第8話
『……ハインリッヒの法則って知ってます?』
『ハインリッヒ? 知らねえ。どこのハインリッヒの話?』
『まあどこぞのハインリッヒの話ですよ』
『おう。んでそのハインリッヒがどしたぁ』
『一つの重大な大事故の背景には、必ず多くのミスと、小さな異常があるということです。
例えば飛行機の墜落事故などの背景に』
『へぇ』
『つまり、大事故は突発的に、偶発的に起きているように見えて、
……逃れられないように見えて、
実のところ、日常的な検査や確認を怠らずにいれば、――いつも通りならば――起こさずにいられるようなものもあるということです』
『ん~~~~~~~~…………要するに、何でこうなったか、って話をしたいわけ?』
『まあそうですね なんでかなと』
『ごめん。まったく理由が思い出せない』
『奇遇ですね。実は僕もなんですよ』
『なんかに非常に苛ついた記憶はあったんだけど、それが何だったかが……』
『そうなんですよね。なんで闘技場に来ることになったか思い出そうとしてるんですが。……闘技場を提案したのは貴方でしたよね?』
『俺だよなぁ。でもなんでだったかは全く覚えてない』
『僕もです。こうなったきっかけが何だったのか、全然思い出せないんですよ』
二人は寝そべったまま吹き出し、声を出して笑ってしまった。
◇ ◇ ◇
――――【試合開始!】――――
自動アナウンスが告げた瞬間、地を蹴って仕掛けたのはシザだった。
彼は普段の決め技は蹴りだったが、今は躊躇うことなく殴りかかって来た。
怒りに見開いた瞳が輝く。
本気でこの一撃で決めても構わないという、そういう殺気立った先制攻撃。
シザが仕掛けて来ることはライルは読んでいて、この最初の一撃は見切った。
はっきりと顔面を狙って打ち込んで来た一撃を躱し、シザは外した腕を切り返すようにし、肘打ちをライルの顔に叩き込む。
ライルは崩れた体勢を逆に利用し、シザの足元を蹴り払う。
よろめいた身体のバランスを取る意味三割、怒りが収まらなくて体勢などどうでもいいからこいつをぶちのめしたい七割である。
シザは普通の人間なら手を突いて転倒を免れようとするはずの、その行動がごそっと抜けた。
打ち込んで来た拳を手の平で受け、左が駄目ならば、右を続けざまに打ち込む。
両手でライルは受けた。
反撃を受けないようにシザの拳を手の平の中で、力を入れて封じ込める。
ガン! と膝頭を押し当て合い、力比べのようになる。
単純な体躯ではライル・ガードナーがシザよりも勝る。
だが並の人間より元々シザは長身なので体格で劣るからといって、力が無いわけではない。
何より彼は怒りに駆られた時、特に感情と共に内に秘めた力を解き放つことを、非常に得意とした。
「てめえ……本当にそれでも元普通の大学生か? 絶対違ぇだろ。だとしたらなんでそんな喧嘩慣れしてんだよ」
「そんなこと怒りでとっくの昔に忘れましたよ!」
何とか力で相手を圧倒しようと、力を掛け合う。
実際、ライルも本気で力でねじ伏せようとはしたのだが、シザは十分、張り合って来た。
この気の強さと、
怒りに駆られた時の気性の荒さである。
ライルはこの男が幼いくらいで、養父からの虐待を長く受けるがままになっていたなど、全く信じられなかった。
シザは「ユラがいなかったら僕は世界に絶望してきっと死んでいた」などと萎らしいことを言っていたが、まあ概念はともかく、ユラ・エンデという存在を一度でも己の中に棲みつかせれば、シザは一人だろうがなんだろうが自分を理不尽に痛めつける人間など、どこかで見限り半殺しにしていただろうとライルは思っている。
ユラがいたから、シザは暴力的な自分をいつでも否定して生きようとしている。
その存在があればとにかく、シザは何があろうと耐えられるのだ。
それが、ユラ・エンデが脅かされたり貶められたとこの男が判断した時の――このキレ方の早さだ。
鋼鉄のような忍耐力が、その聖域に触れられた時だけ、綿のように呆気なく剥がれる。
シザが撲殺したというその養父は、シザの『聖域』に――ユラ・エンデに触れたのだ。
そしてこの男の怒りを買った。
激しい、憤怒を。
シザがノグラント連邦捜査局に出頭を拒否するのは、その事実を出来るだけ隠したいから。
ようやく光の中に足を踏み出した弟を、過去の闇の中に引き戻したくない。
だからダリオ・ゴールドの虐待ではなく、両親の殺人事件の方で立件したいのだろう。
骨が押し当てられる膝頭が痛み始めて、ライルは均衡を断ち切った。
完全に膠着状態だった四肢に見切りをつけ、シザに怒声と共に激しい頭突きを見舞うと、予想通り一瞬たじろぐような気配がした。
シザの戦い方は激しいが、それでもライルからすれば教本通りだった。
彼は元警官である。
警官も最初は教本で学ぶが、教本通りにいかないと理解するのが現場である。
要するに、シザは激しくても現場の荒さを知らない。
その時の状況によって何でも武器にし、何でも試みるのが現場の戦い方だ。
無論、今のシザは日々現場を学んでいるので、虐待されていたとはいえ元々は温室育ちの、暴力に走る隙もないくらいの有名大学に通っていた凡庸な元大学生だとして、それでも現状でここまで戦えるのだから、実戦を積んでいく数年後は末恐ろしいポテンシャルである。
――とはいえ、今は実戦経験ではライルにアドバンテージがある。
これがあるうちに、早急にこいつの生意気な鼻は折っておくに越したことはない。
掴み込んでいたシザの拳を、捻るようにして引き込み、前のめりに体勢を崩したシザの顔面を振り払うように手の甲で打つと、倒れざまに蹴りのカウンターがライルの胸元に決まり、ライルは決められた怒りに任せてその脚を掴み、地面に投げ叩きつけてやろうと思った。
しかし掴んだ瞬間にシザが押さえられていない方の脚を使い、身を捩って受け身のことなど何一つ考えてない、蹴りをもう一度叩き込んで来る。
これはライルの首あたりに完全に決まったが、体勢を崩し、身体が投げ出された中でも野蛮な街仕込みの不屈の闘志が、普通なら手放すシザの脚を意地で離さず、しかもこちらも地面に落ちることなんか少しも考えず、ただ、鮮烈な怒りの感覚だけで脚が地から離れた空中で、投げを放った。
なんだなんだと見ていた撮影班の、女性スタッフが、思わず大きな悲鳴をあげて目を瞑るほどの光景だった。
完全に二人とも、宙に一瞬身体が浮いた状態から、まずライルのカウンターの投げを受けたシザが地面に叩きつけられ、投げを放ったことで完全に受け身の可能性を放棄したライルも数秒後、頭から地面に突っ込んだ。
――ドオン!
――ドォン!
普段ここでは巨獣化したキメラ種が暴れ回る。
闘技場はそれでも壊れないような構造で作られていた。
その強固なフィールドでも、一瞬会場全体の床に衝撃がはっきりと走った。
「な……」
あまりのことに、呆気に取られていた居合わせた人々は声も出ない。
女性スタッフが後に語るところによると、この時彼女達の多くがシザもライルも「死んだ」と思ったらしい。
「何やってるんですかあああああああああ!」
数秒後、地に伏せた男二人が身動きをしたので【アポクリファ・リーグ】でも撮影班のリーダーをよく務めている男性ディレクターがスタンドの中段ほどからフィールドの側まで駆け下りて来る。
だが今は特殊フィールドが展開中なので中には入れない。
「二人ともっ! な、何してるんですか!」
「うるせえ! 喧嘩中だ!」
ライル・ガードナーの怒声が響く。
喧嘩?
そんな馬鹿な。
男性ディレクターは唖然とした。
百歩譲って、何らかの闘技場イベントのリハだと言って欲しかった。
子供じゃないんだから喧嘩で大人二人がこんな殴り合うはずない、と信じる彼は常識人である。
だが悲しいかな殴り合う当の二人は、常識人ではない。
一人は世界でも有数の犯罪都市と呼ばれる治安の悪い場所の元警官で、犯罪者達に張り合いながら切磋琢磨してしまったそこの警官の逮捕、検挙の仕方は『まるで犯罪者のよう』とまで言われるほど過激で知られるオルトロス出身である。
もう一人はある日【アポクリファ・リーグ】総責任者であるアリア・グラーツが突然連れてきたルーキーで、まず造作の非常に優れた青年で、しかも経歴が本当にただの有名大学出身の大学生で、要するに単なる民間人だった。
顔だけが取り柄のタレントなど、一番アリア・グラーツが興味ない人種である。
彼女をよく知る人々はシザを見て、だからこそ一番最初は首を捻った。
一体アリアが何故あんな若者をねじ込んで来たのか……と訝しがるスタッフたちの目の前で、彼は初戦から破壊力には定評のある強化系能力を遺憾なく発揮し、犯人撃破と闘技場デビューでは巨獣の顔面に決め技の流星蹴りを叩き込んでファンも、スタッフたちすらも、唖然とさせる比類ない戦闘能力を見せつけてきた。
【アポクリファ・リーグ】の歴史の中でも、デビュー初日で犯人逮捕と巨獣狩りを達成したルーキーは後にも先にもシザ・ファルネジアだけである。
この二人が「喧嘩」だと言えば誰が何と言おうと喧嘩だ。
確実にダメージは受けたが、ライルとシザは倒れていた所で身を起こし、相手を見遣った。
「おめー普通の大学生だったクセになんでそんな人の顔面躊躇いなく殴りに来れんだ? 絶対おかしいだろ……ったく」
蹴られた顎のあたりを押さえてライルは忌々しそうに言った。
「喧嘩ではまず相手の顔面を狙う。顔面を殴られると普通の人間はたじろぎますから。
貴方は少しもたじろぎませんでしたねライル。さすがですよ」
「それでも普通の人間には他人の顔ってのは一番殴りにくい部分なんだよ。特に拳丸めては、普段から人の顔面を殴ろうとインスピレーションしてねえと絶対無理だな」
「まあ僕は人の顔面を殴ろうと小さい頃からインスピレーションしてたから」
「なるほどね……いや、なるほどじゃねえよ俺」
シザは額を押さえた。
今の一連の流れの中で、一番痛みを感じたのは頭突きだった。
確かに頭突きという概念は自分の中になかったのでまともに食らってしまった。
なんか悔しい。頭突きは放つ方にもかなりのダメージがあるので、やろうと思わなかったのもあるが、確かにあの状況では一番有効だ。
「言われてみると、養父を殺した時も僕は顔面を一番最初に殴りに行きましたね」
「へぇ。やるなあ」
「顔が激しく潰れていて、正確な身元判定は歯形でしか出来なかったらしいですからね。【グレーター・アルテミス】に着いた後、ニュースで聞きましたよ。『物盗りではなく、激しい殺意による、怨恨殺人と思われる』と。
それは正解ですよ。
ただし怨恨でそうされるような所業をしたのはあいつ自身だから同情の余地はこれっぽっちもありませんけど。
それに養父は小さい頃から何度も僕の顔面を殴りつけて来ましたよ。
人の顔面を殴る為に強い憎しみや殺意が必要なら、あいつは相当な憎しみが僕に対してあったということになる。
僕は何度も顔面を殴られましたが、僕があいつの顔面を殴ったのはたった一度だけです。
非難される覚えはない」
「その一度で原型も無く顔潰してるんじゃあ、世話ねえな」
養父がユラを殴った程度なら、腕や肩や指をへし折ってシザは済ませる。
顔を潰すほどの憎しみは、愛する者を辱められたからだ。
【グレーター・アルテミス】公演で初めて聞いた、ユラ・エンデのピアノをライ
ルは思い出していた。
完全なる解放ではなく、完全に連邦捜査局の監視下に置かれた状況で、自分がこの先どうなるかも当時は分からない状況だったのに、彼は公演中は音楽に集中し、全てを弾き切った。
集中する、と言ってしまえば簡単だが、忘れたくても忘れられないような傷を与えられた過去を持つ彼が、不安と重圧の中で演奏に集中することがどれだけ困難なことか、ライルでも理解出来る。
あの演奏が未だにライルだけではなく、【グレーター・アルテミス】国民の中で鮮烈なのは、それだけ必死に過去から逃れたいとユラがもがくからなのだ。
ユラが【グレーター・アルテミス】公演で弾いたのは、音楽活動がしたかったからではない。
会うことを国際法によって禁じられた兄に会うため。
実際には会うことは出来なかったが、少しでも近くに行って、自分の身を案じる兄に自分は大丈夫だとそれだけを伝える為だった。
だから臆病で泣き虫な彼だったが、あの公演は泣かず、最後まで弾き切ったのだ。
「それが嫌なら光の強化系能力者を激怒なんかさせるべきではないですね。
貴方今あの愚か者と同じ轍を踏んでますよライル」
「殺しはナシのルールだっただろうが」
シザはゆっくりと立ち上がる。
「……そうだった。今完全に忘れてました」
「俺たまに思うんだけど、俺とお前だったら絶対俺の方が冷静なんじゃねえかな?」
「それは絶対にないですね!」
笑いながらライルも、すでにファーストラウンドで殴り合ったことはどうでもよくなり、立ち上がる。
拳を合わせて爽やかに満足するのは学校の部活動までだ。
――俺たちは序列を決める。
相手を睨みつけて第二ラウンドに移行しようとした二人に、スタッフが大勢、特殊シールド側まで駆け下りて来る。
「ちょ、ちょっと二人とも! 駄目ですよ! 怪我とか……喧嘩で殴り合いなんて!
何があったんですか! 一度離れて、落ち着いて話し合いで……あああああっ!」
シザが一足で跳躍し、得意の蹴りでライルを狙う。
ライルは避けたが、地に手を突いたシザは最初から一撃目は囮だったような動きで、身体を反転させ、回し蹴りを叩き込んで来る。
「あと!」
ガッ、と蹴りを腕で受け止め、ライルが今度は地を蹴った。
「こうやって! 連続で、人殴れるってのも! 暴力慣れした奴の特徴だとよ‼」
肘と、手の甲。
繰り出されるライルの打撃を的確に受け止め、繰り出そうとした蹴りの出鼻を、ライルが先に足を出し、シザの腿あたりに膝頭を当てて封じ込める。
「ホントに足癖の悪い野郎だな」
ニッ、と口許を歪めて笑ったライルの胴に、シザは肘打ちを打ち込んだ。
間を置かずパンチを叩き込んで来る流れは、素人の動きではない。
確かにシザは趣味で古今東西の体術をウキウキ学んでいる男だったが、言うなれば習っているだけの動きではないのだ。
ちゃんと、自分の中に染み込んでいる。実戦遣いしてる動きにライルは見えた。
仕事で日常的に戦っているのだから、勿論シザが実戦慣れしてても全くおかしくはない。
おかしくはないが……。
手の平や肘でシザの打撃を受けるが、やはりこいつは筋がいい、と受けても予想以上の痛みを与えて来るその感覚に、ライルは【グレーター・アルテミス】に来てから大分鈍ってしまった、現場での緊張感が蘇って来た。
勿論【アポクリファ・リーグ】もお遊びばかりじゃないし、マズい局面もある。
ただライルにとって【グレーター・アルテミス】にいる今と、オルトロスで警官をしていた時の違いは、能力を積極的に使うかどうかだった。
オルトロスではアポクリファは珍しかった。
今は違うが、元々はアポクリファの入国を禁止していた国だからである。
ライルは警官時代、能力をあからさまに使っていなかった。
何故かと聞かれると返答に迷う。必要とされなかった、というのが一番近い答えだ。
勿論警官になる時に身辺調査をされ、わたくしアポクリファですよということも報告したのだが、その時の上司が「ふーん」程度で済ませてしまって、大して食いついて来なかったのである。
普通はどんな能力なんだなどと聞かれるのだろうが「そんなことよりも、うちの警察署は厳しいよ」と念を押して来たのだ。
要するにアポクリファだろうがアポクリファじゃなかろうが、ついて来れない奴は置いて行くし、ついて来れるならどんな人間だっていいのだと、ライルは非常に珍しい十代の志願者だったので、上司は能力などにはなから期待していなかった。
周囲も同じで、最初の頃は「これやっとけ」と雑用を押し付けられるか「ついて来い!」しか言われていない。
ライルは孤児だったので、自分で稼ぐしか生きていく方法が無かったため、そんな場所でも黙々と任される仕事をこなしていくうちに重用されるようになって行った。
つまり「俺は土の能力者で土とか重力とか操れるんです」などと口を挟む隙が全然無かったのだ。
何度か、自然の流れで能力を使ったことはあったが、「そうかお前アポクリファだったんだっけ」と周囲の同僚がぎょっとするほど、ライルはあの地では普通の警官として、銃とバイクを武器に戦っていたわけである。
【グレーター・アルテミス】はまず能力で戦いに行くため、そこは警官時代と決定的に違った。
ライル土属性の能力は言わば、遠距離攻撃である。
目前の土壌を吹き上げたり、地面を崩して敵を巻き込んだりも出来る。
勿論重力波で敵を足止めしたり、車を叩き潰したりも可能で、攻守に応用の利く非常に戦闘時でも万能に使える能力だ。
だから今ではほとんど拳で敵の能力者と殴り合ったりはしない。
しかしオルトロス警官時代はまず、自分の拳で敵を殴りに行っていた。
「地上におけるあらゆる種類の犯罪者が生息する」とまで悪評されるオルトロスの街でも、ライル相手にこれだけ打ち込んで来た奴はいなかった。
シザの体術は独学というほど無秩序ではなく、筋は教本のように美しかったが、教えを受けた額面通りというには狂暴すぎるのだ。
――よほど、その養父を長い間殺したくて仕方なかったんだろうな。
シザの戦い方はしっかりと怒りや憎しみに結びついている。
これぞ本当に実戦慣れてしている人間の体術だ。
ライルはすでに当初の怒りは忘れ去っていた。
とっくの昔に殴り合いながら、楽しくなってしまっている。
一方元来真面目な性格のシザは怒りが収まらないようで、目を見開いて怒りに輝かせたまま、どこまでもライルを追って来た。
一瞬目が合った時に不思議なほど共感して、避けられるのにどっちも回避せず、本気の拳を繰り出し、それが正面からぶつかる。
インパクトの瞬間にシザの顔が激痛に歪んだが、気の強さでそれを誤魔化し、打ち当たった拳を弾いて反対側の手でライルの顔面に叩き込んで来る。
早さでは負けると判断したライルは切り替えて、殴られると同時にその手を引き込んでシザの腹部に膝蹴りを見舞い、たじろいだ一瞬の隙を見逃さない。
「――だあぁッッ! 死ね‼」
ライルが怒声を放ち、シザの胴に渾身の飛び蹴りを叩き込む。
これは完全に決まって、シザの身体が後方に吹っ飛んだ。
ドォン!
ライルは、詰めていた呼吸を緩め、大きく息をつく。
オルトロス時代は犯罪者よりも手強い先輩警官連中の方に手を焼いたものだが、それでもコイツよりは全然弱かったと彼は忌々しかった。
頬に手をやると、シザの拳が当たったそこは皮膚が一部切れ、出血していた。
警官現役時代でさえ、素手で顔面を殴打されおまけに出血まで食らうなんてことはライルは一度も無かったのだ。
「……おめーなぁ……。どんだけこっちは治安の悪い街にいたと思ってんだ!
それでもここまで俺の顔面殴りつけて来て出血までさせた犯罪者は一人もいねーぞ! てめぇどういう教育受けて来てんだよ‼」
殴りつけ合った拳も折れてんじゃねえかと思うくらい激痛がある。
それはシザの方も同じだと思うが。
「お前のその、殴られた瞬間に目を輝かせて反撃してくんの何とかなんねえのかよ」
ライルが苦い顔をして指摘した。
「……人が殴られるの好きみたいな言い方しないでもらえますか」
倒れていたシザがゆっくり身を起こす。
ライルは片眉を吊り上げた。
なんかもう、すでに煙草でも一本吸いたい気分だ。
「…………お前、今のでアバラ折れてなかったら完全におかしいぞ」
「どうですかね。痛いですが。でも動けそうな気がします」
「『気がします』でホントに動くんじゃねえよ」
シザは腹部のあたりを押さえつつも、本当に動いて立ち上がった。
こいつはそこらへんに置いておけば単なる美形の優男だが、一皮剥けば体は鍛え上げてるし、闘争本能の塊だし、心身共に頑強すぎるのである。
ライルは舌打ちをする。
直撃を受けた人間の動き方じゃない。
殴りかかって来るだけが能ってわけじゃなく、可能な限りの瞬間的な回避行動も行ってるってことだ。
シザ・ファルネジアの戦いぶりを【グレーター・アルテミス】国民達はよく、ペルセウスだの、グラディエーターだの、バーサーカーだのと表現することがある。
要するに、【戦いの申し子】というやつだ。
拳を突き合わせて実感した。
確かに俺だって犯罪者だったらこんな奴には絶対遭遇したくない。
「ここまで来ると、養父なんかじゃなくお前の本当の親の方が興味があるわ」
ライルがうんざりした様子で髪を掻くと、シザも血が出ている拳を押さえながら、そちらに目を向ける。
「確か単なる生物学者って言ってなかったか? なんで両親二人とも研究者で息子のお前がバーサーカーなんだよ……」
「知りませんよ。アポクリファ能力に伴ったんじゃないんですか?
というか何もう殴り合いに嫌になってるんですかライル。喧嘩売って来たのあんたでしょうが」
「そーだっけ?」
「土下座しますか?」
「しねえ。」
「あんたも頑固ですね!」
「おめーに言われたくねえよ。別に殴り合うのは嫌になってねえ。殴り合いは好きだ」
「悠長に構えていていいんですかライル。死ぬまであと二分切りましたよ」
闘技場の中央の天井部に埋め込まれた巨大スクリーンには、予め設定しておいた能力解禁十分まで1:30秒を切ったとカウントダウンが映し出されている。
「人のことより自分の死へのカウントダウンしろっつっただろうが」
「拳が痺れてんのが腹立ちます」
「安心しろ俺も痺れてて苛ついてる。拳同士をブチ当てるとか一番やっちゃいけねえんだぞこの野郎」
「分かってるならあんたから避けてくださいよ」
「おめーが避けねえから悪いんだろうが」
「あんた年下なんだから年上に譲りなさいよ」
「だから『年』じゃねえだろうが」
「173日年下なんだから譲りなさいよ」
「173日早く生まれてそんなに威張るのお前くらいだぞ言っとくけど」
「正しい主張はちゃんとしておかないといけませんからね」
「ハッ! 何が正しい主張だ」
「実際のところ十分解禁でどうなると思います?」
ライルは痺れを逃すように手の平を振りながら、唇を歪める。
「俺の渾身の重力波でお前が一瞬で潰れて終わりだよ」
「一瞬であんたに僕の脚がめり込んで終わりだと思いますけど」
「まーそこだよな。要するにどっちの能力が単純に強いかになるんじゃねえの?
俺が強けりゃお前を潰せるし、
お前が俺の能力の威力を凌げば、重力波の中でもお前は動けるだろうし。まあ、でも動けるにしても重力波の力を全く受けねえってことはないからな……。威力っつうよりタイミング勝負になるかもな。どっちの能力が先に相手に影響を及ぼすか。早撃ち勝負だな。 言っとくが俺は射撃無茶苦茶得意だぞシザ。何てったって元警官だからよ」
「あんたが元警官なんて何回も聞きましたよ。今更そんなことで僕が動揺すると思いましたか? 言っておきますが僕も射撃は得意です。それに光の強化系能力者は時間に干渉すると言われてるの愚かな貴方でも知ってますよね? 僕たちが能力発動時に跳ね上がる身体能力でどんな景色を見てるか、教えてあげられないのが残念ですよ。一秒を掴むなら、僕に分がある」
「俺と戦ってお前に分なんかあるわけねえだろ」
「あと三十秒。必ずあんたを滅多打ちにします!」
ライルの視界の中で、シザの瞳孔が光射し込むように大きく開いた。
それは多分、犯罪者が彼に打ち倒される前に見ている表情なのだろう。
普段冷静で穏やかな表情を浮かべることが多いシザが、一切の柔らかな色を消して闘争心を剥き出しにするまさにその瞬間の顔だ。
シザは脚を軽く前後に開き、地を蹴る体勢を取る。
ライルも脚を後ろに引き、腰を低く屈め、身構える。
闘技場内に『十秒前』のアナウンスが響いた。
何やらしばし言葉を交わしていたので、気が済んだのかなと思いきや、明らかに改めて身構え合った二人の男に、スタッフたちはギョッとした。
「お二人ともまさか……! 能力使いませんよね⁉」
別のフロアにいたスタッフもなんだなんだと騒ぎを聞きつけて集まって来た。
「怪我しますよ!」
「誰か! 止めて!」
「だ、誰かって誰ですかああああああ!」
「そもそも特殊シールドが張ってあって入れませんー!」
「止めろ! 解除しろ!」
「駄目ですロックかかっちゃってます!」
【タイム・アドバンテージカウントダウン開始 5】
「シザさん!」
ようやく今になって状況が分かって来たスタッフたちが全面展開されている特殊シールドを必死に叩き、何とか二人を止めようとしている。
【4】
「外野がうるせぇな」
「無視しましょう。所詮外野ですし」
「だな」
【3】
「ライルさん! 本気ですか⁉ 二人とも病院送りになっちゃいますよ!」
「やめてください!」
「ど、どうしたら、」
男性スタッフがハッとする。
「――アリアさんにすぐ電話して!」
自分の携帯を取り出し、すぐに動画を回す。
「カメラある?」
「いえ、今日は持って来てません」
「テスト用の、あっちで回してますよ」
「じゃあそれは回し続けて!」
【2! 特殊シールド強化はレベルセカンドに移行します】
「室長に連絡が付くまで回しておいてくれ!」
ライルが首を左右に振って首筋の腱を伸ばすような仕草を見せた。
【1】
「だああああ! ダメだあああ! 完全にやる気だあああああ!」
「アリアさーーーーーーーん!」
衝撃に備えて、特殊シールドが二枚壁に強化される。
展開時に鳴るヴォン、という低い機械音と僅かな震動、
そしてフィールド全方位を一瞬で駆け抜けたライトが、
事実上の試合再開のゴングになった。
――――ドォン!
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