第三章:告白
翌朝、四人はホテルのロビーに集合した。まだ日が昇る前の薄明かりの中、ラジーブが彼女たちを河岸へと案内した。
階段状になったガート(河岸の石段)は、すでに朝の祈りを捧げる人々で賑わっていた。オレンジ色の衣をまとった僧侶たち、白いサリーの女性たち、沐浴する家族連れ。すべてが厳かで神秘的な雰囲気に包まれていた。
里奈は西村恵からもらったパシュミナストールを肩に掛け、朝の冷気から身を守った。
「あそこの小舟に乗りましょう」とラジーブが指さした。
木製の小舟に四人が乗り込むと、老いた船頭が長い櫂でゆっくりと船を動かし始めた。
時間とともに東の空が明るくなり、やがて太陽の最初の光がガンジスの水面を黄金色に染め始めた。その瞬間、河岸からは一斉に祈りの声が響き渡った。
「オーム……」
里奈は思わず息をのんだ。圧倒的な美しさと荘厳さに、言葉を失った。
小舟は静かに河を進み、彼女たちに朝のガンジスの全景を見せてくれた。河の向こう岸には、まだ霧がかかっていた。
「あそこが火葬場です」とラジーブが静かに説明した。
遠くから煙が立ち上っているのが見えた。二十四時間、火が絶えることはないという。
紅華が突然、小さな布袋から何かを取り出した。それは小さな紙の船だった。その上には、一輪の白い花が乗せられていた。
「ダイスキだよ、マヤ」
紅華はその言葉とともに、小さな船を水面に静かに放った。船はゆっくりと流れに乗って進んでいった。
誰も何も言わなかったが、その瞬間、紅華の「娘との約束」の意味を皆が理解した。
朝食後、四人はホテルのテラスでお茶を楽しんでいた。ラジーブによれば、その日の午後には市内観光があるが、それまでは自由時間だという。
しばらくの沈黙の後、さとみが口を開いた。
「そろそろ、私たちがなぜここにいるのか、正直に話してみませんか?」
里奈は驚いたが、さとみの提案には一理あった。四人は偶然同じツアーに参加しただけの他人同士。しかし、すでに不思議な絆のようなものを感じ始めていた。
さとみは自分から始めた。
「私は死生学の研究者です。長年、世界各地の死生観について研究してきました。特に東洋と西洋の死生観の違いについて」
彼女はコーヒーをすすりながら続けた。
「でも、それは表向きの理由です。実は……娘が十年前にバラナシで亡くなったんです」
その告白に、全員が驚きの表情を見せた。
「当時二十二歳。インド哲学を学ぶために留学していました。ある日、高熱を出し、現地の病院で治療を受けていたのですが……間に合わなかった」
さとみの冷静な口調の下に、深い悲しみが隠されていることが伝わってきた。
「それ以来、私は死について研究することで、娘の死と向き合ってきました。そして今回、ようやく彼女が最期を迎えた場所に来る勇気が持てたのです」
彼女の告白に、しばらく重い沈黙が続いた。
次に口を開いたのは紅華だった。今朝の出来事もあり、彼女が話す準備ができたのかもしれない。
「実は私も、娘を亡くしたんです」
その声は震えていたが、決意に満ちていた。
「白血病でした。闘病中、彼女はインドの写真集を見るのが好きでした。特にバラナシの写真に心を惹かれていて……」
紅華は深呼吸をして続けた。
「最期に『死んだらどうなるの?』と聞かれて……何も答えられなかった」
彼女は目を閉じた。
「彼女は『ママ、私が死んだら、ガンジス河に私の写真を流して』と言ったの。だから今朝……」
由紀がそっと紅華の手を取った。紅華は涙を拭いながら由紀に感謝の視線を送った。
「私は信じていないけど、夫が熱心なクリスチャンだったわ」
由紀が自分の話を始めた。
「彼が亡くなってから、彼の信仰について考えるようになったの。彼はどこへ行ったのか……」
由紀は遠くを見つめながら続けた。
「葬儀では牧師が『彼は神のもとに召されました』と言ったけれど、私には実感できなかった。でも、何かを知りたいと思ったの。他の文化や宗教は死をどう捉えているのか……」
彼女は里奈に優しく微笑んだ。
「あなたの番よ」
里奈は少し躊躇った後、母についての話をした。絹子との関係、母の死、そして最期の言葉について。
「人は死んでも、母なる大河に還るだけなのよ……その言葉の意味を知りたくて、ここに来ました」
さとみは冷静に分析した。
「西洋では死後の世界を信じる。東洋では輪廻を。でも結局は同じことを表現しているのかもしれないわね」
彼女はコーヒーカップを置いた。
「あなたのお母さんの言葉は、ヒンドゥー教の考え方にとても近いわ。すべての魂は最終的に宇宙の大いなる流れに還るという……」
里奈は改めて考え込んだ。母は特に宗教的な人ではなかったはずだ。なぜそのような言葉を? しかしその答えを掴むことはできなかった。
昼食後、里奈はホテルの部屋で少し休憩することにした。午後の観光までまだ時間があった。
ベッドに横になりながら、今朝の出来事と、皆の告白について考えた。見知らぬ人同士だったのに、こんなにも心を開けるとは思わなかった。それはこの異国の地だからこそなのか、あるいは皆が似た傷を抱えているからなのか。
ノックの音が聞こえ、ドアを開けると由紀が立っていた。
「少し話してもいいかしら?」
里奈は彼女を部屋に招き入れた。
「なんでしょう?」
由紀はベッドの端に腰掛けながら、優しく微笑んだ。
「あなたの話を聞いて、どうしても伝えたくなったの」
彼女は窓の外のガンジス河を見つめた。
「私も最初は、夫の死を受け入れられなかった。四十年も一緒にいた人がいなくなって……空っぽになったの」
由紀の瞳には、懐かしさと痛みが混ざり合っていた。
「でも、時間が経つにつれて気づいたわ。彼は私の中に生き続けているってことに」
彼女は里奈の手を取った。その手は温かく、柔らかかった。
「私たちが愛した人は、私たちの中に残るの。あなたのお母さんも、あなたの中に生きているわ」
里奈は言葉に詰まった。突然、母の笑顔、声、手の温もりが鮮明に蘇ってきた。
「ありがとうございます」
由紀は立ち上がり、部屋を出る前に振り返った。
「母なる大河……素敵な言葉ね。きっと意味があるわ」
午後の観光では、ラジーブの案内でバラナシの街を歩いた。狭い路地、色彩豊かな市場、古い寺院。すべてが新鮮で、五感を刺激した。
サーナート遺跡を訪れた際、紅華が里奈の隣に立った。
「ここはブッダが最初の説法をした場所なんですって」と紅華は静かに言った。
「仏教でも輪廻を信じるんですよね?」と里奈は尋ねた。
紅華は頷いた。
「でも、娘が亡くなってから、私はどう信じていいかわからなくなりました。彼女があの苦しみを経験しなければならない理由なんて、どこにもないと思うから」
彼女は少し考えて続けた。
「でも、彼女が別の形で生まれ変わったと思えば……少しだけ、心が楽になるんです」
里奈は黙ってうなずいた。死を受け入れることの難しさを、改めて感じた。
夕方、四人はガンジス河でのアーティ(祈りの儀式)を見学した。数十人の僧侶たちが、火を灯した燭台を持って踊るように祈りを捧げる姿は圧巻だった。
太鼓の音、鈴の音、そして何百もの参拝者の声が一体となって響き渡る中、里奈はこの瞬間を永遠に記憶に留めたいと思った。
儀式の後、四人はホテルのテラスで夕食を取ることにした。スパイスの香りが漂う中、少しずつ心を開き始めていた。そして自身の人生を振り返り始めた。
由紀は夫の死後、初めて自分だけの旅をしたこと。紅華は娘の死から立ち直るために看護の仕事に打ち込んだこと。さとみは娘の死を研究というフィルターを通して理解しようとしてきたこと。そして里奈は、母の死をきっかけに、自分自身の人生を見つめ直し始めたこと。
「朝も言ったけど、夫は熱心なクリスチャンだったわ。私は信じてないんだけど……」由紀が言った。「でも彼が亡くなってから、彼の信仰について考えるようになったの。彼はどこへ行ったのか……」
さとみは冷静に分析した。
「死は終わりではなく、変化なのかもしれない。エネルギーは消滅せず、形を変えるだけだとある物理学者は考えています」
夜が更けていく中、四人の会話は次第に深まっていった。境遇は違えど、彼女たちは皆、大切な人を失った痛みと、その後の模索を共有していた。
部屋に戻る前、由紀が提案した。
「明日は朝から自由時間よね。皆でガンジスに小さな灯篭を流しましょう。大切な人への思いを込めて」
全員がその提案に頷いた。明日は特別な日になりそうだった。
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