無垢なるもの
ユーリが下層で新人整備士として働いている頃、雪衣は自室でただぼんやりと暇を持て余しているわけではなかった。
外に出られない雪衣は、一日の大半を部屋で過ごす。
空気清浄機が設置された寝室と居間の往復で、然程長くもない廊下を歩くだけでも息が上がってしまうほどに体力が無いため、仕事はおろか日常動作もままならない。
心臓と肺が弱い雪衣にとって外の空気は毒にも等しく、もし下層になど行こうものなら、数分も保たずに倒れてしまうことだろう。
本来ならば心臓移植を受けるところだが、両親のいない雪衣に大手術を受けられるだけの費用を捻出する手段がない。ユーリには勿論、散々世話になったアーヴィンにだって頼めるはずもない。
ソムニアの民は上層が運営している船員保険に加入する義務があるが、生前選別を免れてしまった命である雪衣にはその権利がない。病状が悪化すれば、全てを自費で払わなければならず、心臓移植ともなれば、星歴の技術でさえ目が眩むような金額がかかる。
原状を回復させる手段がない以上、いま出来ることをするしかない。雪衣は体こそ脆弱だが、精神は決して弱くはなかった。
体を使うことが出来ない代わりに、それ以外でユーリを支えるべく、雪衣は自分の時間を勉強につぎ込んでいる。ベッドの上で可能な限りの書籍を読み、知識を蓄えていく。いざというとき、兄の役に立てるように。
ユーリを見送った雪衣は、部屋の本棚から電子書籍端末を取り出して読んでいた。
ソムニア内の書籍は九割が電子書籍で、紙の書籍は電子化が難しいごく一部の古い資料などに限られている。とはいえ紙の書籍は貴重品であることが多いため、一般に出回っているのは頁を撮影した画像書ばかりで、本としての性能は決して良くない。
現在の電子書籍は販売サイトにログインして読む形式ではなく、各自の端末に購入した書籍を落として好きなときに読む形になって久しい。まだ地球が生きていた頃は各社が競うように電子化したもののサイト内でしか読めないものばかりで、サーバーダウンなどトラブルがあった際や、販売サイトが運営停止してしまった場合などは、読むことが出来なくなるのが当たり前だった。
個人所有形式になってからは紙媒体の頃のように自宅に本棚を所持する者が増え、本好きのあいだではジャンルや作者ごとに端末を持つことが一種のトレンドとなっていた。
特に人気の端末は、本の形をしたARブックだ。表紙に購入した書籍のタイトルを入力すると、ARブックの中身がその本になるという臨場感のある読書端末である。更にイヤホンやスピーカーと接続すれば、本を捲る音なども再現される。
読書愛好家の中でも過激派の部類は、これを持たざるものは読書家にあらずとまで言い張る者もいる始末。
雪衣もまた例に漏れず書棚を所持しており、ユーリと半分ずつ使っている。雪衣の棚には満遍なく様々な専門書や絵本、空想物語などが並ぶのに対して、ユーリの棚は整備や機械に関するもので埋め尽くされていた。
「電脳症の発症と異能……異能の発現は災厄をきっかけに増えたとあるけれど、その前に一度発症者が急激に増えた事件があったのね」
今日雪衣が選んだのは、電脳症に焦点をおいた歴史書だ。
まだ地球が人類の住処として機能していた頃。
ネットワーク上に精神を移して電脳空間内に仮拠点を設ける、仮想市街化の開発が盛んだったことがあった。各社が競いあうように街を開発し、人々は仮初めの人生を謳歌していた。
当時は深淵接続技術と呼ばれていたそれは、半身、全身不随の人間に対するケアを目的として開発された技術であった。その機械も、限られた医療現場にのみ存在していたのだが、米国の大手ゲーム会社が、深淵接続技術を応用したオープンワールドを公開。瞬く間に全世界で流行した。とはいえ、公開当初は数十万ドルもの専用機械が必要で、流行といっても富裕層の遊びと言われていたのだが。とある日本企業が専用機材の改良と量産に成功してからは、一般のゲームセンターやネットカフェなどにも流通するようになったという。
その頃から、人々のあいだで奇妙な現象が起きるようになった。
のちに電脳症と名付けられる、不治の病の流行だ。
「
そう呟き、自分の小さな手のひらを見つめて、一つ溜息を吐いた。
雪衣は、生まれついての異能の持ち主だ。例に漏れず健康な体を失った代わりに、癒しの力を得ている。雪衣の治癒能力は彼女自身の病を治すことだけは出来ないが、怪我の治療は自他共に行うことが出来る。治癒というよりは、病巣や傷を自身に転移させる異能であるため、ユーリから堅く使用を禁止されている。
双子として生まれてきて、雪衣だけが異能を持っている理由はわからない。だが、どんな理由であれ異能者として生まれてしまった以上、一生能力と共に生きなければならない。
ただでさえ持病に振り回される人生を背負っているのに、異能にまで悩まされたくない。だからこそ雪衣は、知識を求めているのだ。
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