前章
喫茶店のドアベルが軽やかな音を響かせた。
「アイスコーヒーください!」
元気な声が店内に弾むように響く。
悠人は、カウンター越しにその少女を見た。肩までの黒髪を少し跳ねさせながら、制服のスカートを揺らし、カウンター席に座る。細い足をぶらぶらさせ、楽しげに店内を見渡していた。
「こんな店に高校生が来るなんて珍しいな」
思わずそう呟くと、少女はくるりとこちらを向き、いたずらっぽく笑った。
「別にいいじゃないですか! ここ、落ち着くし、なんか静かでいい感じだし」
「ふうん……そうか」
悠人はコーヒーを口に運びながら、妙な違和感を覚えていた。
この喫茶店は、どちらかといえば年配の常連客が多く、若い客はあまり見かけない。そもそも、彼女のような高校生が好むような流行りの店とは程遠い。
少女はメニューも見ずに、さっきのアイスコーヒーを注文した。
「おじさんは、ここで何してるんですか?」
「おじさん?」
「うん、だって私よりだいぶ年上でしょ?」
悠人は苦笑した。言われてみれば確かにそうだが、こうもはっきり「おじさん」と言われると少しだけ堪える。
「ただの暇つぶしだよ」
「ふーん」
少女は興味深そうに悠人を眺め、それからニコッと笑った。
「名前、教えてください」
「坂井悠人」
「私は桜庭陽菜(さくらば ひな)。高校二年生!」
彼女は胸を張り、まるで自己紹介をするのが楽しくて仕方ないような笑顔を浮かべた。
悠人は、そのまぶしさに目を細めながら、なんとなくコーヒーカップを傾けた。
「で、君はなんでこんなところに?」
「んー、なんとなく?」
「なんとなく?」
「学校帰りにフラフラ歩いてたら、良さそうな店だなって思ったんです」
本当にそれだけの理由か?
悠人は彼女を横目で見ながら考える。
「まあ、いいけどな」
「それに——」
陽菜はカウンターに頬杖をつきながら、ニコッと笑った。
「おじさん、ちょっと面白そうだったから」
「……なんだ、それ」
「だって、すっごく退屈そうな顔してたんだもん」
悠人は思わず言葉を失った。
図星だった。
この半年間、何もする気が起きず、ただ時間を潰すだけの毎日。喫茶店に通うのも、特に理由があったわけではない。ただ、何も考えずに過ごせる空間が欲しかっただけだ。
陽菜は、それをあっさり見抜いたのだろうか?
「まあ、いいんじゃないですか?」
「……何が」
「退屈してるなら、少しくらい楽しいこと見つければ」
悠人は苦笑しながら、窓の外に目を向けた。
陽菜は、今の自分にはないものを持っている。まっすぐで、無邪気で、未来を信じているような明るさ。
「おじさん、これからもここにいますよね?」
「……まあ、多分な」
「じゃあ、また来ます!」
陽菜はそう言って、アイスコーヒーを一気に飲み干した。
そして、まるで何かを見つけたかのように、満足そうな表情を浮かべながら席を立った。
ドアベルが鳴り、少女は軽い足取りで外へ出る。
悠人は、残されたカウンターの向こうで、わずかに温もりの残るコーヒーカップを見つめた。
「……変なやつだな」
だけど、不思議と悪い気はしなかった。
こうして、何もなかった日常に、小さな変化が生まれた。
◇
それからというもの、陽菜はたびたび喫茶店にやってくるようになった。
学校帰りにふらっと立ち寄り、カウンター席に座ってコーヒーを注文する。時には宿題を広げたり、スマホをいじったりしながら、何気ない会話を交わす。
悠人は最初こそ戸惑ったが、次第に彼女の存在を当たり前のように感じるようになった。
「悠人さんって、何してた人なんですか?」
ある日、陽菜がそんなことを聞いてきた。
「広告代理店で働いてたよ」
悠人は淡々と答える。
「へえ、なんで辞めたんですか?」
「……まあ、色々あってな」
陽菜はそれ以上深く聞こうとはしなかった。ただ、「そっか」とだけ言って、机の上で指をすべらせた。
「私ね、将来はラジオのパーソナリティになりたいんです」
陽菜は少し照れくさそうに話し出した。
「ラジオ?」
「うん。誰かの一日をちょっとだけ楽しくする仕事がしたいなって思って」
悠人は、ふと昔の自分を思い出した。
自分もかつては、誰かの心を動かせるような脚本を書きたかった。でも、現実に挫折し、夢を諦めた。
「夢があるってのは、いいことだな」
「悠人さんにはないんですか?」
「……昔はあったけどな」
陽菜は興味深そうに首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。
「でも、諦めるにはまだ早いですよ」
「もう37だぞ」
「関係ないですよ。夢は歳を選ばないって、ラジオで言ってました!」
悠人は苦笑した。本当に、その通りかもしれない。
しかし、そう簡単に踏み出せるほど、彼の足は軽くはなかった。
◇
それから数日後のこと。
喫茶店のいつもの席に陽菜が座り、悠人は向かいのカウンターでコーヒーを飲んでいた。
「悠人さん、最近楽しいことありました?」
「楽しいこと?」
「うん。何か、ワクワクすることとか」
悠人は少し考えたが、特に思いつかなかった。
「別に……ないな」
「えー、つまんないですね」
陽菜は頬を膨らませた後、何かを思いついたように目を輝かせた。
「じゃあ、何か一緒に楽しいことしましょう!」
「……は?」
「だって、このままだと悠人さん、ずっと退屈なままじゃないですか」
「いや、俺は別に——」
「悠人さんが楽しいと思えること、見つけるんです!」
陽菜は自信満々にそう言った。
「そうだ、また明日ここに来てください! 悠人さんを楽しませてみせますから!」
そういって彼女は店を出ていった。
悠人は、彼女のそのまっすぐな言葉に戸惑いながらも、心のどこかで「悪くないかもしれない」と思っていた。
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