成人祝い

 アーヴィンが最終確認を始めてから、どれくらいの時が経っただろうか。靴音が、ピタリと止まった。同時にユーリの呼吸も、一瞬引きつけるように止まった。

 ミスはないはず。見逃すようなものも、なかったと思う。人間は失敗するもので、だからこそ二重チェックが行われている。失敗や見逃しがあってもアーヴィン隊長は失敗そのものを叱責することはあっても、人格否定や怒声で威圧する人間ではない。

 それでも――――否、だからこそユーリは、可能な限り完璧な仕事をしたかった。敬愛する整備隊長のために。ひいてはこの船に妹と生きるための隙間を作ってくれた第二の父のために。


「……ユーリ」

「ッ、はいっ!」


 元々ビシッと伸びていた背筋を更に伸ばし、背中に銃でも突きつけられているかのような硬い表情で続く言葉を待つ。

 普段ならうるさいくらい耳に響いているはずの、周囲の整備する音が遠い。元気に指示を飛ばす先輩たちの声も、ドックから輸送艇が漕ぎ出すことを報せる警戒音も、なにも聞こえない。


「整備内容の報告をしろ」


 代わりに耳鳴りがしそうになった頃。ユーリの意識をアーヴィンの声が揺さぶって叩き起こした。一瞬で、世界に音が戻る。指示が脳に反響する。ユーリが頭でそれを理解するより早く、口が動いていた。

 それは、見習い時代に培われたアーヴィン直々の教育の賜物であった。


「はい! 要補修箇所一件、貨物室内に0.8%の損傷あり。損傷はイレイザーにて修復済み。外装に要観察箇所三件。場所は全て手帳に記入し次回の整備にて再観察。コンピュータは搭載AI、航路設定共に異常なし。以上です」

「そうか」


 たった三文字の返答にも、心臓が跳ねる。報告の声が震えていたような気がして、服の中を冷たい汗が伝い落ちるのを感じた。暑いのか寒いのかもわからない。背中に氷を放り込まれたような、あるいは燃え盛る炉の前に立っているような、熱の感知が狂ってしまった感覚に襲われる。

 どれほどの時が経ったのか。それとも一瞬だったのか。アーヴィンの浅く息を吐く音が聞こえ、ユーリはビクリと体を跳ねさせた。


「十分だ」


 ユーリがその言葉を飲み込み、理解するのに、数秒の時間を要した。

 硬直したまま薄く口を開けてぼんやりしているユーリの肩に、アーヴィンの大きく無骨な手が乗った。その瞬間、時間が動き出したように体の硬直が解けた。

 肩に触れている手が熱い。其処で漸く、ユーリは自分の体温が異様に下がっていることに気付いた。人というものは緊張で此処まで体の有り様が変わるものなのかと、何処か他人事じみた感想が頭を過ぎる。


「ほ……んと、ですか……?」

「ああ。整備で世辞は言わん」

「そっ、そう、ですよね、はい。……あ、ありがとう、ございます……?」


 まだ現実味を感じられていない様子で上ずった返答をするユーリに、アーヴィンは微かに笑って頷いた。


「だが、気は緩めるな。今回は試験的に簡単な整備を任せたが、明日からは班に所属して本格的に整備の補佐をすることになる」

「っ、はい!」


 ユーリも整備をしていて、それは理解していた。

 今回は難解な整備もなければ見つかりにくい損傷もなく、コンピュータにも異常は無かったのだから。これはある意味彼からの成人祝いのようなものだったのだろう。さすがに、それがわからないほど浮かれてはいなかった。


「今日はディルク班に合流してサポートに回れ」

「了解!」


 早足で向かうユーリの後ろ姿を見送り、アーヴィンもまた、自らの持ち場へ戻っていく。その表情は隊長のものでもありつつ、何処か親心も滲み出ていて。ユーリには知る由もないが、アーヴィンの抱く期待を表しているかのようだった。


「ディルク班長、よろしくお願いします!」


 ユーリが大声で挨拶をしながら二つ折りになるほど頭を下げると、ディルク班長と呼ばれた青年はパッと表情を明るくした。無造作な髪に、ヘアバンドのような格好でゴーグルを引っかけた姿は年齢以上に彼を若く、或いは、少年のように見せている。だが腰に巻いたベルトには彼のが収まっており、ディルクはユーリが憧れている先輩の一人でもあった。

 ディルク・シュトルム。整備士隊第三部隊の第六班班長を務める彼は、第二成人である二十五歳を迎えたばかりの若き班長だ。親しみやすく、話しかけやすい雰囲気を持っており、上下の風通しがいい班として知られている。


「おう、うちに来たか。まあ、今日は其処まで切羽詰まった整備も来てないからな。ゆっくり仕事を覚えるといいぞ」

「はいっ、ありがとうございます!」


 真っ直ぐ答えるユーリの頭を、ディルクのマメだらけの手が雑に撫でる。ボサボサ頭になったのをまた雑に整えてやりつつ、ディルクは班員に改めてユーリを紹介してやりながら、班での仕事を教えた。

 ユーリの素直な性格はざっくばらんで職人気質なディルク班と相性が良く、後輩として大いに可愛がられた。その手段が時折粗野なのはご愛敬で、ユーリも憧れだった整備士に一歩近付けた喜びから、素直に仕事と振る舞い方を覚えていく。


 この日も方舟時間で午後五時を知らせる鐘の音が鳴るまで、ドック内は整備の音と威勢のいい指示の声が絶えることはなかった。

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