医学生樺山の癌闘病記録

@kazato1017

第1話

 忘れもしない、2023年の春、私こと樺山雪斗(かやまゆきと)は悪性リンパ腫という癌を宣告された。当時は22歳で明堂(めいどう)医科大学医学部に通う5年生だった。大学生として学生生活を謳歌するという年頃、そんな私に対してこの現実はあまりに唐突で残酷なものであった。


 とりあえずどんな経緯でこんな事になってしまったか少し説明しようと思う。最初の違和感は2023年の3月、そろそろ暖かくなり始めた頃だったろうか、夜寝ていると大量の汗をかいて、起きてしまう。それはまさに大洪水といった感じで、びしょびしょ。ただ、もともと暑がりだった私は特段気にしていなかった。


しかし、確信に変わったのがそこから2〜3日後、首元が腫れてきたではないか。私は医学生として、寝汗、首の腫れは悪性リンパ腫の代表的な症状であると知っていたのでその日中に最寄りのクリニックに行こうと決めた。ただ、その日は当時付き合っていた一つ年上の恵子(けいこ)とのデートの約束があり、デートを断って彼女の機嫌を損ねるのが嫌だった私は恵子に夜ご飯を食べてからクリニックに付き合ってくれないかと提案。彼女は渋々と言った様子で了承し、近くのラーメン屋で、ラーメンを食べた。本当は替え玉をしたかったが、恵子はせっかちな性格のため替え玉を頼むと嫌な顔をする。そのため、替え玉は諦めた。


 そして、食べ終わると予約していたクリニックへと向かう。もう外は真っ暗で、こんな時間にクリニックに行くのは珍しいなと思いながら車を走らせる。道中は恵子も私のことを心配した様子で


「ねえ雪斗、本当に大丈夫なの?」


と聞いてくる。彼女はネガティブになると面倒なので、あえて明るく


「大丈夫だよ、ほぼ100%風邪だと思うんだけど最悪のことを考えてね」


と私は返答した。実際、ほとんどの確率で風邪だと思っていたし、まさか一番最悪な結果を引き当てる事を私たちはまだ知らなかったからだ。


 そして、大学卒業後はどんな家に暮らそうかなどと2人で話していた。この手の話題を出すと恵子は嬉しいみたいで、機嫌を取るのが楽になる。そうこうしている内にクリニックに到着した。とりあえず彼女を車で待たせ、受付で


「予約した樺山です」


と声をかけて、保険証を渡す。初診だから少し高くなるかなと苦学生ならではのお金の心配をしつつ、医者から呼ばれるのを待った。そして、40分ほど待ってやっと呼ばれた。医者には寝汗と、首の腫れがあると説明したところ、医者の判断はおそらく風邪じゃないかということ。


しかし、私は医学生としてこういう町医者は風邪や胃腸炎といった一般的な病気を、1日に100人以上診ているために、重い病気のことを失念する事が多いと知っていた。そのため、自ら悪性リンパ腫の可能性を考慮してくれと頼みこみ、無事に血液検査をやって貰えることに。


 当時の私はこれで安心できるなとか呑気に思っていた気がする。なぜなら、検査の結果、医師に


「やはり風邪ですね、心配いりませんよ」


という言葉がくるものだと思っていたからだ。そして、待合室で待っていると先生からの呼び出しが。診察室に入ると、先生がどこかよそよそしい。結果を聞いてみると、悪性リンパ腫に対する腫瘍マーカーが上昇していた。腫瘍マーカーとは特定の癌ができた時に血液に漏れ出す物質の事で、悪性リンパ腫の場合、sIL-2R(可溶性インターロイキン2受容体)というのが腫瘍マーカーなのだが、私の値は正常値の10倍ほどだった。


 この時、あえて気付かぬようにしていた疑いが確信に変わっていたと思う。しかし、その事実を受け止めなくて、やはり何かの間違いだろうと自分に言い聞かせていた。先生の顔は先ほどと打って変わって、真剣な面持ちで


「すぐに大きな病院で詳しい検査を受けてください」


と言われたため、自分が明堂医科大学の生徒であると説明すると、明堂医科大学の附属病院に紹介状を書いてくれた。私はこの現実から目を背けたくて、足早にクリニックから出た。そして、A子に


「もしかしたら癌かもしれない」


と言うと、恵子は泣きそうになっていた。そりゃそうだ、恋人が癌かもしれないと分かったら悲しむに決まってる。そして、帰りの道中、もしその悪性リンパ腫だった場合、生存率はどれくらいか、治療がどんなものかを恵子に説明した。今の血液がんは治るというのが主流で、生存率は8割を超える。しかし、逆を言うと2割は死ぬと言う事で私はその事実に震えていた。


 しかし、彼女が気になったのはどうやら生存率ではなく、治療法の方らしい。どう言うことかというと、治療のために私は大学を一年休学しなくてはならない、そうなれば恵子の結婚時期が一年遅れることを心配していたのだ。そして、彼女から衝撃の言葉が発せられる。


「私は26歳で結婚して27歳で子供を産みたいの。それが遅れるってこと?」


と不機嫌そうに言い退けたのだ。この発言に対して、私は怒りや驚きを通り越して、固まっていたと思う。恋人が死を前にしている時になんて事を言うんだと、怒りのままに怒鳴ってやろうかとも思ったが、恵子は元々言いたい事を言ってしまう性格なのだ。普通の人はこのような事を言わないが、言わないだけで心の中では自分の人生設計が狂ったなとか思うの至極当たり前。逆に、恵子の嘘がつけずこういう素直な所がよく取り繕う私にとっては好ましい部分であった。


 そして、もう一つ私が怒るに怒れない理由があって、このまま別れてしまうことをどうしても避けたかったのだ。正直、病気の事を話して人生設計を気にする恵子にはすぐにでも別れを叩きつけたかったが、これから死ぬかもしれないという状況の中、1人になる事が怖かったのだ。だから、私は


「治療が長引いても、どうにか進級するから大丈夫だよ」


と彼女のご機嫌取りをしていたような気がする。本当は励まして欲しいのに、そんな気持ちを隠して彼女を家まで送った。


 恵子パート



 次の日私は自らの大学に隣接する明堂医科大学附属病院に向かった。普段は学生として実習を行なっているので、患者側として行くのはどこか違和感があった。


 早速、画像検査に呼ばれてCTを一枚撮ってもらった。1時間くらいすると診察室に呼ばれたので、担当の医者と対面した。名前は佐藤というらしい。そして、私は気づいてしまった。佐藤先生とクリニックの医者が同じような表情をしていた事、つまり真剣な面持ちでよそよそしているのだ。


 そこからは案の定、画像検査の結果、悪性リンパ腫の可能性が高い事が告げられた。そして、悪性リンパ腫の中でも種類があり、その特定のため首の腫れている部分から細胞をとるという事だった。


 私は今にも出てきそう涙を堪えて、診察室を後にした。とりあえず、両親に電話で報告しなければと思った私は携帯を手に取ったが、涙が止まらない。このままでは両親を心配させてしまう事を懸念して、トイレでひとしきり泣いた後電話で病気の事を伝えた。母親の反応は信じられないと言った様子でとりあえず病院に向かってきてくれるとの事。


 そして、私はというと先ほど佐藤先生が言っていた、悪性リンパ腫の種類を判断するための細胞採取が待っていた。診察室のベッドに乗せられて、首元の腫れているところに針が刺された。


「結果が出るまでお待ちください」


と看護師は採取した針を手早く回収して、診察室から出ていった。その言葉がなんとなく事務的で、私のささくれたった心はその言い方に少し怒りを感じたのを覚えている。


 そして、私が待合室で待っていると母親が合流した。母親の顔は真っ白で、


「大丈夫なの?」


と何度も聞いてきた。その度に、私は


「結果が出るまでわからない」


と言うしかなかった。そして、30分後くらいだっただろうか、いや数分後だったような気がする。どれくらいか待合室で待ったか、わからないくらい動揺していた私を看護師が診察室に呼んだ。


 そして、診察室に入ると先生から病気の名前が告げられた。この時医学生だった私は悪性リンパ腫にはT型とB型があり、T型の方が予後が悪い事を知っていた。そのため、心の中で


「B!B!」


と叫んでいたが結果はTリンパ芽急性リンパ腫という病名。残念ながらT型であった。


先生の口からはやはりT型は再発の危険性が高く、予後が悪いという事を告げられた。さらに、病気の進行速度も早いようで、治療をしなければ3ヶ月持たないという。そのため、その日に緊急入院という運びになった。


ふと、同席していた母親の顔見ると、誰が見てもわかるくらい真っ白になっており、申し訳ないという気持ちになった。さらに、この病気は感染症のリスクがあるためどうやら3ヶ月は面会が禁止らしい。そのため、母としばらくは会えないと察した私はどうにか母を心配させまいと


「俺は大丈夫、治療頑張るよ」


と一言告げ、母と別れた。おそらく私の声は震えていただろうが、これが私の精一杯だった。

そして、そこからは目の回るような忙しさだった。まず私の腕には点滴が何本も付けられ、血液検査や画像検査、心電図、呼吸機能検査などありとあらゆる検査を行なっていく。そして、そのどれもが悪性リンパ腫であることを指し占めており、まるで私の存在を否定されているかのように感じた。


検査が全て終わり、私はこれから何ヶ月間も闘病するであろう病室に招かれた。病室は個室で、白くとても綺麗だった。しかし、その無機質さがどこか怖くて、この白いベッドの上で一体何人の患者が命を落としたのだろうかと勝手に考えてしまう看護師からは


「また何かあったらナースコールで言ってください。」


と一言。そして、部屋に流れる沈黙。その沈黙が嫌で私はすぐに母親にビデオ電話をした。すると、母親はすぐに出てくれて、


「体の方は大丈夫?病気の事なら絶対に治るから心配しなくていいからね」


と私の聞きたかった言葉を言ってくれた。そのまま、私のこの不安を全て洗いざらいぶちまけようと思ったが、それはできなかった。励まそうとする母親の声は明らかに震えていたからだ。母親だって人間だ。自分の息子が癌とわかり動揺しない親なんていない。そんな当たり前のことをを思い出し、私は弱音を飲み込んだ。

そして、


「大丈夫。治療頑張るからね」


と前向きな言葉を言っていた。もちろん、私の表情が母親に見られないようビデオ通話は切っていた。なぜなら、言っている事と表情が噛み合っていないことをわかっていたからだ。そうなると話していても辛くなるだけだったので、電話を切った。


そして、まだ電話しなくてはいけない相手が1人いた。そう、彼女である恵子だ。正直、以前言われた


「私は26歳で結婚して27歳で子供が産みたいの。それが遅れるってこと?」


という発言がトラウマになっている私は電話をしようか迷った。しかし、誰かに励まして貰いたいという一心の私には彼女に電話した。


「病気になってもあなたのことをずっと支えるからね」


と言った言葉を期待して。


そして、恵子が電話に出た。病気に関することや生存率の事など全て彼女に話した。すると、恵子は急に喋らなくなってしまった。


 これは恵子とのデート中よくある事なのだが、彼女は不機嫌になると全く喋らなくなるのだ。例えば、私がトイレで腹痛のため15分ほど篭って出て行った時、そこから明らかに不機嫌になり話さなくなってしまった。私は理由が全く分からず、恐る恐る聞いてみるとトイレで15分待たされて謝罪もなかった事が許せなかったらしい。恵子はとてもせっかちだったのだ。私はトイレだからしょうがないだろと言いつつも次からのトイレは出来るだけ、早く済ませるよう努力した。


つまり何が言いたいかというと、私が自分を奮い立たせて、病気のことをカミングアウトしたところ彼女は不機嫌になってしまったのだ。そして、私が理由を聞いてみると


「病気になったあなたにイライラしてしまうの」


と一言。私はもうなんて言えば良いかわからなかった。病人に向かってなんて酷いことを言うんだという気持ちと、彼女に離れていって欲しくない気持ちでぐちゃぐちゃになって結局何も言えず、その日の電話は終了した。そして、入院初日だと言うのにあまりに疲れ過ぎたためか泥のように眠りについた。


 次の日から早速、抗がん剤治療が始まった。抗がん剤の副作用の影響で髪の毛は抜け、気持ち悪くなって嘔吐を繰り返す日々。まさに地獄のようだった。そんな地獄のような日々を1ヶ月ほど送った頃だろうか、私はある抗がん剤の副作用で急性膵炎を発症した。


 急性膵炎とは膵臓という臓器が炎症を起こし、膵液がお腹の中に染み出して来てしまう病気だ。膵液は主に肉や魚などタンパク質を溶かす働きを持つ。そして、人間の体の大部分はタンパク質なので、お腹の中を溶かされるような痛みが続くのだ。というか、実際溶かされており、私は余りの痛みから症状がおさまるまで6時間ずっと叫び続けた。


 そんな中病室の扉が開き、そこには両親がいた。そして、両親は泣きながら私の背中をさすりながら何か言っていたような気がするが、言葉になっていなかった。それも当然で1ヶ月ぶりに見た息子は髪の毛が全て抜け、痩せ細り痛みでのたうち回っているのだから、逆に冷静でいられる方がおかしいだろう。そして、感染症のリスクから15分程で、病室から両親は退室させられていた。


 後で聞いた話だが、帰りの道中は車内で2人とも号泣しながら帰ったらしい。私は痛みのため1ヶ月ぶりに来てくれた両親には目もくれず、ひたすら叫んでいた。しかし、時間が経てば少しずつ痛みはおさまってきて、発症から6時間後やっと、眠りにつく事ができた。


 正直、これが私の人生で1番の痛みであった。よく、この痛みは出産と同程度とよく言われるのだが、逆に世の中の女性はこんな痛みを経験しているのかと思うと、女性には頭が上がらない理由がわかった気がする。


 そこから、1週間の絶飲食を経て私の体調は戻りつつあった。恵子にはしばらくの間連絡がとれなかった事を謝ったところ、素直に私の事を心配していたようで、また何か言われるんじゃないかと思っていた私は少し反省した。


 そして、急性膵炎を乗り越えた私に待っていたのは厳しい現実だった。今回、急性膵炎を引き起こした抗がん剤がどうやら私の病気に対する特効薬らしく、この抗がん剤以外の薬では私の病気の完治は不可能という事だった。そのため、骨髄移植という選択肢しか私には残されていなかった。


骨髄移植とはドナーバンクで遺伝子が適合した人から、骨髄液を患者に移植する治療法でハイリスク、ハイリターンと言われる。成功率は8割といったところだろうか。


しかし、この骨髄移植において大事なのが適合するドナーがいるかどうかだ。もし、適合するドナーがいなければ治療も出来ずただ死を待つのみとなってしまう。


 後日、私と両親は病院の一室に集められた。もにろん、ドナー検査の結果を聞く為だ。急性膵炎を発症したぶりに会う両親の顔は明らかに痩せ細っており、やつれていたのを鮮明に覚えている。


 そして、佐藤先生から告げられたのは 


「ドナー適合者はいませんでした。申し訳ありません。」


という言葉だった。私はなんとなく察していた気がする。最近あまりにも不幸な事が多いせいで今回もそうなのだろうなと。ただ、先生から


「まだ、希望は残っていまして、家族、親戚の方にドナー検査をお願いしたいのですがよろしいですか。」


という事だった。もちろん、私と両親はそれを快諾し家族、親戚一同みんなでドナー検査ををする事になった。ただ、このドナー検査には結果が出るまで1ヶ月ほどかかるらしく、それまでの間なんと1ヶ月間の一時退院をする事になったのだ。


これは嬉しい誤算だったが、ふと考えるともしかしたらこの1ヶ月が人生最後の一カ月間となるかもしれないとわかった私はその怖さに震えた。そして、最後に先生から渡されたのは終活のパンフレット。終活とは人生の終わりを意識して行う活動や準備のことで


「死ぬ前にやり残した事を書いてみてください」


と横にいた看護師さんが一言、優しく言った。私は少し考えてみたが、全く思い浮かばなかった。病気が治ったらやりたい事など死ぬほどあるが、死ぬ前にやりたい事など何もない。結局私は何も書けず部屋を後にした。そして、私の人生最後の一カ月が始まったのだ。


 まずは、病室の片付けをして両親とそのまま家に戻った。久しぶりの自宅はやっぱりいい。匂いが落ち着くというか、病院にはない暖かさがそこにはあった。そして、夜になって家族でご飯を食べた。そこでは、両親や兄妹はとても明るく


「絶対誰かが適合するよ」


と母親が言っていた。その明るさが逆に、適合しないことから目を背けているようで私は不安を感じていた。


そして、次の日から家族で旅行にでも行こうかと話していたが、さすがにそんなに急には仕事を休めないらしく、とりあえず1ヶ月あるのでゆっくりしようという話になった。



ただ、私は何もしないというのがもったいなく感じて一人旅をしようと決断した。恵子と旅行する事も考えたのだが流石に今の私に誰かを気遣うという余裕はなく彼女もそれを了承してくれた。


行く場所はどうしようかと考えた時に小学生の時に行った奈良と京都にしようと決めた。なんとなくノスタルジーに浸りたかったし、神社やお寺が多い京都と奈良で神頼みをするのも悪くないと感じたからだ。


そうと決まればとりあえず、京都にホテルをとって、次の日の朝、車で京都へと向かった。道中はサービスエリアに寄って、そこのご当地ジュースを買った。これは私の習慣とも言える行動で、旅行先の明らかに値段の高いご当地ジュースを買って飲むのだ。そうすると、旅行気分が高まる感じがして、明らかにもったいないが欠かさず行なっている。


 サービスエリアを出て、京都に着いた私はまず、清水寺に向かった。そして、清水寺に一番近くて、一番値段の高いコインパーキングに車を停めた。どうせ、死ぬのならここで節約してもしょうがないと思ったからだ。


 そして、清水寺までの石段を登る道中にはんぺん屋さんを見つけた。少し空腹だった私は迷わず店内に入り、気になる3本をチョイス。ある一本が特に美味しかったので、それをおかわりした。普段、こういう食べ歩きのお店でおかわりなんて恥ずかしくて普通はしないが、そんな恥、今の私には全くなかった。とにかく今の私は後悔がないようにと進み続ける突進兵のようなものだったからだ。


 さらに石段を登っていくと清水寺の入り口である大きな鳥居が見えた。鳥居のすぐそばには多くの外国人や修学旅行生が写真を撮っていて、その景色に懐かしさを覚えた。


 私も小学生の時にここで写真を撮ったなとか外国人が相変わらず多いなとかいい感じにノスタルジーに浸った。そのまま、鳥居をくぐり入場券を購入、しばらく歩くと高台が見えてきてそこには沢山の人がいた。その人たちをかき分けて見た高台からの景色は本当に綺麗で、昔の人はよくここに高台を作ったなと感心していた。


 そして、そこから少しおりたところには例の滝があった。例の滝というのは、修学旅行の定番で、三つの滝が流れておりそれぞれに健康、恋愛、勉学という意味が込められている。そして、クラスで人気者の男子は大体恋愛を選んでひと笑いとるのだ。私は恥ずかしくて勉学を選んでいたような気がする。


 今日の私はもちろん健康をチョイス。さすがにここでは迷わない。やる事をやって石段を下っていくと、出口がありまた来た道を戻っていく。もう終わってしまったと、どこか寂しい気持ちになりつつもコインパーキングに到着し、車を出した。


 そして、そのまま私はホテルに戻りテレビでNetflixにログインして気になる映画を探し始めた。せっかく旅行に来たのにもったいないと感じるかもしれないが、私は無理をしてまで観光地を回ろうとは思えないのだ。楽しみにきたのに、疲れるなんてまさに本末転倒ではないかと。



 面白そうな映画を見つけた私はさらにデリバリーでマックを注文、今から最高のフィバータイムが始まる。この待っている時間が私にとっては至福なのだ。そして、映画が始まり、ハンバーガーを食べながら最高の時間を過ごした。


 しかし、病は着実に私の体を蝕んでおり夜中に嘔吐してしまった。そうなると一気に怖くなるのだ。本当に私の命はもう僅かであることを直感してしまうから。


 そして、人は寂しくなると誰かと会いたくなってしまう。私はダメ元で高校の時の友達で奈良の大学に進学した良介に連絡を取ってみた。


 そしたら、なんと奈良まで来てくれるなら明日奈良を案内してくれるらしい。正直、迷った。心が弱った私は彼に泣きついてしまうんじゃないかと。けれど、人生最後の1ヶ月なのだ。後悔はないようにと彼の言葉に甘えた。


 次の日、私は身支度を済ませてホテルを出た。車を1時間ほどを走らせて集合場所の駅に到着。待っていると見覚えのある顔が見えて、手を振ったところ、あちらも私に気付いたようで、小走りで私の車に乗ってきた。久しぶりとお互い合言葉のように言った後、早速車を発進させた。


 そこからは、病気のことなんて忘れてお互いの現状報告や彼女は出来たのかとかたわいもない会話をしていたと思う。とりあえず良介が奈良公園に行こうというので早速向かった。奈良公園の近くのコインパーキングに停めた後、奈良公園に入場。昔の思い出通り、とりあえず沢山の鹿がいたのに満足感を覚えた。やはり、奈良公園はこうでなくてはと変わらない景色になぜか安心感を感じたのだ。


 沢山の鹿たちに満足した私たちは奈良の大仏に向かった。そして、鳥居をくぐるとあまりにも大きい寺がそこにはあった。


 多分小学生の時もそう感じたのを覚えているが、それは私が子供であって体が小さいために寺が大きく感じていたと思っていたが、大人になって見ても余りに大きく私は言葉が出なかった。そして、興奮した私は良介に写真を撮ってもらい、寺の中に入った。


そこには大仏がおり、ぐるっと回って見ていると穴の空いた柱があり、良介は得意げに


「雪斗、この穴は大仏の鼻と同じ大きさなんだよ」


と言っていたが、割と誰でも知ってる知識である。この穴をくぐると良いことがあるという事だったので、早速挑戦したが、これが意外と狭く、中々体が抜け出せない。どうやら周りの高校生くらいの集団が私を見ているが、全く気にならなかった。むしろ、私が穴をくぐる姿を見せてやると言った気持ちになっていた。


そして、無事穴をくぐることができて私は満足し、意気揚々と寺を出たところ良介オススメの高台があるという。早速向かおうという事になり、高台への道中、物知りな彼は目の前に見える池が出来た理由だとか、そこの池にいる鳥の豆知識などをだらだらと喋っている。


 そうこうしている内に例の高台に到着した。そこは先ほどの奈良公園と打って変わってとても静かで、景色も中々のものだった。良介曰く、この高台で見知らぬ人と話すのが趣味ということらしく相変わらず変わった奴だなと思いながら、病気ことを彼に言おうか迷っていた。


 正直、この落ち着いた雰囲気の中、洗いざらい口に出して良介に慰めて貰いたい。そんな気持ちがよぎりながらも、それを見た彼はどんな顔をするだろうか。良介は優しいから多分悲しそうな顔をするんだろうな。そして、それを見た私は必ず後悔するだろう。そういう顔を両親や兄妹に病気の事を伝えた時、たくさん見てきたのだから。


 結局、私が辛くなりそうなので彼に病気の事をカミングアウトするのはやめておいた。そう決断すると不思議とお腹が減ってきたのでBを夜ご飯に誘った。おすすめの店はあるかと聞くと特にないというので、何年奈良にいるんだと思いながらもスマホで評価の高いパスタ屋さんを選択した。


お店に入ると他に客はおらず貸切状態だった。人が全くいないお店だと、普通不安を覚えるが病気の事で少しネガティブになっている私にとっては何故か安心感を覚えた。運ばれてきたパスタを食べながら、良介が大学でどんな勉強をしているか聞いていると、どうやら研究室で色々やってるらしい。


私は医療系の大学なので普通の大学でよく聞く研究室とかラボとかは存在しないのだ。そのため、彼に図々しいお願いだが研究室に行きたいと頼んでみたところ、快く了承してくれた。


そして、彼の大学に到着しエレベーターで研究室に到着すると、なんと他の学生が麻雀をしているではないか。これは私もやるしかないということで、参加させて貰い見ず知らずの彼らと麻雀を楽しんだ。良介が大学で普段どんな様子か聞いたり、逆に私は良介が高校でどんなに変な奴だったかを力説して楽しい時間を過ごしていた。


そんな楽しい時間はあっという間に過ぎて、Bを近くの寮まで送り届けて京都のホテルに向かった。帰りの道中はカミングアウトしなかった自分を褒めてあげていた。どうせ言ったところで楽しい旅行が台無しになるだけだったからだ。


そして、京都のホテルに到着して一泊してから自宅に向かった。さて、残りの1ヶ月は何をしようかと呑気に考えていたが、家に着くと明らかに体調が悪くなっていき寝たきり状態に。やりたい事はあるのに何も出来ないそんな1ヶ月となってしまった。


 そして、ついにその日がやってきた。ドナー検査の結果が出たと言うことで、私たち家族は病院に向かった。結果はなんと弟の細胞が適合している事がわかった。そして、私は恐る恐る弟に


「ドナーになってくれないかと」


と聞いて見たところ、笑顔で


「もちろん」


と即答してくれた。ドナーといっても恐らく痛い思いもするし、不安もあると思う。そんな中で笑顔で即答してくれる弟には感謝しかなかった。そして、そんな兄弟愛を見ていた両親は涙を流していたのを覚えている。


 そこからはあっという間で、すぐに弟の骨髄から細胞が採取され、数日後、骨髄移植をするという流れになった。そして、移植日前日の夜、もしかしたら家族と話せるのも今日が最後かもしれないと察した私は自分の病室から両親に電話をかけた。そして、こう伝えた。


「自分を産んでくれて、ここまで育ててくれて本当にありがとう。今日まで本当に幸せでした。仮に生まれ変わって、また同じ病気になるとしてもお父さんとお母さんの家庭に生まれたいです。」


そういうと両親は泣きながら


「私たちもあなたが息子で本当に良かった」


といってくれた。その言葉に私も泣いてしまい、家族みんなで泣いた。私は不安で眠れるか心配だったが、泣き疲れたのかすぐに眠った。


 移植日当日、移植自体は特に問題なく完了した。それもそのはずで拒絶反応が出るのは2〜3日後だからだ。私も例に漏れず2日後に40度以上の発熱と、下痢や嘔吐が止まらなくなっていた。また、余りの痛みから大量の医療用麻薬を使っていたので、目の前に謎のおじさんが現れたり、自分が何人かに分裂するなどの幻覚を見て、正直頭がおかしくなりそうだった。


そんな地獄のような日々が2週間をほど続いた後、なんと弟の細胞が私に適合したのだ。この時ばかりは、自分が生きている事に神に感謝した。そして、治療を支えてくれた家族や先生、看護師さんたちに沢山お礼の言葉を言った気がする。


元々あった私の体重は58kgからなんと39kgまで落ちており、体は全くいう事をきかなかった。しかし、生きるという希望が見えた私にとってそれ以外の事はどうでも良く心から安心した。


また、両親はこの2週間の間、欠かさず神社に通い食事もまともに口を通らなかったという。それを聞いた私は申し訳なさ半分、そこまで心配してくれた事に幸福を感じていた。


そこからはみるみる回復し、誕生日を迎える事ができた。誕生日当日、リハビリから病室に帰ってくるとなんと部屋にはhappy birthdayの文字といつもお世話になっている佐藤先生、作業療法士さん、看護師さんなど20人ほどが集結していた。それを見て、なんとなく察した私は号泣してしまった。そして、ハッピーバースデーソングを歌って貰い、先生からは直筆の本を頂いた。本の最後には


「雪斗君へ、早く良くなって私の跡を継いでくださいね。」


と書いてあって、それを見た私はまた泣いた。この日だけで、何リットル涙を流したかわからないくらいだ。そして、私はなんて素晴らしい人の縁に恵まれてるいるのだろうと神様に感謝したのを覚えている。


そうして、人生最高の誕生日を迎えた私は日常生活を送れるくらいには回復。恵子とも久しぶりに連絡ができ、順風満帆な生活を送っていた。


そして、ついに退院の時がやってきた。約半年ぶりに見る空は青くて吸い込まれそうだったのを覚えている。また、匂いも病院のアルコール臭ではなく、自然の温かみがあるというか不思議と安心できるものだった。


 自宅に到着し、その日の夜は家族みんなで母親のご飯を食べた。やはり、母親のご飯は美味しくて、どこか懐かしさを感じる。家族で闘病中辛かった事や、楽しかった事などを話してその日は眠った。


 そして、その日からは家族で温泉旅行に出かけたり、弟にメッセージカード付きの財布をプレゼントしたりした。メッセージカードには


「thanks for your stem cell」


あなたの幹細胞をくれてありがとう


と書いておいた。我ながらいいセンスだと思い、得意げにプレゼントを渡した。また、A子とも久しぶりにデートの約束をし、気分は最高潮と言った感じだ。


そして、デート当日、運の悪い事に母親が急用で車が必要となり、デートの集合時間に15分ほど遅れてしまった。もちろん、恵子には事前に連絡をしていたのがせっかちな彼女の事を考えると、少し不安があった。


さすがに、久しぶりに会った恋人なのだから何事もないだろうと思いながらお店に到着した。そして、恵子は一言


「見た目変わったね」


と。そりゃ、そうだ。半年も闘病していたんだから。そこから、恵子は全然喋らない。どうやら私の不安は的中してしまったようだ。


そうして、店から出て私は恵子に


「別れよう」


と告げた。そうすると、恵子は号泣して


「嫌だ、別れたくない」


というので、私は


「久しぶりに会ったのに退院おめでとうもない。やっぱり君は自分の事しか考えてないんだよ」


と言い、車から降りて貰った。やはり、人の本性というのは本当に辛い時に出るものだと感じた。そして、彼女と結婚を考えた時に、病気以上に辛いことなんて沢山あるだろう、そして、それを一緒に乗り越える事は彼女はできないと判断したので別れを告げた。


ただ、闘病期間中、恵子の存在に支えられていたのも事実で、後日LINEでお礼を言っておいた。


 こうして、私の恋愛は終わってしまったわけだが、友情の方はというと退院してから良介にLINEで全てカミングアウトしたのだ。実は悪性リンパ腫という癌にかかっていた事、そして、それを良介に隠していた事。そしたら、良介から返信が返ってきて、なんて書いてあるんだろうと思いながら見てみると


「以前、雪斗が僕のところに訪ねて来てくれた時には、既に闘っていたんだね。それに気付けなかった悔しさもあるけど、友人を気遣える強い漢が友である事を僕は誇りに思うよ。」


 こいつはなんてクサいことを言うんだと思った私は、なぜか出ている涙を拭きとってスタンプだけ返しといた。相変わらず変わった奴だ。


4月になり大学に復学する事になった。復学から1ヶ月後にあった総合試験には無事合格し元々入部していたラグビー部にも復帰できた。長く険しい道だったがやっと普段の日常が戻ってきたのだ。


 これまでに、病気によって多くのものを奪われた私だったが、実は得られたものも沢山あった。それは、ここまで支えてくれた人達や医療関係者の形との出会いだ。そのうちの1人でも欠けていたら今の私はいなかったと本気で思っている。


将来、医師としてこの方達と同じ職場で働けたらこんなに嬉しいことはないだろう。密かに、そんな事を思いつつ、今日も私は勉学に励むのだ。


おわり


著者プロフィール


齊藤樺嵯斗24歳


小さい頃から医師を志し、2018年4月にA大学医学部医学科に入学。しかし、2023年5月、当時5年生で22歳の時に血液がんである悪性リンパ腫(Tリンパ芽球性リンパ腫)を発症。7ヶ月間の抗がん剤治療と骨髄移植を経て2023年12月に無事退院するも、その半年後である2024年6月に再発。治療をしても生存率10%、余命半年と宣告される。


ただ、医師になる夢を諦めきれず根治治療を選択し、二度目の骨髄移植を決意。幾度も生死を彷徨うも、奇跡的に回復し2025年2月に退院。約2年間にわたる闘病生活に終止符が打たれる。


しかし、大学復学のための学費が治療費と休学費用で底をつき退学の危機に陥る。そんな時にある人からクラウドファンディングを勧められ、実行したところ目標金額である220万円を達成しさらに1500万円まで金額がのびた。無事に復学。現在、A大学医学部5年生に在籍し、将来自分と同じような病気をもつ人の手助けとなるために血液内科医を目指している。


小説情報


(実はこの後再発します。そして、生存率10%、余命半年を宣告されるも、たまたま再発の1ヶ月前に界隈で神と呼ばれる名医が私の病院に入局しており、その日から「この病気を治せるのは私だけです」とうい先生の言葉を信じて治療開始、奇跡的に回復して現在、リハビリのため入院しており、病室から書き上げました。本当はそのことも書きたかったのですが、文字数オーバーになると思いここでまとめた次第です。ちなみに処女作です。よろしくお願いします。)


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