僕の秘密の計画

第20話

「作業療法学科、新入生、一同起立」

 僕を含め、周りの生徒達が一斉に立ち上がる。

「礼、着席」

「新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。この学校を……」

 学長の話が始まった。こういう時の話って長いんだよな。最初は真剣に聞こうと思っても、途中から意識がどこかへいってしまう。こんなことを考えている時点で、もう話を聞いていないんだけど。

 高校の制服と違って、スーツは動きにくいというか、まだ慣れなくて話に集中できない、という言い訳を頭の中で呟く。

 いよいよ今日から始まるんだ。作業療法士という夢に向かって頑張るんだ。


 入学式を終え、学校をあとにして歩いて駅へ向かう。

「真絃〜置いていくなよ〜」

 後ろから湊の声が聞こえる。そうだった。湊と一緒に帰るんだった。

「ごめん。忘れてた、というか、いまだに信じられないんだよ。専門学校まで湊と一緒なんてさ……」

「うん。俺も!」

 湊が嬉しそうに笑うのを見て、僕も、ふっ、と笑った。

「なんか……湊がいたら心強いよ」

「それ! 俺もだよ! 一緒の学校受かったのマジで嬉しい! でも、本当良かったな。お前のところ色々大変だったじゃん? 真絃、高校のテストとかやばかったしなぁ……」



 たしかに大変だった。


 

—— 高校一年生の冬、先輩に最後メッセージを送り、先輩から返事はなかったけれど、既読にはなっていた。先輩にメッセージを読んでもらえただけで僕は満足だった。前を向いて進んでいけそうだった。

 学校で親の不倫のことを噂されていたけれど、別に気にならなかったし、噂も続くことはなかった。

 お母さんと先輩がいない生活にも少しずつ慣れていった頃、おばあちゃんが倒れた。

 

 脳出血だった。

 

 医師には、左半身に麻痺が残るでしょう、と言われた。

 仕事が忙しいお父さんに変わって、毎日おばあちゃんの様子を見に行った。看護師からおばあちゃんの必要なものを買ってきてほしいと言われれば買って行った。

 おばあちゃんがリハビリを集中して行う病院に転院してからは、三日に一回様子を見に行った。様子を見に行くたびにおばあちゃんの洗濯物を持って帰り、家で洗濯してまた病院に持って行く。こうやって、徐々に家事もこなして、気づけば僕が家事全般を担当することになっていた。元々掃除は好きだったので、掃除だけは完璧だった。ご飯はスーパーの惣菜を買ったり、お店でテイクアウトをしたりしていたけれど、お店の味に飽きて自分で料理をするようになった。ネットでレシピを検索して、なんとか簡単なものは作れるようになった。


 毎日学校に行って、家事をするだけでヘトヘトだった。だからお母さんは働きながら家事をこなして、すごいな、と思った。不倫をしなければ。


 僕は家事を理由に勉強をおろそかにした。これはただ僕が勉強しなかっただけだ。でも、担任の先生は、家庭の事情があるから無理せず頑張れ、なんて言ってくれた。


 でも、大変なのはここからだった。

 おばあちゃんがリハビリの病院に入院して二ヶ月が経った頃、退院に向けて医師やリバビリの先生とお父さんが話し合いをしていた。話し合った結果、おばあちゃんは自宅に帰ることになった、とお父さんから聞かされた。施設か、自宅かで迷っていたお父さんだったが、おばあちゃんが家に帰りたいと言ったらしく、家に帰ってくることになった。


 それからすぐ、リハビリの先生や、その他の病院関係者が家を訪れて、ここに手すりをつけましょう、とか言っていた。リハビリの先生はこんなこともするんだな、と思った。


 僕はおばあちゃんが帰ってくるんだ、入院で疲れているだろうし、家でゆっくり過ごしてもらおう、と簡単に考えていた。


 退院する二週間前、お見舞いに行くと、おばあちゃんはリハビリの時間なのか、病室にいなかった。看護師に訊ねると、「今はリハビリに行ってますよ。作業療法室にいます」と言われた。僕は作業療法室へ向かった。


 お母さんが作業療法士として働いていたから名前は知っていたけれど、どんな仕事なのか正直詳しくは知らなかった。

 そういえば凛華先輩がたしか作業療法士になりたいと言っていたことを思い出した。


 作業療法室を覗くと、ベッドに横になってマッサージを受けている人や、お箸で何かをつまんでお皿からお皿に移動させている人や、座って輪投げをする人がいた。患者さんは一人一人違うことをしていた。患者さんの横には、上下白い服を着た人が必ず一人いる。この上下白い服を着た人が作業療法士なんだろうな。


 おばあちゃんを探すと、作業療法室の壁際にある椅子に腰掛けた状態で、麻痺した左手のマッサージしてもらっていた。


「こんにちは。祖母がお世話になっています」

 おばあちゃんのマッサージをしている作業療法士の女性に挨拶をした。

「あー! 初めまして作業療法士の佐藤です。よろしくお願いします」

 明るい声で、明るい表情で話す人だ。この人といるだけで気持ちが明るくなるような、そんな笑顔だった。

「よろしくお願いします」

「まーちゃん。今日も来てくれたんだねぇ。ありがとう」

 おばあちゃんも穏やかな表情だ。

「お孫さんお名前は?」と佐藤先生が僕に訊く。

「真絃です」

「あーそれで、まーちゃんなんですね……。真絃くん。あと十分くらいでリハビリが終わるので、その後、五分だけ話す時間ありますか?」

「あ、はい。あります……」

「良かった。じゃあそこの椅子に良かったら座ってください」と言って佐藤先生が微笑んだ。


 僕はおばあちゃんの横の椅子に腰掛けた。

 佐藤先生は、おばあちゃんだけでなく僕にも今からすることを詳しく説明してくれた。

 麻痺した左手は、何かをつまむとか細かい動作はできないけれど、左手で手すりを握るとか、紙を押さえるとか、お皿を動かないように押さえるとか、歯磨き粉をつける時に歯ブラシが動かないように左手で押さえるとか、そういうことができるようにリハビリしています、という感じの説明を受けた。


 率直に、作業療法士ってかっこいい、と思った。なんとなくリハビリは、運動をさせたり、介護をする仕事なのかと思っていた。全く違っていた。こんな細かいことまでするんだと初めて知った。知らない自分が恥ずかしかった。凛華先輩も、この職業を目指しているんだ。先輩はちゃんと調べてなりたいと思ったんだな。


 リハビリが終わり、おばあちゃんを病室まで送り届けた後、病室から少し離れた廊下で、ここで話しましょう、と佐藤先生から言われた。

 佐藤先生は、リハビリをしていた時の表情とは全く違って、真剣な表情になった。

「すぐに話は終わりますので……。えーと、私達病院の者は、患者様の家庭状況を把握しないといけません。把握した状態で退院後の生活のことを考えていくのですが、おばあ様、お父様、真絃くんの三人暮らしでしたよね。洗濯物は真絃くんが持って来てくれていると看護師から聞きました。もしかして家事全般してたりしますか?」

「はい……」

「そうですか……。これからおばあ様が退院します。色々なサービスを使っていきますが、ご家族様のご協力がないと、おばあ様は生活していけません。今回入院して、認知機能が以前よりも低下していると思います。もの忘れがあって何度も同じことを言うかもしれません。食事は塩分控えめな食事を用意しなくてはいけないですし、おばあ様が一人でできないことは手伝ってもらわないといけません。お父様はお仕事でお忙しいですよね? きっと真絃くんの負担が増えると思います。私はそこを一番心配しています」

「僕は大丈夫だと思います……」

「いえ、介護は肉体的にも精神的にもきつくなります。学業に影響がでるかもしれません。なので、きつくなったらいつでもSOSを出してください。ここに来て私に声をかけてくれてもいいですし、ケアマネージャーやソーシャルワーカーなど相談にのってくれる人が沢山います。絶対に無理はしないでください」

「……どうして僕にそこまで言ってくれるんですか?」

「私達の仕事は患者様のことだけではなく、常にご家族様のことも考えて仕事をしています。今回はご家族様の情報を聞いて、真絃くんのことがどうしても気になってお話させていただきました。お父様にお伝えしようかと思ったのですが、真絃くんに直接お話できて良かったです。最後にもう一度、絶対に無理はしないでください」

 佐藤先生の視線と言葉が僕の身体中に刺さった。


 僕もこんな人になりたいと思った。


 佐藤先生の言った通りだった。

 僕が思ったよりもおばあちゃんは一人でできることが少なかった。あと、おばあちゃんは僕に甘えていた。自分一人でできることも、まーちゃん手伝って、と言うようになった。そして、もの忘れがひどくて、何度も同じことを繰り返し言った。夜中に、「まーちゃん来てー!」と叫んでいる声がして、何度も起こされた。

 お父さんは仕事で疲れていて手伝う余裕はなかった。僕も一人でおばあちゃんの介護は限界が来ていた。


 おばあちゃんが家に帰ってきて半年が経った頃、お父さんと僕は高校の担任の先生から呼び出された。

 担任の先生が、「このままでは真絃くんは留年します。一度ご家族で話し合われてください。おばあ様の介護で真絃くんは疲れ果てています。学業に影響が出ているので、どうか真絃くんのこと

も考えてあげてください」と言った。

 それからお父さんが考えてくれて、僕も作業療法士の佐藤先生に相談をして、おばあちゃんは施設に入ることになった。

 おばあちゃんはずっと、家がいい、と言っていたのに、こっちの都合で施設に入ることになってしまって申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 でも佐藤先生が僕に言ってくれた。

「真絃くんの人生も大事です。これから夢に向かって頑張ってください」と先生はとびきりの笑顔で言った——




 駅のホームで電車を待ちながら思い出していた。大変だったけれど、周りの人達のおかげで今があるから、絶対に夢を叶えないと。

「真絃はおばあちゃんが倒れたのがきっかけで作業療法士を目指そうと思ったのと、あと一つ、いつか凛華先輩に会いたいと思って目指したんだよな?」

 湊が顔をクシャッとさせて笑った。

「おばあちゃんが倒れたのがきっかけは合ってる。先輩は違う」

 僕は真顔を意識して答える。

 本当は違うことはない。作業療法士になって、いつか先輩と再会して、先輩が元気なのか、幸せなのか、この目で確かめたい。という気持ちが五パーセントほどある。



***



 入学してから、オリエンテーションなどが終わり、今日は作業療法学科の交流会があるらしい。

 今までは、どこかの居酒屋で開催されていたが、去年未成年の飲酒や暴れた人がいて問題になり、今年から学校内でジュースやお菓子を持ち寄って交流会をするということだ。


 横にいる湊は、さっきから何度も鏡を見て髪型を整えている。

「俺は今年彼女を絶対作るんだ。年上も全然あり。交流会で可愛い人がいたら声かける! 絶対!」

「湊、好きな人に声かけられないんじゃなかった?」

「う、うるさいな〜俺は失恋して変わったんだ! 積極的になるんだよ!」

 湊は高校の時、片想いしていた相手に彼氏ができて失恋した。好きな人に対して積極的に行動できなかったのを悔やんでいた。

「まぁ頑張れ〜」

「お前もだぞ! 彼女作れよ!」

「僕はしばらくいい」

「どうせあのこと気にしてるんだろ〜」



 あのこと——高校三年生になった頃、僕はクラスの女子から告白をされた。背が小さくて、目が大きくて、ふわふわした髪で、前髪はサラッと横に流している木村さんに。木村さんはゆっくりとした口調で、話し方から優しさが伝わってくる。凛華先輩とは真逆のタイプだった。

 僕は、忘れられない人がいる、と言って告白を断った。でも木村さんは、「付き合ってみたら私のこと好きになるかもしれない。とりあえず付き合おうよ」と優しい口調の割にグイグイくるタイプだった。

 僕達はとりあえず付き合うようになって、毎日一緒に帰った。それなりに楽しかった。でも、いつも凛華先輩のことを思い出していた。木村さんと手を繋いだ時も、先輩の小さくて折れそうな手の感触を思い出した。


 これじゃお母さんと一緒だと思った。彼女と手を繋いで、凛華先輩を想うことは浮気と一緒じゃないか。だから、僕達は別れた。木村さんは泣いていた。もう、誰も悲しませたくないと思った。だから、凛華先輩を忘れるくらい、本当に誰かを好きになるまで誰とも付き合わないと決めた——



「ほら、そろそろ時間だぞ! 行こう!」と湊が言う。

 交流会は作業療法学科三年生の教室でするらしい。一年生みんなでぞろぞろと教室へ向かった。

 教室を覗くと、ざっと二十人くらいいるだろうか。

「あ、一年来た!」と男の先輩が言う。

 入って入って〜、と何人かの先輩に促されて僕達は教室の中へ入る。

「みんな紙コップ持って〜! 何飲みたい〜?」と女の先輩が言う。

「……ジュースあるよ〜」と誰かが言った。

 教室の中が話し声とか笑い声が混ざり合って、何のジュースがあるのか聞き取れない。とりあえずジュースでもお茶でも何でもいいや、と思いながら空っぽの紙コップを見つめる。


「真絃真絃真絃真絃真絃!」

 何でこんなに名前を呼ばれて、こんなに肩を激しく掴まれ揺らされているんだろう。

「教室の後ろのほう見ろって!」と湊が言う。

 どうせ湊の好みのタイプがいたんだろう。たぶんあの人だな。茶色い長い髪の毛をクルクル巻いて、ふわっとしている白いワンピースを着た人だろうな。

「あの白いワンピースの人がタイプなんだろ?」

「いや! タイプではあるけど! その左横の人見ろって!」

 左横を見るけれど、人で隠れて見えない。少し横に移動して見てみる。

 

 そこには凛華先輩がいた。


 体のラインが目立つ黒いワンピースを着て、スタイルが良くて姿勢が良い。長い黒髪で、前髪はセンターで分けられている。真っ直ぐ揃えられた前髪ではないので、一瞬違う人に見えたけれど、凛華先輩だ。


 僕の手から紙コップが離れた。紙コップがスローモーションのように落ちていく。床に落ちて二回とんっとんっと跳ねた。急いで拾って、また先輩に目をやる。


 先輩と目が合った。先輩は驚いたような顔をして静止した。一瞬、教室の中に先輩と僕しかいない空間ができた気がした。まばたきをすると、先輩はもう友達と楽しそうに話していた。


 今確実に目が合った。僕のことを認識したはずだ。

 僕は一歩前に出た。こんなに先輩に早く会えるなんて思わなかった。先輩と話したいことが沢山ある。

 でも、僕に気づいたにもかかわらず、もうこっちを見ないということは、やっぱり僕に会いたくなかったのかもしれない。あの時のことを思い出したくないのだろう。

 僕は一歩後ろに下がった。

 先輩が楽しそうに笑っている。先輩に友達がいる。元気そうにそこにいる。これを知ることができただけで今はいいや。


 僕からは無闇に話しかけないほうがいいんだ。

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