第13話 達成
瑛二は、じんわりと汗ばむシャツの感触と、先ほどまでの鋭い痛みが嘘のように引いていく不思議な余韻に浸っていた。
ブーブー、と机の上のスマートフォンが震え、規則的に波打つ。渡邉からの着信だった。瑛二は躊躇いながらも通話ボタンを押す。
「瑛二くん、お疲れ様。これで、これからの一ヶ月間は幸せを保証するよ」
渡邉は上機嫌な様子で続けた。
「なるべく外に出てみてね。その方が、幸せを実感しやすいと思うから。流石にその部屋の中だけで幸せなことを起こすのは難しいし……どうしても篭っていたいなら、また別の方法を考えるけど…。」
軽やかな笑い声が聞こえた後、渡邉はさらに言葉を重ねる。
「瑛二くん、幸せはあっという間に過ぎると思うよ。でも、あの痛みに耐えたんだから、それ相応の報酬は用意してある。思う存分、満喫して」
「……あ、ありがとうございます」
瑛二は、言葉では説明できない不思議な達成感を覚えていた。永遠のように感じられた、そして二度と味わいたくない痛みと苦しみ。だが、それを乗り越えた自分に、ほんのわずかでも自信が芽生えていることに気がつく。
「じゃあ、今日から30日間、幸せな日々を送ってね。何かあったら、また電話して。それじゃあ!」
ツーツーツー——
短い電子音が鳴り、電話は切れた。
外に出る……か。
瑛二はぼんやりと考える。
正直、好きな行為ではない。むしろ、恐怖すら覚える。生活保護になってからというもの、誰も知らないはずなのに、自責の念に駆られてしまう。道を歩くだけで、誰かに笑われている気がする。社会の負け組として、嘲られているような気がしてならない。
玄関先でしばらく逡巡した末、瑛二は履き古した靴に足を通した。靴のつま先を軽くトントンと鳴らし、バランスを整えると、意を決してドアを開ける。
マンションを降りると、外はすでに夜に近づいていた。
変わらない道、変わらない景色。
——幸せなんて、本当に訪れるのだろうか?
少し遠くの街に出てみるか。
もし、これが”本当の話”なら、どこへ行っても幸運に見舞われるはずだ。
瑛二は駅へ向かい、改札で切符を購入すると、ホームへと出る。ベンチに腰を下ろし、ぼんやりと足元を見つめていると、不意に視線を感じた。
顔を上げると、ホームの向こうに立つ一人の女性と目が合う。
清楚で可憐な印象の、巻き髪の女性。年齢は二十代前半くらいだろうか。
じっとこちらを見つめている——そう思った途端、瑛二は思わず目を逸らした。
……まさか。
電車が到着し、瑛二は流れに乗って車内へと足を踏み入れた。適当な席に座る。
ふと顔を上げると、先ほどの女性が向かいの席に腰を下ろしていた。
視線を感じる。
やめてくれ。恥ずかしい。
だが、心臓が高鳴るのを止められない。
こんな風にじっと見つめられることなんて、これまでの人生でほとんどなかったから。
電車が街の中心部へと到着すると、瑛二は足早にホームへ降り立った。
逃げるように改札へ向かおうとした、その瞬間——
ストン。
何かが落ちた音がした。
財布だ。
最悪だ。
焦って振り返ると、先ほどの女性が財布を拾い、優雅な手つきでこちらへ差し出していた。
「あ、あの……これ、落としましたよ」
細く整えられた指先には、繊細なネイルが施されている。
「……あ、ありがとうございます。すみません」
「いえいえ」
彼女はふっと微笑み、続けた。
「実は……ちょっと気になってたんです。さっきから、お兄さん、体調悪そうな顔してたから。大丈夫かなって、心配してました」
そして、優しく肩をポンポンと叩いた。
瑛二の胸の奥で、何かが弾ける。
——これは、幸せ、だろうか。
言葉にするのは難しい。だが、確かに嬉しいと思った。
「お兄さん、時間ありますか?」
女性はふわりと微笑みながら、問いかける。
「私、ふらっとここまで来ちゃって……よかったら、お茶でもしませんか?なんて…」
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