第14話

 家を出て、早歩きで駅に向かった。家が見えなくなった所で、「先輩。本当すみません。僕、イライラして空気悪くしてしまってごめんなさい」と謝った。


「全然大丈夫だよ。計画通りいったんだから。なんか……お母さん、可哀想だったね。ご飯美味しかったのにね……」

「いつもあんな感じでおばあちゃんから言われてるんです。言い返せばいいのに。お父さんは何も言わないし、おばあちゃんはうるさいし、お母さんは不倫してるし、最悪ですよ……ははは」

 また重苦しい空気にさせてしまった。街灯で照らされた先輩を見ると、困ったような、悲しそうな顔をしていた。この空気を変えないと。


「そういえば先輩、僕と初めて会った時のこと教えてくださいよ」

「あ、そうだったね」と言って先輩が僕と初めて会った時のことを話してくれた。

 

 先輩が幼稚園の年長の時に、先輩のお父さんの職場の忘年会についていくと、端の方で一人で大人しく絵本を読んでいた男の子がいた。それが僕だった。先輩は僕に話しかけて、忘年会の間ずっと僕と一緒に遊んでいたらしい。時々様子を見に来る僕のお母さんに、「一緒に遊んでくれてありがとうね」と声をかけられていたという。


 僕は話を聞いても全く思い出せない。その時一緒に遊んだことは分かったけれど、高校生になった僕によく気づいたよな。

「先輩、高校生になった僕にどうやって気づいたんですか?」

「あーそれは……、学校の廊下ですれ違った一年の子が、あの時遊んだ倉橋真絃って子に似てるなぁって思って見てたら、『真絃』って呼ばれてるの聞いて、あの時の真絃に間違いないってなったの!」

「そうだったんですか……そんなに面影ありました?」

「うん! 大人しそうな雰囲気とか、笑い方とか、あの時の真絃のままだよ」

 先輩が僕の顔を覗き込みながら、微笑んでいる。僕も初めて会った時の先輩を思い出したいな。


 もう一つ先輩に訊きたいことがあったんだった。

「先輩、聞いてもいいですか? どうやって不倫のことを知ったのか」

「うん。いいよ。えっと……二ヶ月くらい前に、一人でショッピングモールに行ってたの。その時たまたまパパを見かけたんだ。パパが一人で来るなんて珍しいし、仕事って言ってたのになぁって思いながら声かけようとしたんだけどやめた。きっと車で来てるだろうから、パパのあとをつけて、車に乗り込んで驚かしてやろうと思ったの。それで、パパのあとをつけていったら、パパの車の前に女の人がいたの。パパがその人に手を振って、女の人が手を振りかえしてた。それを見て、私、隠れたの。咄嗟に、これって見ちゃいけないやつなんじゃないかって思った。案の定、パパと女の人は車に乗り込んで、恋人みたいなことしてた。よく見ると見たことがある人だった」

「それが僕のお母さんだった」

「うん。私、人の顔覚えるの得意だからさ……。真絃のお母さんの名前は、パパのスマホの通知を見て知ったの。倉橋優子って通知が来たのが見えたんだ。真絃の苗字が倉橋って覚えていたから、不倫相手は真絃のお母さんで間違いないし、名前も倉橋優子で間違いないって確信したの」

 駅について、電車に乗るまでまだ時間があったので、ホームのベンチに腰掛けた。

 先輩が遠くを見ながら話し続ける。

「しばらくは私の見間違いだったかもしれないって思い込もうとした。忘れようとした。でも思い込むことも忘れることもできなかった。もう一度確かめようと思って、同じ時間、同じ場所にいったら、同じ不倫してる光景が目に入ったの。やっぱり見間違いじゃなかったって……」

 先輩が話すのをやめて、俯いている。

「先輩。一人で辛かったですよね。誰にも相談できなくて苦しかったですよね。よく一人で頑張りました」

「や、やめてよ。そんな優しくしないでよ……。真絃だって、辛いでしょ?」

 先輩の声が震えている。

「僕は最初から先輩がいましたから。先輩がいてくれたから辛くないですよ」

「……本当?」

「うん。本当。先輩は今まで一人で色々辛かったこととか溜め込んできたでしょ? この際だから、今、言いたいこと言ってくださいよ。何時でも付き合いますよ」

「うん……ありがとう。そうだね……不倫のことを知ってしまって、パパを問い詰めることも、ママに不倫のことを言うのもできなかった。家族が壊れるのが嫌だった。でも、何もしないのも辛かった。何も知らないふりをして笑うのが苦しかった」

 先輩が俯きながら鼻をすすっている。たぶん泣いている。

 僕は、「うん」と頷いて話を聞き続けた。

「辛くて、苦しくて、誰かに話したかった。でも友達いないし、友達がいたとしても誰にも話せないと思った。一人で不倫をやめさせようとも考えた。でも、もう心が限界だったの。一人じゃ何もできなかった。だから真絃を巻き込んだ。今まで言えなかったけど、真絃を巻き込んで本当にごめんなさい」

 先輩の涙が、先輩の膝の上にポタポタと落ちている。

 先輩は強気に見えていたけれど、必死に弱い部分を隠していたんだ。今の先輩はいつもよりも小さく見える。もし先輩に触れてしまったら、粉々に散ってしまいそうなくらいに弱々しく見える。

 僕は先輩の頭の上にそっと手を置いた。少しだけ手を動かして頭を撫でた。

「先輩。僕は僕の意思で行動してるんです。だから謝らないでください」

「こんな時に優しくするのずるいよ……。いつもズバッと言うのに」

「僕はどんな時でも正直なんです。正直者なんです」

 先輩が服の袖で涙を拭い、顔を上げた。

 僕は先輩の頭から手を離した。手の平だけが熱を持っていた。

「真絃の手、暖かくて安心できたよ。おかげで落ち着いた。ありがとう」

 先輩が僕を見て笑った。目も鼻も赤くして、弱々しく笑う先輩を今にも抱きしめたくなった。

でも、そんな自分を必死に押さえた。


 先輩の目の赤みがひくまで待ってから、家まで送った。


 先輩が家に入るのを見届けて、また駅に向かう。空を見上げると、雲の隙間から無数の星が見えていた。しばらく見ていると、流れ星が見えた気がした。生まれて初めての流れ星だったし、一瞬だったので、これが流れ星なのか自信がなかったが、とりあえずお願い事をしようと思った。たぶん星が流れている間にお願いしないとダメなんだろうけれど。


 先輩がこの先幸せな人生を歩めますように、と願った。



 家に帰りついて、リビングに入るとお母さんがキッチンに立っていた。

「遅かったね」

「あ……うん。ちょっと寄り道した」

「そう……。凛華さんのお父さんには会ったの?」

「いや、まだ会ったことない」

「そう……。真絃……。言いにくいんだけど、凛華さんはやめておいたほうがいい」

 一瞬何も考えられなかった。この人は何を言っているんだ? やめておいたほうがいい? 不倫をやめたくないから、そんなことを言っているのか?

「は? なんで?」

「凛華さんはやめておきなさい。お母さんは凛華さんと付き合うの反対する」

「意味が分からないんだけど。何でそんなこと言うんだよ」

「凛華さん、あまり態度が良くなかったし、悪い噂を聞いたことがあるの」

「は? 別に態度良かったじゃん! 悪い噂ってなんだよ」

「……それは言えない」

 自分達が別れたくないから子供達を別れさせようとするなんて本当に最低だ。凛華先輩のことを何も知らないくせに悪く言って本当に本当に最低だ。体の中心から怒りが湧いてくる。

「言えよ!」

「とにかく別れなさい!」

「別れない。少なくとも、彼女のことは僕のほうが知ってる。僕のほうが、彼女と一緒にいる時間が長いんだ。お母さんは自分のことしか考えてない。最低だ……」

「お母さんはただ真絃のことを思って……」

「僕のことなんて一ミリも考えてないだろ! ふざけんな!」

 僕はリビングから出て、ドアを勢いよく閉めた。ドアが壊れたかと思うくらい、家中に音が響くくらい激しくドアを閉めた。こんなことでしか怒りを発散できない。物に当たったてしょうがないのに。


 玄関のドアを開けて、また外の暗闇に戻った。空を見ると、雲に隠れて星が一つも見えない。このまま暗闇にのまれてしまいたい。

 目を瞑ると、笑っている先輩を思い出す。さっきまで会っていたのに、もう先輩に会いたい。


 目を開けると現実が襲ってくる。さっきのお母さんを思い出して、そこらへんの物を壊したくなる。

 お母さんにいっそ不倫のことを言ってやろうかと思った。でも、それを言ってしまうと先輩のためにならない。だから我慢した。

 僕のことを悪く言うならまだ良かったのに、先輩のことを悪く言うのは許せなかった。

 これで分かった。お母さんにとって、不倫相手が一番大事なんだ。子供達を別れさせてまで、不倫を続けたいんだ。家族を裏切り続けるんだ。


 もう、僕はあの人のことを母親とは思わない。

 

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