春の陽だまり

秤 理

プロローグ

東京の片隅に、どこにでもありそうな小さな喫茶店があった。

古びた木製のドアを開けると、かすかに漂うコーヒーの香り。

午後の穏やかな日差しが窓から差し込み、カウンター席に座る男の頬を静かに照らしていた。

「……今日は、何をしようかな」

坂井悠人(さかい ゆうと)、37歳。

コーヒーカップの縁を指でなぞりながら、ぼんやりと窓の外を眺める。

彼には、かつて夢があった。

映画が好きで、物語を作るのが好きだった。言葉を紡ぎ、シナリオに命を吹き込む作業は、彼にとって生きることそのものだった。どんなに苦しくても、書き続けることで世界と繋がっていられる気がしていた。

だが、現実は厳しかった。

何度応募しても、脚本は世に出ることはなかった。何度も「才能がない」と突きつけられ、それでも書き続けたが、次第に心は疲れ、手を動かすことさえ億劫になっていった。

「もう、無理だな」

そう思った瞬間、夢は砂のように指の隙間からこぼれ落ちた。

気づけば、彼は広告代理店に就職し、忙しさに身を委ねた。締め切りに追われ、会議に出席し、数字を追い続ける毎日。仕事に没頭することで、夢を諦めたことを忘れられる気がした。

——けれど、それは錯覚だった。

疲れ果てた夜、ふと机の引き出しの奥にしまった古いノートを見つけたとき、すべてを思い出してしまった。

それから半年後、悠人は会社を辞めた。理由は、もう分からない。ただ、何もかもがどうでもよくなった。

今の彼には何もない。夢もない。目標もない。ただ、今日もこうして喫茶店のカウンターに座り、コーヒーを飲んでいるだけだった。

「何も残らなかったな……」

誰に聞かせるでもなく呟く。

そんな時だった。喫茶店の前に、一人の少女が立ち止まった。

肩までの黒髪が風になびく高校生の少女。制服のスカートがふわりと揺れ、まるでこの街の喧騒から切り取られたように、どこか浮遊感のある佇まいだった。

そして、彼女の視線がふとこちらを向いた。

一瞬、驚いたような表情を浮かべたが、すぐに微笑み、店のドアを開けた。

「こんにちは!」

元気な声が店内に響く。

悠人は、ぼんやりとした頭のまま、その少女を見つめていた。

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