第27話
スマホで時間を確認する。十三時五十分。
お母さんが今住んでいる家の最寄り駅で降りて、徒歩十分の所にあるカフェに向かっている。お母さんとは十四時にカフェで会う約束をした。
僕の家の近くで会おうかと提案されたが、家からは遠い所が良かったので、ここにしてもらった。僕の家の近くだと、知り合いがいるかもしれないし、聞かれたくない話を聞かれるのは避けたかった。
カフェに着くとガラス張りの窓の向こうにお母さんが見えた。お母さんが僕に気づいて手を振っている。窓に太陽の光が反射して、僕が移動するたびにお母さんの顔が見え隠れする。僕はお母さんに軽く頭を下げ、カフェのドアを開けた。カランカラン、とドアのベルが鳴る。入った瞬間、コーヒーの香りが鼻をくすぐる。お店のBGMはよく分からない洋楽が流れていた。
「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」と女性の店員が言う。
「いえ、あそこに座っている人の連れです」と言ってお母さんを指差した。ウッド調の壁、床、テーブルと椅子に囲まれた店内に、ブラウンの服を着たお母さんが溶け込んでいる。
「そうでしたか。お席のほうへどうぞ。お水とメニュー表お待ちいたしますね」
営業スマイルのような笑顔を向けて店員がレジの奥へと消えていった。
お母さんが座っている窓際の席へ向かった。お母さんが笑顔で待っている。僕は軽く頭を下げて、お母さんの正面に座った。
「真絃、久しぶり。今日はありがとうね」
「別に……」
お母さんの前に置いてあるコーヒーカップを僕は見つめる。なぜかお母さんの顔を見ることができない。お母さんとは最後まともに会話をしなかったから、どうやって話せばいいか分からない。どうやってお母さんと会話をしていたっけ。僕はお母さんの前ではどんな息子でいたっけ。
店員がお水とメニュー表を持ってきてくれた。僕はメニュー表に目を通す。
「元気だった?」とお母さんが言う。
「うん。それなりに……」
僕はお母さんの顔を一瞬だけ見た。一緒に暮らしていた時と変わらない笑顔を僕に向けている。僕はその笑顔を受け入れることができない。その笑顔に笑顔で返すことはできない。
すみません、と店員を呼び、アイスコーヒーを頼んだ。
「お母さんが出て行って、おばあちゃん大変だったんだってね。ごめんね。真絃に苦労かけさせたね……」
「別に。お母さんが謝る必要ある? おばあちゃんが倒れたのは誰のせいでもない。誰も謝らなくていい」
「ごめん……。そういえば、学校はどう? お母さんと同じ職業目指しているなんて、びっくりだったよ。聞いた時嬉しかったなぁ」
「僕はおばあちゃんが倒れた時、作業療法士の先生と関わって目指そうと思ったんだ。お母さんが作業療法士だから目指したんじゃない」
今の僕は最強に嫌なやつだ。お母さんを傷つけるような言い方しかできない。
またお母さんの顔を見た。悲しそうに微笑んでいた。目尻の皺、こんなに深かったっけ。
「お待たせしました。アイスコーヒーです」と店員がアイスコーヒーを僕の目の前に置く。
僕はアイスコーヒーを一口飲む。氷がグラスにぶつかって音を立てる。
「そういえば、お母さんに聞きたいことがあるって言ってたよね? 何?」
僕はお母さんの目をしっかりと見た。
「何で不倫したの?」
「え?」
お母さんの表情が一気に崩れた。目は泳いで、自分を落ち着かせようとしているのか、水を何度も飲んでいる。
僕はもう一度問う。
「何で不倫したの?」
「何で……何で真絃が知ってるの? お父さんから聞いたの?」
「お父さんが言うわけないじゃん。まさか僕が不倫のことを知っているなんて思ってないだろうね。僕はお父さんよりも前に不倫のことを知っていたんだよ」
「……どうやって知ったの? もしかして……」
「ショッピングモールの地下駐車場で会ってたでしょ? この目で見たから」
お母さんが頭を抱えながら、「ごめんなさい」と小声で言った。
「別に謝らなくていいから、何で不倫したのか教えて」
「子供のあなたは知らなくていい」
「僕、一応成人したから大人の仲間入りしたんだ。ただ単純に疑問に思っただけなんだ。浮気、不倫をする人が世の中には沢山いて、何で恋人や夫を裏切ることができるんだろうって、疑問に思っただけなんだ。お母さんに聞くのが一番手っ取り早いだろ?」
「何で真絃はそんな冷静なの……。不倫した理由なんて話せるわけないでしょ」
「お願いだから話して。話してくれなかったら、もう一生お母さんとは会わないから」
「そんな……」
「これからも僕に会いたいなら話して」
「……分かった」
お母さんはお水を一気に飲んだ。コーヒーも一口飲んで、ゆっくりとカップを置いた。カップとソーサーのぶつかる音が響いた。
お母さんは視線を落としたまま話し始めた。
「その……不倫相手の中本さんとは、お父さんと付き合う前に付き合ってたの。中本さんとは結婚も考えてた。でも、結婚がダメになった」
なるべく冷静に聞くんだ。冷静に。冷静に。
「何で?」
「親から反対されたから」
「おじいちゃん、おばあちゃんから?」
「うん。おじいちゃんも、おばあちゃんも古い考えの人だったの。中本さんの生まれ育った地域の治安が悪いとか、そんな地域で育ってきたなら
中本さんもろくな男じゃないとか、中本さんのご両親が感じ悪いとか、さんざん中本さんと中本さんのご両親を悪く言ってた。私は中本さんもご両親も素敵な方だって分かっていたから、親から反対されても結婚したかった……」
「結婚しなかったのは何で?」
「気づいたの。結婚したら中本さんを苦しめるって。結婚は私達だけの問題じゃない。結婚は家族と家族が結びつくことだから、中本さんが私の親から一生悪く言われるのを想像したら別れたほうがいいと思って、中本さんとはお別れした」
「別れて、お父さんと出会って結婚して、それで?」
「それで……、お母さんはお父さんのことを本当に愛していた。中本さんとは同じ職場の同僚としてずっとやってきた。でも……」
お母さんがまたコーヒーをゆっくりと一口飲んだ。
「でも?」
お母さんが僕と目を合わせて、また視線を落とした。
「でも、おばあちゃんと一緒に住むようになって、お母さんの心が壊れてしまった。そんな時に助けてくれたのが中本さんだったの」
確かにおばあちゃんはお母さんに当たりが強かった。厳しかった。でも……
「おばあちゃんがお母さんに色々言っていたのは知ってる。でも、僕はお母さんの味方だった。伝わっていなかったんだね……」
「味方してくれているのは分かってた。でも、それでも耐えられなかった」
「お父さんは? お父さんに相談しなかったの?」
「お父さんはおばあちゃんの味方だったでしょ? 相談なんて無駄だと思った」
「相談してみれば何か変わったかもしれないだろ。それに、僕が味方じゃ無理だったんだね。結局、男に慰めてもらわないとダメな女だったんだね」
「そんなことは……」
「不倫する前にお父さんに相談することもできたし、僕に相談することもできた。不倫するくらいなら離婚する選択肢だってあったはずだろ?」
「離婚は……真絃のためにしたくなかった」
「僕のため?」
「真絃はきっと家族みんなで暮らしていきたいと望んでいると思ったから。真絃に苦労かけさせたくなかったから」
「じゃあ、不倫したのはおばあちゃんと僕のせいってことになるね」
「違う!」
「僕のためにって考えてたんだろうけど、結局自分のことしか考えてないんだよ。僕に相談してくれたら、離婚すればって言えたのに。不倫するよりも、好きな人ができたから離婚してほしいってお父さんに言ったほうが、よっぽど誠実だ」
そうだ。僕はお母さんとは違う。ちゃんとあの時別れた。木村さんとちゃんと別れた。僕は浮気をしていない。自分を正当化しているだけかもしれない。でも、僕はお母さんとは違う。僕は心の中で凛華先輩を想っていたけれど、それに気づいてすぐに別れた。お母さんみたいに僕は誰かと付き合いながら、違う誰かとキスをしたりしていない。
裏切っていない。
「ごめんなさい」
お母さんが俯きながら小さな声で言った。
僕の中から黒い感情が出てくる。口を閉じたいのに、黒い感情がまた喉のところまで出て抑えることができない。
「あの時のことも本当自分勝手だったよね。不倫をやめたくないから、凛華さんと別れろって。本当自分のことしか考えてない」
「それは違う!」
お母さんが顔を上げて僕の目をまっすぐ見る。嘘ではないと目が言っている気がする。
「違うって……じゃあ他に理由があるの?」
「それは……」
お母さんがまた視線を落とした。
「それは? 何? 他に理由なんてないだろ」
「ある。あるけど……」
「何? 言ってよ。言えよ!」
「真絃と……凛華さんが
「は?」
お店のBGM、周りの雑音が聞こえなくなった。姉弟かもしれない、という言葉が頭の中で何度も反復された。
理解できなくて、頭が真っ白になった。目の前のアイスコーヒーしか目に入らない。震える手でアイスコーヒーのグラスを持ち上げて一口飲んだ。氷とグラスのぶつかる音が聞こえて、お店のBGMや雑音もまた聞こえ出した。
「どういう……ことだよ」
僕は出そうにない声を必死に出した。声が震えてしまった。
「お父さんと、中本さんどっちと血が繋がってるのか分からない」
「は? ちょっと意味が分からないんだけど」
たしか、お父さんとお母さんは授かり婚だと聞いたことがある。
じゃあ結婚する前に浮気していた? 結婚する前から裏切っていたってこと?
「お父さんと結婚する前に、一度だけ中本さんと二人で会ったの。お母さんと中本さんは嫌いで別れたわけじゃなかったから、その……まだ好きって気持ちはあったの、だから私が結婚する前に最後二人で会おうってなって……それでその時……」
「は? お父さんのことも、中本さんのことも同時に好きだった? は? それで体の関係をもって、妊娠して、お父さんか、中本さんかどっちの子か分からず結婚して、僕を産んだってこと? 結婚する前からお父さんのこと裏切ってたんだ。しかも、中本さんもその時結婚してたはずだよね? 凛華さんはもう産まれてたはずだ」
「中本さんは結婚してた。でもその一回だけなの……」
「一回だけじゃないだろ! その後結局不倫して、お父さんをまた裏切ったじゃないか! 本当最低な女だ」
「ごめん……こんなお母さんでごめんなさい」
「もういいよ。もう訊きたいことないからもう帰るよ……」
僕はアイスコーヒーを一気に飲んで、立ち上がった。
「ごめんね。お母さんね、真絃はお父さんの子だと思ってるから。真絃の耳とお父さんの耳、そっくりなの。だからきっとお父さんと血が繋がってる」
「耳だけじゃ分からないだろ。たとえ血が繋がってなくても僕のお父さんは、お父さんしかいないよ。じゃあ、さよなら」
僕はそのまま立ち去ろうとお母さんに背を向けた。でも、何かの意地みたいなものが湧き出てきて、これだけは言いたかった。僕は振り向いて言った。
「僕を産んで、十六年間育ててくれたことだけは感謝してる。これからは誰も傷つけないように生きて。誰も裏切らないで。じゃあ」
お母さんが最後どんな表情をしていたかは分からない。きっと今までのことを後悔しているだろう。息子に全て知られたんだから、どん底に落とされた気分なんじゃないかな。
帰り道、空を見上げると、綺麗な青空が広がっていた。綺麗な青空を見て、心が癒されるわけでもなく、今は大雨でも降って欲しい気分だ。あの時みたいに大雨が降って、風邪をひいて、体も心も弱って、泣いても熱のせいにできる。だから今日は雨が降ってほしい。僕が涙を流せるようにしてほしい。そんな願いは叶わないけれど。
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