ありがとうございました」
演奏を終え、頭を下げて退場する私の足取りは重かった。控室に戻ると、待っていたさやかが声をかけてきた。
「美咲……」
彼女の表情に、全てを悟った。そうだ、私はダメだったのだ。
結果発表。予想通り、私の名前はなかった。予選落ちが確定した瞬間、これまでの自分の選択が走馬灯のように蘇った。夜遅くまでのゲーム。おろそかにした練習。逃げ続けた現実。
「美咲、気にしないで」さやかが慰めてくれた。「次があるよ」
「うん……」
しかし、心の中では自分自身を責め続けていた。
帰り道、雨が降り始めた。傘を持たずに歩く私の頬を、雨粒と涙が伝っていく。部屋に戻り、ベッドに倒れ込んだ私は、しばらく動けなかった。
「月光祭……」
ふと思い出し、時計を見る。まだ間に合う。しかし、ログインする気力はなかった。このまま眠ってしまいたかった。
でも——
「皆が待ってる」
その思いだけで、私はパソコンの電源を入れた。
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