第二章:出会い

 成田空港の出発ロビー。里奈は集合場所として指定されたカフェに向かった。西村恵から受け取った資料によれば、このツアーは四人の小さなグループだという。


 カフェに入ると、すでに三人の女性が座っていた。全員が日本人で、皆、一人旅のような雰囲気を漂わせていた。


「あの、バラナシツアーの……」


 里奈が声をかけると、短く切りそろえた髪の女性が立ち上がった。上品なベージュのリネンスーツに身を包み、首には真珠のネックレスが輝いていた。


「三上さん? 私、松田由紀です。よろしくお願いします」


 松田由紀は五十代半ばといったところだろうか。抑えた化粧で洗練された美しさがあり、穏やかな笑顔に里奈は少し緊張が解けるのを感じた。


「こちらこそ、よろしくお願いします」


 由紀は他の二人を紹介した。


「あの方は加藤紅華さん。看護師をされているそうです」


 由紀が小柄な女性を指さした。加藤紅華は四十代前半といったところだろうか。肩までのストレートの黒髪に、控えめなメイク。質素だが清潔感のある服装をしていた。彼女は優しい目をしていたが、どこか悲しみを秘めているようにも見えた。


「はじめまして」と紅華は軽く頭を下げた。その声は、風鈴のように澄んでいた。


「それから奥野さとみさん。大学教授だそうですよ」


 奥野さとみは六十代前半の女性だった。短く刈り上げたショートカットに、大きな黒縁の眼鏡。アカデミックな雰囲気をまとったモダンな装いで、鋭い観察眼を感じさせた。


「どうぞ、座ってください」とさとみは里奈に促した。その声には、教室で講義をするような自信と威厳があった。


 里奈は空いている席に座り、軽く会釈した。互いの自己紹介が終わると、由紀がカフェオレを勧めてくれた。


「長いフライトの前に、良質のカフェインを摂っておくといいわよ」


 皆が飲み物を前に少しリラックスしたところで、さとみが里奈に視線を向けた。


「どうして若い方がバラナシなんて場所に行きたいのかしら?」


 その問いかけは率直すぎて、里奈は一瞬言葉に詰まった。


「正直、自分でもよくわからないんです。でも、行かなければならない気がして……」


「直感ってやつね」さとみは納得したように頷いた。「私は研究のためよ。死と再生の文化について書いているの」


 由紀は優雅にコーヒーカップを持ち上げながら言った。


「私は……単に新しい景色が見たかっただけよ。一人で生きていると、時々、見慣れた風景に飽きるの」


 紅華はずっと黙っていたが、ようやく小さな声で話し始めた。


「私は……約束があるんです。娘との」


 その言葉に、全員が静かに目を向けた。紅華はそれ以上は何も言わなかったが、彼女の瞳に深い痛みが浮かんでいることは誰の目にも明らかだった。


 気まずい沈黙が流れる中、空港内のアナウンスが彼女たちのフライトの搭乗開始を告げた。


 デリー行きの機内で、里奈は窓側の席に座っていた。隣には紅華が静かに本を読んでいた。『死を前にした人は何を語るのか』という題名が目に入った。看護師らしい読書だと思いながらも、先ほどの「娘との約束」という言葉が気になった。


 紅華は里奈の視線に気づいたようで、本を閉じた。


「興味のある分野ですか?」と里奈は会話を始めてみた。


 紅華は少し考えてから答えた。


「仕事柄、死に立ち会うことが多いんです。でも、それだけじゃないんですけど……」


 彼女は言葉を濁した。無理に聞き出すべきではないと思い、里奈は話題を変えることにした。


「加藤さんは前にインドに行ったことあるんですか?」


「いいえ、初めてです。あなたは?」


「私も初めてです。実は、母が亡くなって……」


 里奈は思わず自分の状況を話し始めていた。母の死、最期の言葉、そして突然の衝動について。


 紅華は静かに聞き入った後、優しく微笑んだ。


「不思議ね。人はなぜ、死に直面すると、答えを求めて旅に出るのでしょう」


 その言葉は質問というより、彼女自身の内省のように聞こえた。


 長いフライトの中で、四人はときおり言葉を交わしたが、基本的には各自の時間を過ごした。由紀は雑誌を読み、さとみはノートパソコンで何かを書き、紅華は瞑想するように静かに目を閉じていることが多かった。


 デリーでの乗り継ぎを経て、ようやくバラナシに到着したときには、すでに現地時間の夕方だった。空港を出ると、インドの熱気と喧騒が彼女たちを包み込んだ。


 待機していたガイドのラジーブは、流暢な日本語で彼女たちを出迎えた。


「ナマステ、皆さん。バラナシへようこそ。私がガイドのラジーブです」


 トゥクトゥクと呼ばれる三輪タクシーに乗り込み、ホテルへと向かう道中、里奈は窓の外の光景に圧倒された。


 色鮮やかなサリーを身にまとった女性たち、道端の屋台、寺院の鐘の音、そして至る所に漂うスパイスの香り。日本とは全く異なる世界が、彼女の感覚を刺激した。


 道路は舗装されておらず、トゥクトゥクは激しく揺れた。由紀がそっと里奈の腕をつかんだ。


「大丈夫? 慣れるまでは揺れがきついわよね」


 その優しい気遣いに、里奈は感謝の笑みを返した。


 ホテルは古い宮殿を改装したブティックホテルだった。エントランスには花の香りが漂い、内装は伝統的なインド様式と現代的な快適さが融合していた。


 チェックイン後、四人は軽い夕食のためにホテルのテラスレストランに集まった。ガンジス河を見下ろす絶好のロケーションだった。夕暮れの河面は、オレンジ色に染まっていた。


「あれがガンジス河なのね」と里奈は息をのんだ。


「明日の朝、日の出とともに河に出ましょう。最も美しい時間よ」とさとみが言った。


 彼女たちが食事を楽しんでいると、由紀が突然話し始めた。


「実は、私は二年前に夫を亡くしたの」


 誰も返事をしなかったが、全員が静かに彼女の言葉に耳を傾けた。


「四十年連れ添って、子供もいなくて……突然いなくなって、何もかもが無意味に思えたわ」


 由紀の声は静かだったが、強さがあった。


「でも、最近になって思うの。これからの人生を、自分のために生きようって」


 彼女は里奈に微笑みかけた。


「だから、この旅はある意味で私の新しい出発なのよ」


 里奈は由紀の勇気に感銘を受けた。四十歳になったばかりの自分が感じていた漠然とした不安と比べて、由紀の決意は何と力強いことか。


 テーブルに運ばれてきた料理は、スパイシーながらも繊細な味わいだった。紅華はナンをちぎりながら、少し照れたように笑った。


「私、実はベジタリアンなんです。インドは菜食主義の人には天国ですね」


「そういえば、機内食もベジタリアンを選んでいたわね」とさとみが言った。「宗教的な理由?」


 紅華は首を横に振った。


「いいえ、ただ……命を大切にしたいと思って」


 その夜、里奈は自室のベッドに横たわりながら、今日出会った三人の女性のことを考えていた。それぞれに人生の荷物を背負い、それでも前を向いて生きている。


 窓の外からは、ガンジス河の方角から聞こえる祈りの声と太鼓の音が、異国の夜を彩っていた。


 里奈は母の半襟を手に取り、胸に当てた。遠く離れた場所で、こんなにも母を身近に感じるとは思わなかった。


「お母さん、私、来たよ」


 静かなささやきとともに、里奈は深い眠りに落ちていった。

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