9 何者

 ふかふかのベッド。凝った意匠の家具類。全面に敷かれた絨毯。大きな窓とカーテン。贅の限りを尽くした部屋に通されたにもかかわらず、着くなりベッドに倒れこみ、泥のように眠ってしまった。

 起きて周りを見渡せば、窓の外はすっかり明るく、太陽はほぼ真上、昼食の時間だ。


 すべすべの貸し寝間着を脱いでは床に転がし、備え付けの浴室へ入る。大きめの桶に水は張られているので、手桶で少しずつすくって身体をすすぐ。水の冷たさに驚き凍えるものの、家を発って以来やっとまともに身体を洗えて気分がいい。家の温かい風呂のことが思い出される。ムウさんがお気に入りだと言って毎夜沸かしているのも頷けた。


 ふと、濡れそぼった自分の身体を鏡越しに見つめる。服も何も身に着けず、生まれたままの姿だ。そばには誰も、何もない。 

 ――僕には何か目標があるわけでも、特別誇れることがあるわけでもない。ただ狭い世界で、限られた人間関係の中で変わりなく過ごしているだけ。



 僕は。

 僕は何者なんだろう。




 荷物をまとめて、部屋を出る。外泊をほとんどしたことがないため、受付で宿を出る時の手続きを訊いてみた。若い女性が頼りない雰囲気で応対してくれる。


「あっ、はい。チェックアウトでございますね。ただ定刻を過ぎておりますので、延長料金が――」


 一生懸命説明する女性に、昨夜の初老の男性がどこからともなく近づき、一礼して女性へ耳打ちする。


「……はい、はい。申し訳ございませんお客様、えー、お客様が支払うお宿代はございませんので、鍵をお返しいただけましたらそのままお帰り頂いて問題ありません、はい」

「え? でも今、延長料金とか……」

「いえいえいえ! 不要でございます! お客様の分につきましては請求しないよう、オーナーより承っております」


 よく聞くと、オーナーのご子息が急行車の車掌さんのようで、追加料金含めすべて車掌さんが支払って下さるらしい。不思議な縁もあるものだ。ありがとうございます、宜しくお伝え下さい、と言葉にしたところで、ふと当初の目的を思い出す。


「あの、この地図の場所に行きたいのですが」

「あぁー、旧宅街ですね。でしたら……」


 女性が、僕が昨夜来た道とは反対の方角を指さして、そのまま空中に指先を滑らせて案内してくれる。僕は鞄から筆記具を出し、言われた内容を地図へメモしていく。

 一通り説明を聞いたところで、改めてお礼を伝え、聞いたとおりに道を歩いていく。



 宿から一刻ほど歩いていると、風景の落ち着いた区画へと入る。ここが宿屋の女性の言っていた旧宅街だろうと雰囲気で察する。

 先ほどまで立ち並んでいた高層の建物や石畳がなくなり、代わりに目の細かい砂利道と生垣が並ぶ。生垣の内側には、いずれも背の低い邸宅と、大きな庭があった。


「えーと、ゼファさん……だっけ」


 生垣前の看板をひとつひとつ確認し、尋ね人の名前を探す。しかし、いくら探しても見当たらない。30軒ほど探したところで、さすがに疲れてしまい、脇道の適当な位置に腰を下ろす。


 どことなく風に質量を感じる。今は晴れているが、明日は曇りなのだろう。持っていた水筒で喉を潤し、携帯食を少し摂って、高い空をぼんやりと見つめる。もう家を離れて1週間ほど経つが、ムウさんはどうしているのだろうか。

 ある程度気力が戻ったところで、再び邸宅を巡っていった。



 旧宅街へ入って半刻ほど経った頃、ふと、なんとなくひとつの家に意識が向いた。

 その家は他の邸宅よりも小さめで、庭もそこまで広くはない。それ以外は見た目も雰囲気も、周りの邸宅とほぼ変わらなかった。看板にも違う人の名前が書かれている。


 しかしなぜか、訪ねなければならない気持ちが抑えられない。理解が追い付かないまま、僕の心臓が早鐘を打つ。


「あのっ、すみません。誰かいますか」


 生垣の向こうから声をかけてみたが、声がうわずってしまった。

 しかし返事はない。生垣横の門をくぐり、家の戸をノックする。


「ごめんください。どなたか――」


 声を張り上げれば、戸の向こうから小さな足音が近づいてくる。自分の脈の速さで目眩がする。


 しばらく待っていると、自分より少し若いくらいの少女が戸を開けて出迎えてくれた。使用人のように見えるが、所作は上品だ。


「こんにちは。……あら? どなたでしょう」

「急にすみません。近くの村から来た者ですが、人を探していて。ゼファという方で」

「……私の主人でございますね。今は不在にしております」


 ゆったりと頭を下げる少女に、僕は違和感を覚える。


「それはそれは。いつ頃お戻りになられますか」

「当分先かと思われます。申し訳ございませんが、また来ていただいて……」


 困ったように笑う少女の顔を見る。端正で愛らしい顔立ちだ。


 違う。


 鼓膜の中で、鼓動の音がどくどくと響く。


「――違う」

「え?」


 少女の表情と輪郭が、ごく僅かに崩れるのを僕は見逃さなかった。


 確信する。わかる。


 少女の見た目をもつ物体が、明らかに異質な何かである。〝生物としての存在感〟が――ない。


「ゼファさん……いや、ゼファ様、ですよね。あなたが」

「いえ、私はただ主人に仕えている身……」



 僕はひざまずき、拳を胸に当て、最敬礼の姿勢をとる。


「お初にお目にかかります、ゼファ様」

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