第12話 悪夢の始まり


瑛二は目を瞑り、震える指で送信ボタンを押した。


ドクッ。


心臓の鼓動と同時に、スマホがわずかに振動し、指先に確かな感触が伝わる。


フォン…。


送信音が静かに鳴り、瑛二の中で何かが決定的に変わった気がした。


「……やってしまった……」


ついに。


契約してしまった。


腹の奥が冷たくなり、背中を汗が伝う。


――これで、本当に始まるのか。あの地獄の痛みが。


スマホの画面に新たなメッセージが浮かび上がる。


「了解! じゃあ始めるね。」


渡邉の軽いノリの言葉が、じわじわと恐怖をかき立てる。


そして――


瑛二の腹部に、ズキンと鈍い痛みが走った。


「……っ!?」


思わず身をこわばらせる。その直後、電撃のような激痛が襲いかかった。


腎臓の奥深くから、焼けた針を無数に突き立てられるような感覚。


尿管を刃物で切り裂かれるような、内側を鋭利な石が転がりながら抉るような痛み。


「ぐっ……あぁ……!」


呼吸が乱れる。身体が本能的に丸まり、腹を押さえた。だが、指が触れたところで何の意味もない。ただ、波のように襲い来る激痛に耐えるしかなかった。


「っ……く……は……っ!!」


声を出したら、余計に痛みが増す。だからこそ、唇を噛み締め、必死に耐えようとする。


しかし、痛みは容赦なく襲いかかり、脳内を埋め尽くす。


(ヤバい……こんなの……続けられるわけがない……)


震える手でスマホを掴み、必死に画面を操作した。


指がうまく動かない。それでもなんとか、メッセージを打ち込む。


「破棄」


送信ボタンを押した。


フォン。


小さく鳴る送信音。しかし、それが届いた瞬間、スマホがすぐに震えた。


「契約は途中で変えられないんだ〜ごめんね〜 幸せのためだよ〜♪」


「……っ……ふざけんな……!」


呻き声が漏れる。


腹の内側が裂けるような感覚が続く。腎臓が握り潰されているような、膀胱にガラス片を詰められたような、想像を絶する激痛が、ひたすら続く。


「くそぉっ……なんでこんな……選んだんだ……っ!」


歯を食いしばる。額からは滝のように汗が流れ、全身が冷や汗にまみれる。


先ほど食べた弁当がこみ上げてくる。しかし、少しでも動けばさらに痛みが襲う。


(動けない……っ、今は何もできない……!)


時計を見る。


まだ50秒しか経っていない。


(ふざけんな……これがまだ4分も続くのか……!)


痛みが引くどころか、ますます鋭く、激しさを増していく。


「ゔぁぁぁっ……!」


呻き声を押し殺しながら、体を必死に丸める。


(死ぬ……絶対に死ぬ……!)


意識が朦朧としていく。


思考が痛みだけに支配され、涙が勝手に流れた。


「はぁ……はぁ……はぁ……」


心頭滅却? 痛みを忘れる? そんなことができるなら、今すぐやってみたい。


――あと何分?


スマホを見る。


「残り3分10秒」


(……まだ、こんなにあるのか……)


意識を手放したい。だが、痛みがそれを許さない。


涙が頬を伝う。


(こんなの……インフルエンザに一年かかってた方がマシだった……)


何度も後悔する。


何度も、何度も、何度も――


スマホの画面が光る。


「頑張ってるね瑛二くん、僕はとても満足です。ありがとう! 絶対幸せになれるからがんばろ!」


……ふざけるな。


瑛二はスマホを睨みつけた。


その瞬間、また一段と強い痛みが襲う。


「ぐぁぁぁっ……!!」


脂汗を流し、ただ、ひたすら耐えるしかない。


時計を見る。


「残り1分10秒」


終わりが近づいているはずなのに、この1分が永遠に感じる。


(……もう……いやだ……!)


何も考えられない。ただ痛みと共に、残酷な時間を過ごす。


そして――


最後の10秒が始まる。


10……


(あと少し……あと少し……!)


9……8……7……


脳が焼き切れそうになる。


6……5……4……


あと少し……あと少し……!


3……2……1……


――ピタッ。


突然、痛みが消えた。


「あ……っ……?」


さっきまで地獄の底でのたうち回っていた身体が、嘘のように軽い。


瑛二は荒い息を整えながら、ゆっくりと顔を上げた。


静寂が訪れる。


あまりにも急激な変化に、脳がついていかない。


「……終わった……?」


本当に終わったのか?


スマホの画面に、新たなメッセージが届いた。


「お疲れさま! これで君は、1ヶ月間幸せになれるよ♪」


画面を見つめる瑛二の瞳が、かすかに震えた。

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