第19話
「はい」
インターホンから男性の声がした。たぶん先輩のお父さん。お母さんの不倫相手だ。
走って心拍数が上がっているのもあるけれど、違う心拍数の上がり方をしている気がする。
ふぅ、と息を吐いた。
「凛華さんの友人ですが、凛華さんいらっしゃいますか?」
「……少しお待ちください」
玄関のドアが開いた。先輩のお父さんだ。あの駐車場でお母さんと車に乗っていた人だ。
先輩のお父さんが僕を見るなり、「き、君! 大丈夫か!?」と言う。
そうか、僕がずぶ濡れだからか。
「大丈夫です」
「玄関に入りなさい」
お父さんから腕を引っ張られて、玄関に入ってしまった。全身からポタポタと水が落ちて、玄関のタイルを濡らしていく。
「はい。良かったらタオルでふいて」
「ありがとうございます……」
とりあえず頭を拭いて、顔を上げた。先輩のお父さんと目が合い、僕の目をじっと見てくる。僕も目を逸らさず、じっと見ていると、お父さんが目を見開いた。
「き、君は……倉橋さんの息子さん……?」
そうか、僕の顔を知っていたんだ。お母さんは僕の写真を不倫相手に見せていたのかもしれない。
「はい。そうです」
「そ、そうか……。君は……凛華の友達なのか」
「はい」
「君は……その……知っているのか?」
何を? と言いたかったが、もうどうでもいい。
「不倫のことですか?」
「君も知っていたのか……。本当にすまなかった」
「君も?」
「凛華も知っていたんだ。写真を持っていた……」
「あなたと僕のお母さんが写っている写真を見つけたんですか?」
「嫁が見つけたんだ……」
あの脅迫に使う写真が見つかってしまったのか。だから、先輩がメッセージであんなに謝っていたのか。先輩が悪いんじゃないのに。不倫した人が悪いのに。
「それより、凛華さんはいないんですか?」
「いない。嫁と出て行った」
やっぱり先輩の家族も壊れてしまったんだ。先輩が一番望んでいない結果になった。
先輩がいない。もう会えないのだろうか。会いたい。会って話したい。
「凛華さんは、今……。いやなんでもないです」
先輩が今どこにいるのか訊くのをやめた。もうこれ以上先輩を追いかけてはいけない気がした。先輩が僕に会ったら謝り続けると思う。それならもう会わないほうがいいのかもしれない。その前に先輩はもう僕と会ってくれない。
「君からお母さんを奪ってしまって、本当に申し訳ありませんでした」
先輩のお父さんが深々と頭を下げた。
「もうそんなことどうでもいいです」
本当にどうでもいい。謝られても何も変わらない。お母さんも先輩も戻ってこない。
「すまない……」
「凛華さんは泣いていましたか?」
「泣いていたよ」
「……最後に見た凛華さんはどんな様子でしたか?」
「最後までごめんなさい、と言って泣いていたよ。凛華のせいじゃないのにな……」
先輩のせいじゃないって言葉は、先輩には届いていないのかもしれない。今の先輩の心には何を言っても届かないんだろうな。きっと今でも自分のことを責めているんじゃないかな。
どうか先輩が自分のせいではないという言葉が、いつか心に届きますように。
「僕、帰ります。いきなりすみませんでした」
僕はタオルを返し、玄関のドアを開けた。
「待って。君はもしかして凛華の彼氏だったのか?」
「……そうだったらどうしますか?」
こんなこと言ったって何にもならないのに、少しだけ先輩のお父さんを困らせたかった。彼氏と思わせて罪悪感をさらに植え付けたかった。
僕は玄関を飛び出し、また走り出す。寒い。さっきまでは無我夢中で走っていたから忘れていたけれど、今は白い息が出るくらいの寒い時期だった。冬の雨に打たれるのはさすがに凍える。でも、この寒さで心が麻痺して今の感情が分からない。無でいられる。
家に帰り着いて、暖かいシャワーを浴びたのは覚えている。気づけばベッドの上で、おばあちゃんが部屋のドアの前で僕を呼んでいる。
「まーちゃん! 学校遅刻するよ!」
学校に行こうと思っていたけれど、体がきつくて動けない。頭痛も寒気もすごい。たぶん熱がある。
「たぶん熱あるから休む」
「あら大変! 体温計どこかしら? あとお薬も。おばあちゃん探してくるわ」
「うん。ありがとう」
カサカサ、と何か音がしたので、おばあちゃんがやっと体温計と薬を持ってきてくれたのかもしれない。
目を開け、音がするほうを見ると湊がいた。
「何で湊が……」
湊がいるってことはもう夕方か。寝すぎたな。
「あー起こしちゃったか。ごめん。体調大丈夫か?」
「あーだいぶいいかな。あれ? 何で体調悪いこと知ってんの? 僕、学校に連絡してなかったんだけど」
「さぁ、誰かが連絡したんじゃない? 担任が熱で休みって言ってたぞ」
「そっか」
「俺のお母さんがさ、薬とかゼリーとか持っていけって」
テーブルにレジ袋が置かれている。
「ありがとう」
「あのさ、ちょっと話があるんだけど、きつかったらまた明日でもいいんだけどさ……」
湊が珍しく歯切れが悪い。いつもなら、いつでもお構いなしに何でも話すのに。
「別に今でいいよ」
体を起こしてベッド上であぐらをかき、湊に体を向ける。
湊は正座をして、僕のほうを見る。
「お前が学校で聞いてしまうより、今ここで俺から聞いたほうがいいと思ってさ……」
「何?」
湊が僕から目を逸らし、俯いている。
「噂で聞いてさ……お前のお母さんと凛華先輩のお父さんが……」
「不倫してたこと?」
湊が勢いよく顔をあげた。
「知ってたんだ……。良かった。良くはないけど……」
「湊にいつか話そうと思ってたんだ。ごめん。なかなか話せなくて」
「いや別に……普通親が不倫してるとか誰にも話せないだろ! というか不倫は本当なんだな……」
「うん。本当だよ。だからウチの親、離婚するんだって。それでお母さん、家を出て行ったんだ」
「そっかぁ……。お前大変だったんだな……」
「大変じゃないよ。親が離婚しても僕は何も変わらないから」
「そっか、無理すんなよ。あ、そうだ……先輩、転校するんだってな」
「そんなことも噂になってるんだ……」
どこの誰が噂を流したんだろう。親の知り合いとか? 近所の人とか? もしかしたらお母さんの職場にバレて、職場の人の中に先輩か僕の同級生の親がいたのかもしれない。世間は本当に狭い。世の中の人はゴシップみたいなネタが好きすぎるんだよな。人の噂をして面白がって、自分がもし噂をされたらなんて考えもしないんだろう。
「うん。凛華先輩の悪い噂も出回ってる」
「悪い噂?」
「親が不倫をすると、子供も浮気性になるとか……」
「は? なんだよそれ」
「先輩が二股かけたとか、あることないこと噂されてる……」
「先輩はそんな人じゃない! 先輩じゃなくて、僕の悪い噂を流せばいいのに!」
「たぶん、先輩が学校にいないから言えるんだよ」
「いなくても、そんなこと言うのは最低だ」
親が不倫をしていると、子供まで浮気するやつだと思われてしまうんだ。僕は僕で、先輩は先輩。他の誰でもないのに。先輩は、家族を取り戻そうと必死に行動できる人なんだ。親と一緒にしないでほしい。
世の中の人は逸脱する人間を悪く言ったり、すぐ排除しようとする。でも、本当にその人は逸脱する人間なのか、許される逸脱なのか、許されない逸脱なのか、ちゃんと見極めてほしい。先輩は浮気なんかする人じゃない。噂だけを信じるな。
先輩が学校にいなくて良かった。親のことで散々傷ついているのに、学校でも噂されて傷ついたら先輩の心が壊れてしまう。
「うん。最低だよな。……そういえば先輩とは連絡取れた?」
「取れなかった。図書館に来て欲しいって送ったけど、先輩は来なかった。だから、先輩の家まで行ったんだ……」
「え!? 家まで?」
「うん。土砂降りの中、走って家まで行って、今これ。熱なんか出して、僕は本当にださいよ……」
僕は下を向いた。今この瞬間涙が出そうなのもださい。泣きそうなのがバレたくない。きっと熱のせいで弱っているんだ。堪えろ。
「ださくない。かっこいいじゃん。好きな人のためにこの寒い中雨に打たれながら走ったんだろ? かっこよすぎだろ」
「えっ?」
顔を上げたら涙が流れてしまった。
「お前、良い顔してんな」
湊が笑った。湊が立ち上がって、テーブルの上に置いていた箱ティッシュを持ってきた。
「あ……りがとう。これは熱で弱っているから涙が出たんだ」
「分かったから、涙も鼻水もふけ!」
涙が止まらない。自分でも分かるくらい、だいぶ弱っているな。
「僕は……雨の中走って、先輩には会えず、母親の不倫相手と顔を合わせてしまったし、先輩が今どこにいるのか訊かずに帰ったし、しかも熱出て、ださいじゃん」
「いや、かっこいいだろ! 俺ならそこまで行動できないよ」
「え、でも、僕に言ったじゃん。『たまには自分を制御しなくていいんじゃない?』って、雨の中走ってる時も、制御しなくていいって湊から囁かれた気がして、僕は先輩に会いに行けたんだ。湊ならそうするかなって思って僕は先輩のために走れたんだよ」
「俺は口だけなんだよ。真絃に制御しなくていいとか言ってるけど、実際俺はそこまでできねぇ。まず好きな人にも話しかけられないし。そんなに行動力ない。だから俺は真絃はかっこいいと思う」
「そんなかっこいいとか言われたら、なんて言っていいのか分からない」
「そこは、ありがとう、でいいんだよ! 最後にまた口だけだけど、言ってもいい?」
僕は大きく頷いた。
「先輩がどこにいるのか訊かなかったのは先輩を思ってのことだろ? せめて先輩に最後にメッセージ送ったら? 一方的でいいんだよ。先輩から返事がなくてもいい。伝えたいこと伝えろよ」
やっぱり湊もかっこいいよ。僕の背中をいつも押してくれるじゃないか。お互い、自分がかっこいいことには気づかないんだな。
「伝えたいこと……」
「頭の中で一番に思い浮かんだ言葉は?」
頭の中で、ありがとう、と浮かんだ。
昨日は、先輩のせいじゃないとか、会いたいとか、一緒にいたいと伝えたかった。でも、今はただ、ありがとう、と言いたい。
「ありがとう、が思い浮かんだ」
湊が微笑んだ。湊が僕の頭をくしゃくしゃと撫でる。少し収まっていた涙が、またどんどん溢れてきた。
もし僕が不倫のことを知らずに、学校の噂で知ったとしたら、今よりもショックが大きかったかもしれない。
先輩のことを何も知らずに不倫相手の子供としか認識できなかったかもしれない。
でも、今は前もって知っていたから全然平気なんだ。実際、平気なのかは分からないけれど、平気だと強がることができるんだ。
だから、先輩には感謝しかないんだ。
「じゃあ、元気になったらさ、メッセージ送れよ。それで、気持ちに区切りつけることができるだろ?」
「うん。そうだね」
先輩にはもう会わない、会えないと分かった以上、僕には区切りが必要だ。
ほら、また湊は僕の背中を押し続けるんだ。
「じゃあ、とりあえずさ、水分とれよ。心配になるくらい涙出てたぞ。あと、ゼリーでも食え! おばあちゃんにスプーンもらってくるから」
「湊、ありがとう。本当に感謝してる」
湊がおもいっきり歯を見せて笑い、部屋を出て行った。
湊が戻ってきた。
「ほら、スプーン。おばあちゃん、なんか忙しそうだったから勝手にスプーンもってきた。鍋焦がしたとか、優子さんいつ帰ってくるのとか言ってたぞ」
いつ帰ってくるって、土曜日に出て行ったじゃないか。
「あ……おばあちゃんのことは気にしないで。スプーンありがとう」
レジ袋の中を覗くと、ポカリスエット数本、ゼリーが六つほど、種類はみかんゼリー、ブドウゼリー、桃ゼリーが入っていた。
お母さんも僕が熱を出したら、ゼリーを買ってきてくれた。僕はみかんゼリーが好きだから、いつもみかんゼリーだけ多めに買ってきてくれた。
きっとお父さんもおばあちゃんも僕が好きなものを知らない。
みかんゼリーの蓋を開け、みかんとゼリーをスプーンですくって、口に入れる。みかんとゼリーの甘さが口の中に広がる。今日初めての食事だから、よけい甘く感じる。口の中から全身に甘さが広がっていき、弱っている心が少し回復した気がする。
「なぁ、このアルバム見ていい?」
湊が机の上からアルバムらしき物を持って、それを僕に見せている。
そんなアルバムこの部屋にあったかな。まぁいいや。
「いいよ」
湊がアルバムをめくっている。それを見ながら僕はゼリーを食べる。
「お前、赤ちゃんの時かわいいじゃん」
「え? 赤ちゃんの時の写真? ちょっと表紙見せて」
湊がアルバムを持ち上げ、僕のほうに表紙を向けた。
表紙にはお母さんの字で、『まいと』と書かれていた。お母さんがアルバムを置いていったんだ。何でわざわざ僕の部屋に置いていくんだよ。お母さんが持っていけば良かったのに。
「真絃も見る?」
「いや、僕はいいや。今は見るきしない」
湊が肩をすくめ、再びアルバムを見始める。時々、ふっ、と湊の笑い声が聞こえて、どんな写真なのか少し気になったけれど、僕は見ない。
「なぁ真絃。この女の子、先輩に似てないか?」
「女の子?」
「うん。前髪パッツンの女の子。見てみろよ。似てるから」
どうせ幼稚園とか小学校で同じクラスだった女の子が写っている写真だろう。
湊がベッドまでアルバムを持ってきて、「この子」と言って指をさす。
湊が指をさした所を見ると、前髪が綺麗に揃えられた女の子が笑っていた。女の子の横には、恥ずかしそうに笑っている僕がいる。
この女の子は凛華先輩だ。笑った顔が今と変わっていない。たぶん初めて会った時の写真だ。僕が思い出せなかった先輩だ。
「これ凛華先輩だよ」
「え? マジ? 昔から知り合いだったんだな」
「うん。僕は先輩のこと覚えてなかったんだけどね」
「へ〜。あ、顔色良くなったな。先輩の顔見たら元気になった? また良い顔してるぞ」
「良い顔?」
「穏やかな顔」
先輩には会えなかったけれど、昔の先輩を見れたから僕は前に進めそうな気がした。
湊の言うとおり、たしかに心が穏やかな気がする。
「僕、今から先輩にメッセージ送るよ」
「そっか。頑張れ!」
「痛っ!」
湊が僕の額にデコピンをしてきた。僕が額をさすりながら湊を見ると、満面の笑みでこちらを見ている。僕もつられて笑ってしまう。
「早くメッセージ送れよ。俺はアルバムの続き見てるから」
「うん」
本当は言いたいことが沢山あるのだけれど、もういいんだ。これだけ伝わればいい。
『凛華先輩、今までありがとう。本当にありがとう』
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