第四章:母なる大河

 翌朝、四人はまだ星が残る暗い空の下、ホテルを出発した。由紀が手配した地元の案内人は、小さな灯篭と花を用意してくれていた。


 まだ観光客が少ない早朝のガートは、昨日とは違う静けさがあった。階段を下りて河岸に立つと、冷たい朝の空気が肌を刺した。


 日の出を待つ間、四人は灯篭に思い思いのメッセージを書いた。里奈は小さな和紙に「お母さん、あなたの言葉の意味がわかりました」と書いた。本当にわかったのかどうかはわからなかったが、そう感じていた。


 東の空が白み始め、やがて朝日に照らされた河面は金色に輝き始めた。沐浴する人々、祈りを捧げる人々、遺体を焼く煙……生と死が交錯する光景に里奈は圧倒された。


「ここでは死が隠されていないわね」さとみが言った。「日本では死を見えないところに置きたがる」


 由紀は祈るように手を合わせていた。「夫はここを見たら何と言うでしょう」


 紅華は静かに涙を流していた。「娘も今、どこかの流れの中にいるのかしら」


 四人は灯篭に火を灯し、花とともに静かに河に流した。小さな光の点が、朝もやの立ち込めるガンジスの流れに乗って遠ざかっていく。


 里奈はふと、河の向こう岸に立つ一人の老婆に目が留まった。オレンジ色のサリーを身にまとい、静かに彼女たちを見つめているようだった。その姿が、どこか母に似ていると感じた。


「ちょっとすみません……」


 里奈は仲間たちから離れ、小舟を雇って対岸へ渡ることにした。


「大丈夫?」と由紀が心配そうに尋ねた。


「はい、すぐに戻ります」


 小舟に乗って対岸に近づくにつれ、里奈の心臓は早鐘を打っていた。しかし、対岸に着くと、すでに老婆の姿はなかった。代わりに、砂の上に一枚の花びらが落ちていた。蓮の花びらだった。


 里奈はその花びらを手に取り、ガンジスの流れを見つめた。突然、不思議な平安が訪れた。まるで母がそこにいるかのような、温かな安心感。


 彼女は河の水に手を浸し、その冷たさを感じた。ガンジスの流れは、過去から未来へ、生から死へ、そしてまた生へと絶えず続いていく。里奈は理解した。母の言葉の意味を。


「私たちはみな、この母なる大河の一部なのだ」


 対岸から戻った里奈を、三人は心配そうに出迎えた。


「何があったの?」とさとみが尋ねた。


 里奈は微笑んだ。


「なんだか、母に会えたような気がして」


 その言葉に、皆は驚いたような、納得したような表情を見せた。


 朝食の後、四人はホテルの中庭でお茶を飲みながら、これからの予定について話し合った。公式のツアーはまだ二日間あったが、それぞれに自分だけの時間も必要だと感じていた。


「私は今日の午後、仏教寺院を訪れたいと思っています」と紅華が言った。


 さとみは頷いた。「私は大学の同僚を訪ねる約束があるの。バラナシ・ヒンドゥー大学の教授よ」


「私はショッピングに行こうかしら」と由紀が微笑んだ。「いくつか素敵なスカーフを見つけたいの」


 里奈は迷っていた。


「私は……ちょっと街を散策してみようかと」


 由紀は里奈の肩をそっと叩いた。


「一人で大丈夫? 迷子にならないように」


 その心配は的を射ていた。里奈は方向音痴で知られていたからだ。


「大丈夫です。ホテルの名刺を持っていますから」


 四人は別々の道に散る前に、夕方また集まることを約束した。


 里奈は狭い路地を歩きながら、バラナシの日常に触れていった。色とりどりの布地を売る店、香辛料の山、聖なる牛が悠然と歩く通り。そのどれもが彼女の目には新鮮だった。


 ふと、小さな工房の前で足を止めた。中では一人の女性が、美しい絹のスカーフを織っていた。その手つきが、不思議と母を思い出させた。


 里奈は工房に入った。


「ナマステ」と簡単な挨拶をすると、女性は優しく微笑んで答えた。言葉は通じなくても、微笑みは万国共通だった。


 女性は織機から離れ、完成した作品を里奈に見せてくれた。触れてみると、その絹の質感は日本の着物にも引けを取らない素晴らしいものだった。


 里奈はその場で一枚のスカーフを購入することにした。藍色の地に、金色の糸で川の流れのような模様が織り込まれたものだった。


 工房を出た後も、里奈は歩き続けた。どこに向かうというあてもなく、ただ街の息遣いを感じたかった。


 やがて小さな寺院に辿り着いた。観光客向けの大きな寺院ではなく、地元の人々が日々の祈りを捧げる場所のようだった。


 入口で靴を脱ぎ、中に入ると、香の煙が立ち込めていた。壁には色鮮やかな神々の絵が描かれ、床には花びらが散らばっていた。


 寺院の隅に一人の僧侶が座っていた。老齢だが、穏やかな表情をした男性だった。里奈が近づくと、彼は静かに目を開けた。


「ナマステ」


 里奈もお辞儀を返した。彼はゆっくりと英語で話し始めた。


「あなたは何を探していますか?」


 その直接的な質問に、里奈は驚いた。


「私は……わからないんです」


 僧侶は微笑んだ。


「多くの人がそう言いますが、心の奥底では知っているものです」


 彼は里奈に座るように促した。


「母なる河を見ましたか?」


「はい」


「そして、何を感じましたか?」


 里奈は朝の体験を思い出した。


「平安を。そして……つながりを」


 僧侶は満足げに頷いた。


「それが答えです。私たちはみな、大いなる流れの一部。生も死も、その流れの中の一瞬にすぎません」


 里奈は母の言葉を僧侶に伝えた。「人は死んでも、母なる大河に還るだけなのよ」


 僧侶は感銘を受けたような表情を見せた。


「あなたのお母様は、深い知恵を持っていたのですね」


 里奈はその言葉に胸が熱くなった。母の最期の言葉は、単なる譫妄ではなかった。それは、母が長い人生の中で得た叡智だったのだ。


 僧侶との会話を終え、里奈はホテルへの帰り道を急いだ。夕方の集合時間が近づいていた。


 ホテルのロビーでは、すでに三人が待っていた。それぞれの表情に、今日一日の体験が刻まれているようだった。


「どうだった?」と由紀が尋ねた。


 里奈は微笑んだ。


「素晴らしい一日でした。小さな寺院で僧侶と話す機会があって……」


 彼女は今日の体験を皆に話した。僧侶の言葉、そして母の言葉の意味について気づいたこと。


 紅華も自分の体験を語った。仏教寺院で長時間瞑想し、娘のことを考える時間を持ったこと。


「不思議なことに、マヤのことを思い出しながら瞑想していたら、突然彼女の笑顔が見えて……今まで感じていた重い悲しみが、少し軽くなったんです」


 さとみは学術的な観点から大学訪問の収穫を語り、由紀は買い物の成果を見せた。四人それぞれが、この日バラナシから何かを得ていた。


 夕食を共にしながら、彼女たちの会話はより親密なものになっていった。もはや単なる旅の同行者ではなく、深い心の交流をした友人同士のようだった。


 食事の後、さとみが提案した。


「明日は火葬場を見学するツアーがあるんだけど……皆さんはどう思います?」


 それは繊細な提案だった。死の最前線とも言える場所を訪れることは、辛い体験になるかもしれない。


 紅華は少し考えた後、頷いた。


「行きたいです。死と正面から向き合いたいんです」


 由紀も同意した。


「私も。夫の葬儀は全て葬儀社が手配して……あまりにも清潔で、死の実感がなかったの」


 三人の視線が里奈に向けられた。


「私も行きます」と彼女は答えた。何か重要なものが、そこにあるように感じていた。


 その夜、里奈は部屋のベランダに出て、星空を見上げた。東京では見られないほど星が輝いていた。


 母の半襟を手に持ち、里奈は静かに話しかけた。


「お母さん……お母さんの言葉の意味がわかってきたよ。私たちはみんな、同じ大河の一部なんだね」


 星々の瞬きが、彼女の言葉に応えているように思えた。

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