第11話 2-5 新人プロテスト前日 ベンタと海斗 故郷への電話
①海斗の田舎への電話(祖父、祖母、妹、明全和尚)
バイトが終わってジムでの練習が始まる前に少しの時間の余裕があった。海斗はリュックサックを背負って、走って公衆電話に向かった。松戸駅周辺にはまだ何か所か緑の公衆電話が残っていて、たまに見ず知らずの人が使っている時があるので、携帯電話を持たない海斗にとって場所の把握は重要なポイントであり、貴重な連絡手段だった。
バイト先は勿論、毎日通う徳川ボクシングジムや寮にも備え付きの電話は当然あったが、それは離れて暮らす家族から何かあったときのための緊急手段用としての扱いだった。
海斗は故郷に電話をかけるために毎月千円分のテレホンカードを二枚か三枚、〝念には念を〟の気持ちで百円玉や小銭も用意して財布の中に大切に入れていた。二十年ほど前に五千円や一万円分の高額のテレホンカードの不正が社会問題化して廃止されてからは公衆電話の数も激減し、外で公衆電話を探すのも大変不便な時代になっていた。
それはすべて携帯電話という便利なものが普及して多くの人が持つようになった事による弊害だが、今や小学生まで携帯電話を持っている時代に、ベンタと海斗は
敢えて持とうとはしなかった。それは毎月かかる費用の問題と、ボクシングと仕事に集中した生活をしたかったのが理由だった。またボクサーとして少しでも視力に影響を与えるものを排除する為でもあった。
自分の部屋にテレビがないのも、またパソコンがないのもそれが最大の要因だった。
世の中のいろいろなものに興味を持つ思春期の年頃に、自分の欲求を抑制し、余計なものを極力排除して、ひたすら一つのことに集中して打ち込む海斗のストイックな姿勢と強い精神力は、とても今時(いまどき)の十六歳の青少年の姿ではなかった。
これが何より一番身近にいるベンタに影響を与え、同じ寮に住んでいる先輩ボクサーに影響を与え、はたまた徳川ボクシングジム全体に影響を与えるようになったのであった。
自分に対しては厳しくストイックでありながら、決して身勝手で独りよがりではなく、困っている人を見ると放っておけない温かい人柄と、気配りをかかさない性格が、周りにいる人たちから何より信頼を寄せられていた。
どんなに実力があっても必要以上に自分をアピールすることがない海斗の控えめな人間性は、SNSで自己主張をひけらかして目立とうとする昨今のネット世代の風潮には全くそぐわない、一見正反対に見えるのだが、逆にそれが海斗の計り知れない未知の可能性を感じさせる要因にもなっていた。
最近では公衆電話を使って話をしている人をなかなか見かけなくなったが、だからこそ殆どいつ行っても空いているため、ほぼ確実に使用できるのが海斗には助かっていた。
電話ボックスの前で待たされる事は稀であった。
海斗の唯一の希望はテレホンカードの五千円分通話料金の復活だった。
これさえあれば百円玉をたくさん用意する必要が無くなるからだった。
百円を入れても何分も話が出来ないくらい故郷の島越(しまのこし)は遠かった。
そのためテレホンカードが足りなくなると百円玉をたくさん用意する必要があった。
海斗は左手で受話器を握りしめた。
右手でテレホンカードを挿入し、プッシュボタンを押した。
そして呼び出し音がコールしている間にポケットに入れてある百円玉を素早く持った。
待ち遠しさでソワソワしていた。
海斗は心の中で「早く誰か電話に出てくれ!」と祈るような気持ちで待っていた。
ようやく誰かが受話器を取った。
「はい、もしもし、分銅ですが?」
「さあ、私は誰でしょう?ちぐさ!」
「お兄ちゃん!お兄ちゃんだ!」
千草が左手の受話器を握りしめた。
「やったぁ!」
千草が右手を突き上げた
「ねえねえ、おじいちゃんおばあちゃん、早くってばあ!」
千草が後ろを振り向きながら叫んだ。
「お兄ちゃんから電話だよぉ!」
妹の千草が大喜びで台所にいた祖母を呼んだ。
「えっ、何々、誰だって?」
少し耳の遠い祖母の華(ハナ)が耳に右手をあてて聞き返した。
「だからお兄ちゃんから電話だってば!おばあちゃん、早く!」
「えっ、カイちゃんから電話かね?」
祖母の華(ハナ)が慌ててエプロンで手を拭きながら大声を出した。
「あんたぁ、カイちゃんから電話だってばぁ!」
「なにっ、海斗から電話がきたのか?」
仏壇の前にいた祖父の栄治郎も大声を出した。
祖父母が急ぎながら小走りで走ってきた。
電話口に三人が勢揃いした。
妹の千草が電話機のスピーカーボタンを素早く押した。
海斗の声が電話機から大きなボリュームで響き渡った。
三人はマイクに向かって話し始めた。
「じっちゃん、ばっちゃん、千草、変わりないかい?」
「みんな元気だよぉ、ねぇ、おばあちゃん?」
千草が祖母の華(ハナ)に顔を向けた。
「カイちゃん、怪我してねがべがぁ? ばあちゃん心配で心配で」
「大丈夫だよ、ばっちゃん」
「そっちは寒ぐねえが? しばれるべぇさ?」
海斗が聞いた。
「んだぁ、しばれるさぁ」
「これでもまだ今年はましなほうだべさ」
祖母の華(ハナ)が答えた。
「千草は勉強頑張ってるかぁ?」
「勉強そっちのけでブラスバンドに精出してねぇか?」
「ちゃんと両方頑張ってるよっ!」
「テナーサックスだって少しは上達してきたんだから」
「チーちゃん上手になったべさ、お兄ちゃんに聴かせてあげればいいさ」
華(ハナ)が言った。
「お兄ちゃん、あのね、ブラスバンドの県大会で優勝したんだよ! うちの中学校始まって以来のことだって。東京の全国大会に出ることになったんだよ!」
「へぇ、千草、とうとうやったなぁ、おめでとう!」
「東京に行けたらお兄ちゃんに会えるかなあ?」
「スケジュールが分かれば 必ず会いに行くよ」
「その時はちゃんと先生に話をしておくんだよ」
「うん、わかった。やったーおばあちゃん、やったぁ!」
千草が両手を上げて万歳をした。
「チーちゃん、よかったべさ」
千草が祖母の華(ハナ)に抱きついた。
千草の声が弾んで大喜びしているのが海斗には目に見えるようだった。
「海斗、いよいよプロテストだな?」
祖父の栄治郎が電話口に向かって静かに声をかけた。
「うん」
「明日、東京の後楽園ホールという所で受けることになったよ」
「後楽園ホールと云ったら、ボクシングの聖地だな」
感慨深めに栄治郎が言った。
「落ち着いて、自分の技量をだしてくればいい」
遠いところにいるはずの海斗の姿がまるで見えているかのように励ました。
そして何かを思い出したように電話機を見つめながら、栄治郎が噛み締めるように言った。
「震災で亡くなったお前の父さん母さんが、どんな時でもきっと見守ってるべさ」
栄治郎の言葉に、電話口にいる三人は自分に言い聞かせるように頷いた。
二〇一一年三月十一日、東日本大震災で父雅人(まさひと)、母しほりを亡くしていた。
八戸から石巻まで続く美しいリアス式海岸の真ん中あたりにある、三陸の小さな漁村、田野畑村島越(しまのこし)。ここで生まれ育った海斗と千草、二人きりの兄妹。
父は地元の漁業組合で働き、母しほりは自分の両親とともに魚の加工センターで働いていた。二人の子供がまだ幼かったため昼の間だけ雅人の父栄治郎と母華(はな)に預けていた。兄海斗三歳と妹千草一歳は、震災のあの日、山間にある分銅家の祖父母の家に居て被災した。
辛うじて祖父母と二人の子供の命が救われたのだった。
何もかもなくなったその日以来、苦しく長い復興への道のりの中、難を逃れ生き残った祖父母が親代わりとなって二人の孫を育ててくれた。
突然の大津波で避難することが出来なかった父と母と母の両親。当時家族四人で住んでいた海から少し離れた所にあった家ごと津波に流されたため、遺品や遺骨はいまだに発見されないままだ。自然というものの力の恐ろしさをあれ程までにまざまざと見せつけられた出来事は、二十八年前の一九九五年に起こった【阪神淡路大震災】以来であった。
『父と母が空の上から必ず見てくれている』
中学を卒業して東京に出てくる時、祖父の栄治郎が云ってくれた言葉だった。
空を見上げると父と母の顔が浮かんでくる。
それも写真でしか見たことのない両親の顔だった。
震災当時三歳だった海斗には、はっきりとした記憶が無かった。
「震災で亡くなったお前の父さん母さんが……」
栄治郎が、言葉を詰まらせた。
「海斗と千草をどんな時でもきっと見守ってるべさ」
祖父の栄治郎の一言が、海斗には心に沁みた。
父と母がいつでも心配してくれている。
父と母の見えない力を海斗は感じていた。
「じゃあ電話切るよ。また電話するから」
残り少なくなったカードの度数を見ながら、海斗が言った。
右手には百円玉が握られていた。
「ああ、わかった。体に気を付けて頑張るんだぞ!」
祖父の栄治郎が励ました。
「あっ、それと明全和尚にもひと言、電話しておくんだぞ」
栄治郎が付け加えた。
「わかった」海斗が答えた。
「お兄ちゃん、頑張ってね! 怪我しないでね」
妹の千草はいつも怪我を心配していた。
「カイちゃん、ちゃんとご飯食べなきゃ駄目だべさ」
祖母の華(ハナ)の心配はいつも食事の事だった。
「ばっちゃん、ご飯しっかり食べてるよ。怪我しないで頑張るよ。じゃ、切るよ」
「じゃぁねえ、お兄ちゃん、またかけてね。バイバイ!」
妹の千草が名残惜しそうに、電話の向こうにいる兄海斗に手を振っていた。
「チーちゃん、電話に向かって手振ってるべさ?」
祖母が不思議そうに云った。
「いいんだよぉ、お兄ちゃんには分かるから」
千草が当然という顔で祖母の華(ハナ)に微笑んだ。
②ベンタのお母さんへの電話
ベンタは仕事が終わってすぐに公衆電話に向かった。
この日のためにテレホンカードと百円玉を用意してしっかり巾着袋に入れた。
他の荷物と一緒にリュックサックごと背負っていた。
このリュックは、バスケットボールチーム【ライズ】時代の名入り特製バックだった。
ベンタはもう一つの大型のスポーツバッグとともに今でも大切に使っていた。このバックを見ていると巻川コーチや先輩後輩達の顔が浮かんで勇気が湧いてくるのをいつも感じていた。
自分が苦しい時、悲しい時、自分にはいつもバスケットボールの仲間の存在があった。
父を亡くし母と二人きりになった時も、生活が苦しく母のためにバスケットボールを辞めようと思った時も、いつも励ましてくれたのは他でもない、バスケットボールアカデミーの巻川コーチやチームメートだった。
ベンタはリュックの中の巾着袋からテレホンカードを取り出し、受話器を握りしめた。
そして母の携帯に電話をかけた。
ベンタの耳に呼び出し音が聞こえてきた。
和歌山にいる母の携帯にベンタの笑顔の写真が表示された、と同時に呼び出し音が鳴った。
母の携帯の呼び出し音は、母が若い頃から大好きだった曲、REOスピードワゴンの『涙のフィーリング』のイントロの部分だった。静かに印象的なピアノの音が聞こえてきた。
母は急いで携帯を手に取り電話に出た。
「お母さん、いま大丈夫?忙しい?」
ベンタが聞いた。
「大丈夫よ、そろそろ掛かって来るんじゃないかって、待ってたのよ」
ベンタの母が待ちかねたように答えた。
「たかかず、ちゃんと食べてる?怪我してない?」
と、ベンタの母が尋ねた。
「しっかり食べてるよ。練習はきついけど大きな怪我もしてないよ」
ベンタが答えた。
「そう、良かった。心配で、毎日お父さんの遺影に手を合わせてお願いしてるのよ」
ベンタも毎朝部屋にある父の写真に手を合わせてから、仕事に出ていた。
「お母さんこそちゃんと食べてる? 一人だと支度が億劫だよね?」
「ハハハッ、休みの日に買い出しして、いろいろ仕込んでおくのよ」
ベンタの母は、外食や店屋物があまり好きではなかった。
「冷蔵庫にパックごと入れてあると便利だし、栄養のバランスもとれるしね。ぬか漬けもあるから今度帰ってきたら食べてみて」
「ぬか漬けかぁ? お父さん、好きだったねぇ」
もう二度と会う事の出来ない亡き父の思い出が、ベンタの口からごく自然に出た言葉だった。
「楽しみに待っててちょうだい! と言っても、ボクサーは色々食事制限があるでしょうけどね」
好きなものを好きなように食べれないプロボクサーという過酷な職業を選んだ十六歳の息子を不憫に思った。体の大きなベンタは余計に減量が必要になるだろう、そんな気がしていた。
「まあ栄養の事とか体に関する知識は無理やりでも頭に入ってくるようになったけどね」
「お仕事とか、ジムや寮の皆さんにご迷惑をおかけしてない?」
母の心配している顔が自然と浮かんできた。
「仕事もボクシングも頑張ってるよ。周りの人が色々教えてくれたり面倒を見てくれるから心配いらないよ」
ベンタが一人で気をもむ母を安心させようとした。
「高校の資格の勉強はどう?疲れてやれないでしょ?」
母が聞いた。
「そっちの方は頑張ってるとは言えないけど、何とか少しづつやってるよ」
ベンタが百円玉を握った手で頭をかきながら答えた。
「同い年の分銅さんとは仲良くやってる?」
母がさらに尋ねた。
「いろいろ助けてもらってる。あいつはしっかりしてるから頼りになるよ」
ベンタが海斗の顔を思い浮かべながら素直に返事をした。
「そう、良かった。お母さんは安心しました」
母の安堵した声に、ベンタが胸をなでおろした。
「お母さん、手紙で書いた通り明日プロテストを受けることになったんだよ」
「手紙読んだわよ。いよいよね? あっと!」
母が持っていたスマートフォンを誰かが横取りした。
「かず~、もう少し電話よこしなさい」
小さいころから聞きなれた懐かしい声だ。
「叔母ちゃん、居たの? びっくりしたなぁ、もう?」
ベンタが驚いた。
「かずちゃん、叔母ちゃんはないでしょ! お姉ちゃんて言いなさい、っていつも云ってるでしょ? もう~」
「咲(さき)姉ちゃん、ごめんなさい。毎度のことで」
ベンタがおどけながら返した。
その声を聞きながら、吉川咲が瞬間的に母の携帯をマイクの設定に指先ですばやく切り替えた。
「はははっ、いいのよ、かずちゃん。それより明日、プロテストなんだってね?」
「うん、自信はないけどね。とりあえず頑張ってみるよ」
ベンタの弱気に答える声が、スマホから響いて母の耳にも聴こえてきた。
「そんな弱気でどうするの?」
「かずちゃん、強気で頑張れよー。おもいっきりやってこーい!」
吉川咲がベンタに気合を入れた。
吉川咲は、母とは正反対の性格で男勝りで気丈夫。小さいことにくよくよしない、面倒見がよくてどんな時でも竹を割ったような性分の女性だった。
ベンタを赤ん坊の頃から自分の子供のようにかわいがって面倒を見てくれた、母とはまるで姉妹のような母の親友だった。
「怪我しないようにね。よくここまでがんばったね」
母が少し涙ぐみながら声をかけた。
父を病気で失い、高校進学とバスケットボールをとるか、それとも徳川万世という人についていってプロボクサーになるか悩んでいた時、母を幸せにしてあげたい、母に家をプレゼントしてあげたいというベンタの母親を思う気持ちを知り、ボクサーになることを反対していたベンタの母を、一緒になって説得してくれたのが母の親友、吉川咲だった。
「咲姉ちゃん、お母さんをよろしくね!」
「まかしときなって。安心してがんばってきなさい!」
「じぁ、お母さん、また電話するからね。じゃ、切るよ」
「悔いが無いようにね」
ベンタの母は、心配でこれ以上の言葉を出す事ができなかった。
「かず~、吉報待ってるよ!」
不安そうな母に代わり吉川咲が気丈にふるまった。
「ラジャー(ベンタの得意の返事)」
母や吉川咲には到底見えるはずのない電話機の向こうで、ベンタが敬礼しながら答えた。
ベンタが受話器を握り締めながら、静かに電話を切った。
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