なんてことない朝

 薬草を煮出した薄緑色の液体が、差し込む朝日を受けながら甘い匂いを工房中に漂わせていた。

「ふんふ~ん♪」


 ご機嫌そうに鼻歌を歌いながら、彼女は液体の入った大鍋の中にスライムの原液を流し込み、ぐるぐるとかき混ぜていく。


 彼女の込めるエーテルによって、鍋の中で素材の魔力同士が反応を起こし、かすかな光を放ちながらマーブル模様を描き始める。その美しいさまを見つめる瞳もまた、大粒の翠玉のようにきらきらと輝いていた。


 腰まで届くほどに長い髪は、真新しい雪のような銀色。肌もまた雪のように白い。


 目鼻立ちは見事なまでに整っていて、小ぶりな鼻と唇、まつ毛の長いぱっちりとした目が、小さな顔の中に綺麗なバランスで収まっている。


 可憐な妖精を思わせるようなその美貌も、桜色の頬の横から伸びた、長く尖った耳を見れば誰もが納得のいくことだろう。彼女はエルフ族——つまり、妖精そのものだった。


 身長は五尺足らず。体つきは第二次性徴すらまだ迎えていないように見えるほど細く、そして平坦。


 幼げな顔立ちと相まって、人族であればわずか十歳前後の少女にしか見えない彼女だが、これでもれっきとした大人なのである。


 こう見えても、千と二百年ほどは生きているのだ。長命なエルフの中でも、千歳を超えればそれなりにいい年である。

 そんな彼女の名は、アルテミシア・アルキュミア。


 親しみを込めて、人々からは〝アルテ〟と呼ばれていたりする。


「……よし、こんなものかな」

 そう呟くと、アルテは鍋の中の液体を小瓶数個の中に移し替え始めた。


 その液体はもう、いくつかの素材を混ぜ合わせただけの、たんなる薬草の煮汁ではない。


 液体を映し終えると、アルテは瓶に貼られたラベルに一つ一つ、『魔法薬《ポーション》』と書き記していく。


 そう。たった数分前まで薬草の煮汁と素材数種類を混ぜただけであったはずのこの液体は、あっという間に魔法薬へと姿を変えてしまったのだ。


 アルテの行使した、〝錬金術〟の力によって。






 アルテの住む家のすぐそばには、小さな森がある。

 その森を越えた先には平原が広がっており、そこには町が一つあった。


 規模は決して大きくはないが、活気に溢れた街であり、アルテはそこをとても気に入っている。


 小さな肩掛け鞄に、先ほど作った魔法薬を入れた彼女は、町に向かって森の中の小道を歩いていく。


 木々たちが、酸素とともに清浄な魔力を大気中に排出しているのが肌に伝わってくる。それと同時に彼女の耳には、植物に宿る精霊たちの囁き声や歌声なども聞こえてきていた。


 エルフである彼女には、魔力の気配やその純度が手に取るように分かるし、植物に宿る精霊の声や姿形も当然、認識することができるのだ。


 清浄な魔力や、生き生きとした精霊たちの息づかい溢れるこの森が、アルテはとても好きだった。今の家に住まうことを決めた理由の一つに、ここの存在があった位には。


 というのも、自然の精霊に比較的近い生態を持つエルフにとって、周囲の自然環境はとても重要な要素なのだ。


 澄んでいて一切穢れのない魔力を、そしてそれを含んだ木の実やキノコなどの食物をいつでも得ることのできるこの森のそばは、エルフにとってはまさしく最高の住環境なのである。


 そして、それは何もエルフにとってだけではない。錬金術師にとってもだ。


 使用する素材に含まれる魔力の質は、そのまま錬成のしやすさや、錬成物の質にも影響する。そのため、良質なマナを含んだ薬草や素材がいつでも採れるこの森は、彼女の採取地としてもうってつけな訳である。


 小鳥のさえずりと、精霊たちのかわいらしい囁き声を背景に、アルテは町までの短い道のりを進んでいく。


 これだけ清浄な魔力の溢れる場所では、魔力を食って生きる魔物たちの性質もとても穏やかだ。


 水辺を跳ねる水スライム、葉っぱを食む草スライム、茂みの中を駆け回るホーンラビット。


 皆、こちらから手を出さない限り、突然飛び掛かってくるようなことはない。そのため、武装をせずに素通りできてしまうのも、戦闘を得意としない彼女にとってはありがたいことだった。


 とは言っても、ここに住む魔物はどれも皆弱いので、もし戦いになったとしても余裕で対処はできるのだが。それでも、余計な戦闘はないに越したことはないだろう。


 いつもの道をのんびりと歩いていくと、あっという間によく見慣れた街並みが見える地点まで差し掛かる。町の外と内部を隔てるゲートのそばまでやってくると、アルテと目が合った門番が朗らかに挨拶してきた。


「おぉ、これはこれは。アルテさんじゃありませんか、おはようございます」

「おはようございます、門番さん。朝からお疲れさまです」


 元気に挨拶してきた若い門番に、アルテもにこやかに挨拶を返す。


 アルテはこの町の正式な住人というわけではないが、長い付き合いの中で、町人たちからはすっかり住人同然に扱われている。


 日によって入れ替わる門番たちともすっかり顔なじみであるため、身体検査や通行料の徴収などをされることもなく、町人たちと同じようにすんなりとゲートを通過することができるのだ。


 まだ朝の早い時間帯ということもあり、道行く人の数は少ない。早朝から各々の仕事に勤しむ勤勉な人々はみな、アルテの姿を見るなり挨拶をしてくれる。


 これだけアルテが町人たちから慕われているのも、彼女の力がこの町の人々にとって大きな助けとなっているからだろう。


 錬金術の力で住人たちの困りごとや依頼を解決し、そのお礼に金銭を受け取ったり、食料などの生活必需品を分けてもらう。


 そんな生活を、アルテは森の向こうの家で暮らし始めた数百年前から今の今まで、ずっと続けているのだ。


 それだけ長くこの辺りで暮らしていれば、短命種である人族が住まうルスタの町の住人たちにとっては、アルテは頼れる長老、あるいはその域も超えて、守護者にも近いような存在なのかもしれなかった。


 老若男女問わず、アルテはこの町の住人たちから慕われ、そして敬われているのだ。


 朝早くから仕事に勤しむ勤勉な町人たちと挨拶を交わしつつ、アルテが向かうのは広場の先の通りを進んだ場所にある、一軒の薬屋。その店こそが、アルテに魔法薬錬成の依頼を出した依頼主だった。


 広場を抜け、商店などが立ち並ぶ通りに出ると、目をつぶっても歩けそうなほどに何度も通った道のりを進んでいく。


 すると、彼女の目の前にはよくよく見慣れた、薬の絵が描かれた看板が現れた。

 ドアを開け、その店内に入ると。


「いらっしゃいませ~!」

 カランコロン、という入店ベルが鳴るのと同時に——いや、ひょっとしたらそれよりも早く——元気な少女の声が、アルテを出迎えた。


「あ! アルテさんじゃないですか!」

 アルテの姿を捉えた途端、カウンターに立つ長い黒髪の少女の大きな瞳が、より一層ぱっちりと見開かれる。


 アルテの来店に嬉しそうに瞳を輝かせる少女に、アルテはにこやかに挨拶する。

「おはよう、メリーナちゃん。朝からお仕事なんて、立派だね」


「ふふっ、それほどでもありません! あたし、これでももうすぐこのお店を継ぐんですから、これぐらい当然ですとも!」


 口ではそう言うが、物心ついた頃からアルテに憧れ、姉のように慕ってきた少女——メリーナは、大好きなアルテに褒められてすこぶる得意げだ。


一方のアルテはというと、彼女の何気ないその一言にはっとしてしまった。そういえば彼女はもう、店を継げるほどの年齢なのだ。確か、今年で十八歳になると言っていただろうか。


 エルフにとっての十八歳は言うまでもなく、子供中の子供である。アルテなんて、それぐらいの年齢だった頃の記憶はほとんど全くと言っていいほどない。


 だが、人族をはじめとする短命種にとっては、十八歳歳は立派な大人。彼女の言葉の通り、大人の一員として家業を継ぎ、働くのも当然の年齢なのだ。子供扱いしてはいけない。


 それと同時に、結婚適齢期でもある。彼女は商家の娘だから、きっともう縁談がいくつか来ていたりするのだろう。もしかしたらすでに結婚相手が決まっているかもしれない。


 そうして、あっという間に彼女にも子供が生まれて。その子供もいつの間にか大人になっていて、メリーナも気がつけばしわしわのおばあさんになっていて——。なんて光景が、頭の中にふと浮かんでくる。今までに、幾度となくそんな経験をしてきたから。


 エルフからすれば、人族をはじめとする短命種の時の流れは実に早いものだ。

 人族は、長く生きたとしても百年程度だというのに。それに比べて、エルフにとっての百年なんて大した年数ではない。


(わたしみたいなおばさんにとっては特に、ね……)

 子供の頃なら百年もそれなりの長さに感じられたものだが、今となってはその程度の年数など、一瞬のうちに過ぎ去っていく。時の経つ速さは恐ろしいものだ。アルテにとっての〝一瞬〟が、人族にとっては一生の長さなのだから。


(……人族って、ほんとに成長が早いなぁ)

 ほんの少し前までは小さな子供だったはずの目の前の少女も、気がつけば自分の背丈をすっかりと越してしまって、今ではもう大人だなんて。


 小さい頃からずっと見守ってきた子の目まぐるしい成長は、嬉しい反面、少し寂しくもあるものだった。


「……それじゃあ、もうすぐ薬屋の店主さんになるメリーナさん」

「はっ、はい!」


 アルテは少しあらたまった声で言い、メリーナと目を合わせる。それにつられてか、メリーナもぴしっと背筋を伸ばして返事した。


 そんな彼女の前に、アルテは鞄から出した魔法薬の瓶を置く。

「ご依頼の魔法薬二十個、納品です」

「はっ、はい! 今確かめます!」


 突然あらたまった態度を取り始めたアルテにつられ、少し緊張したような様子で薬の瓶を数え始めるメリーナ。単純な彼女が微笑ましくて、アルテはついくすっと笑ってしまう。


「……はい、確かに! では、報酬の千五百フロルと、あと……あれぇ、どこにしまったかなぁ」

 自分の近くに目当ての物が無いことに気づいたメリーナは、慌ててカウンター裏のバックヤードを探し始めた。


 こういうそそっかしい所は、やっぱり昔から変わらないなぁ。アルテは密かに、メリーナの背中に微笑むのだった。


「あ、あった! こちら、どうぞ! お約束のお野菜です!」

「まぁ、こんなにたくさんいいの?」


「はい! 農家さんからたくさんいただいてしまったので! うちは三人家族なもので、使い切る前に腐らせてしまいそうで……ですから、たくさんおすそ分けしなさいって、お母さんに言われてるんです!」


「あら、そうなの? それじゃあ、遠慮なくいただくね。おいしそうなお野菜、ありがとう」

 アルテは微笑み、差し出された金袋と、野菜がたくさん入ったカゴを受け取った。


 さまざまな野菜の入ったカゴは、手に持つとずしりと重みを感じる。

「わぁ、すごい量。これだけあるから、今度お野菜のケーキでも作って持ってこようかな?」


「ええっ、い、いいんですかっ⁉」

「ふふっ。もちろんよ、メリーナちゃんたちにはずーっとお世話になってるんだもの」


 ずっと、と言うのはそれこそ、彼女の両親の曽祖父母がこの町に移り住み、商売を始めたばかりの頃からである。


 するとメリーナは、カウンターからぐいっと身を乗り出して。


「そんなぁ、それを言うならうちの方こそですっ! アルテさんには、あたしのひいひいおじいちゃん、おばあちゃんの代からず~~っとお世話になってるんですもの! お世話になりすぎて、もうどうお返ししたらいいのやら……」


「そんな。わたしはただ、時々お薬を売りに来てるだけの、ただの錬金術師よ。お礼をされるほど大したものじゃないわ」


 それに、いつも助けられてるのはわたしのほうです。とアルテ。この店での薬の買い取りや依頼は、昔から彼女の生活を大きく支える一端となっているのだから。


 それにしても、昔と比べるとこの店も随分と大きくなったものだ。最初の頃は、小さな古家の一階を改装して、なんとか店の形にして経営していたというのに。


 今ではこの店も、町の中でも随一の大きさを誇るお屋敷の一階だというのだから。


「そんなぁ、うちがこんなに発展したのは、アルテさんのお薬がよく売れるおかげでもあるというのに……特に魔法薬なんて錬金術師さんしか作れないし、アルテさんの魔法薬はどんな傷でもたちどころに治るって評判だからよく売れるし……」


 アルテの謙遜したような台詞に、メリーナは大きな瞳を潤ませてそう返す。

「聖女様は、やっぱり心までお綺麗なんですね! あたしも見習わなくちゃ……」



「……っ」

 ——聖女。



 ふいに少女の口から飛び出したその言葉に、アルテは思わず息が止まるような思いがした。


 それは、千年以上も昔からずっと、畏敬と親愛の念を込めて、アルテがこのテオイア大陸の人々から呼ばれ続けている異名であり。


 そして、彼女が一番呼ばれたくない名であった。


「……そんな。わたしは別に、聖女なんてほどのものじゃないよ。森の奥でひっそりと暮らしてる、ただの錬金術師」


 胸の奥を、冷たい針のような感覚がちくりと突き刺す。もちろん、表面上は笑顔で取り繕っていたのだけれど。


「もう、またまたご謙遜を! アルテさんが“ただの”錬金術師なわけがあるはずないじゃないですか! だってアルテさんは伝説の……」

「ふふっ。それよりメリーナちゃん、何か食べたいお菓子はある? 帰ったらお野菜のケーキと一緒に作るわ」


「えぇっ、あたしのリクエストにまで答えてくれるんですかっ⁉ そ、それじゃあ、えーと……」

 半ば遮るように告げられたアルテの言葉に、幼

い子供のように目をきらきらと輝かせて思案に耽りはじめたメリーナ。いくつになっても、彼女はやはり彼女のままだ。目の前の少女に、アルテは微笑ましい気持ちを抱く。


 それから、悩み抜いた末にリクエストされた焼き菓子数種類をメモしたアルテは、そろそろ薬屋を後にすることにした。


「ありがとうございました、アルテさん! またお願いしま~す!」

「うん、こちらこそ。お菓子、すぐ持ってくるね」


「やったー! お待ちしてますっ!」

 カウンターから元気に手を振ってくるメリーナに手を振り返し、アルテは薬屋を出た。


   ◇


 家に帰り、町の人々からもらったものの整理を終えると、アルテはさっそく地下の錬金工房へと潜っていった。今日はもう一日中、工房に籠って研究をするつもりだった。


 魔法薬作りのような簡単な錬成なら、台所にある調理器具でもできてしまう。


 けれどもっと大掛かりな錬成実験では本格的な器具が必要になるし、台所のような狭い場所では、万が一失敗して使用した道具や素材を飛び散らせたり、爆発させてしまったりでもしたら一大事だ。


 そのため、錬金術師の家には必ずといっていいほど錬成専用の部屋があるものだ。


 この家の地下室は、アルテがここを買ってから増築したものだ。当然、その設計も彼女が大半を考えたため、錬金術に最適な環境になっている。


 大量の器具類を並べられる大きな棚に、広々とした机。照明は人の魔力に反応すると自動でつく高価な魔石灯を使っており、壁は爆発を起こしても平気な強化魔性素材でできている。


 また素材棚の中も充実しており、薬草を育てたり乾燥させたりするための設備もある。


 それになんといっても、エーテルを室内に集める効果のある魔道具。これが設置されているのといないのとでは、錬成の効率が大違いだ。


 その分高価でもあるのだが、アルテはこれを自分で錬成してしまった。


 若い錬金術師がここを訪れたらきっと、目を輝かせることだろう。アルテにも、かつてはそんな時代があった——かもしれない。いや、確かにあった。錬金術の世界に心を躍らせ、瞳を輝かせる若い時代が。


 けれどそれももう、彼女にとっては——そしてこの世界にとっても——遠い過去の話であった。今の彼女の目の前にはただ、実験の目的と、それを達成するための行動の連続があるだけだった。


 アルテは席につくと、机の上に置かれた分厚い錬金術書を開く。ところどころ破けた表紙やページからも分かるとおり、その本は古いものだ。


 古代の錬金術書であるらしく、以前遠い街の古書店で手に入れてきたものだった。


『生気を活性化させる石』『邪悪な魔力を吸い取る杖』『瘴気を祓う鏡』——その他、いくつかのレシピのページに付箋が貼ってある。どれもアルテが一つ一つ読んで、ピックアップしたものだ。


 だが、何もこのレシピ達を一つずつ作っていくのではない。これらのレシピを参考にして、新しい道具を生み出そうと考えているのだ。


「強力な瘴気を浄化する触媒には、神樹の樹液に鏡角獣の角を削り入れて固めたものを使って……あとは霊性白銀と玻璃色金を合成したものと、水晶の枝の粉と、それから……天使蜂《エンゼルビー》の羽根」


 漏れる独り言は、頭の中を整理するためだ。一つ一つ口にしながら、彼女は紙に案を書き出していく。そしていくつものレシピを何度もじっくりと読み返しながら、アイデアを固めていく。その過程で、別の本を本棚から引っ張り出してきたり、過去の失敗したデータと見比べてみたり。


 そうして悩み抜くこと、約一時間半。

「よし、これなら……!」

 羊皮紙にアルテの手で記された真新しい錬金術のレシピが、魔導石のランプに照らされて輝く。


 これまでに幾度となく失敗してきたが、今度こそうまくいくのではないか。ずっと求めてきたものを、今日こそ作り出せるんじゃないか。そんな自信が、彼女の胸の奥からふつふつと湧き出してきていた。


 その仮の名は『祓魔の銀剣』とでもいっておこうか。一振りするだけで強い瘴気と邪悪な魔力を祓い、柄に触れた者の生命力を清浄な魔力で活性化させる。


 このように強力な特性をいくつも有した道具を作ろうとすると、たいていは性質同士が拮抗して失敗してしまい、成功させるのは極めて難しい。


 だが今回考案したこのレシピは、その性質同士がむしろうまく互いを高め合えるようにうまく調整できたと思う。長年の錬金術師としての経験が、間違いないとしきりに頷いている。


「すごいの、できちゃったかも……」

 己の書いたレシピを改めてひととおり読みながら、アルテは呟いた。そうと決まればさっそく錬成に取り掛からない手はない。


 使うのはどれもここから遠い地域で採れる希少なものだが、それも全部取り寄せてあるのだ。


 錬金術と、それから科学実験以外ではまず使われないであろう器具類をいくつも使って、それから必要な個所では素材の一部を錬成加工し、適切な処理を施したのちに、錬成用の釜のところへと持っていく。


 釜は大、中、小と大きさに分けて三種類あるが、今回は一番小さいもので事足りるだろう。その大きさはアルテの胸元よりも下あたりまである。


ちなみに中くらいのものは彼女の目の下あたりまであり、一番大きいものはアルテがすっぽり中に入れてしまうほどで、実はあまり使ったことがない。


 これほど大きい釜が必要になることは、全くないとは言えないがそう何度もあるわけでもないものだ。


 小さい釜の前に立つと、その中を錬成液——溶かした魔石などの魔性素材と、聖精水等のエーテルの働きを促進させる効果のある素材等を混ぜ合わせた液体であり、大がかりな錬金術を行う際にはこれが必要になることも多い——で釜の四分の一程度を満たすと、ついにずっと求めていたものを作り出すことができるかもしれないという期待感と、緊張感とが入り混じってはやる鼓動を抑えながら、素材たちを中に投入していく。


 そして、細長い攪拌棒でその中をぐるぐるとかき混ぜ始めた。中身がよく混ざるように、全身をつかってしっかりと。それと同時に、大気中の大量のエーテルを中に誘っていく。


 使用するエーテル量が多ければ多いほど、当然術者の魔力の消費スピードも速くなる。だが、この程度で彼女は息切れを起こさない。伊達に千年間錬金術師をやっているわけではないのだ。


 けれどやはり、強力な魔性素材はその分、分解するのに必要なエーテル量も増える。まったく疲れを感じていないと言えば嘘になったし、現に額からは汗が流れ出してきていた。


 だがその分、釜の中から溢れ出す魔力とエーテルの反応の様子もまた美しい。オーロラのような七色の光が薄暗い地下室中を包み込み、見るも幻想的な光景を作り出していた。


 攪拌棒を握るアルテの手には、素材同士の要素が確実に分解されていく手ごたえが伝わってくる。必要な個所を完全に分解できたら、あとはそれをエーテルによって目当ての形に結びつけ直し、それで完成となる。


「よし、ここを頑張ればあと少し……」

 そう呟き、アルテは攪拌棒を握る手に力を込め直した——だが、そのときだった。

「——きゃあっ⁉」


 突然、アルテの目の前で鋭い閃光が勢いよく爆ぜた。

 最初、何が起こったのか分からなかった。それほどまでに一瞬のことだったから。

 けれど数秒後、すぐに理解した。——釜の中身が、勢いよく爆発したのだ。


「けほっ、けほ……」

 咳き込むと、黒い煙が口の中から出てくる。錬金釜の中身も当然、真っ黒になっていた。滅多なことでは焦げ付いたりしないようコーティングされているはずの攪拌棒にさえ、少し煤けた色がついてしまっている。


 一体何がいけなかったのだろう。絶対にうまくいくレシピができたと思ったのに。……等々、思うことはいろいろとあったが、それらを考えるよりも先にまずやるべきことがあった。


「掃除、しなきゃ……」

 こういった状況では、早く器具を綺麗にしないと劣化が早まってしまう。


 失敗の理由を考えたり、自分の身体を綺麗にしたりするよりもまず清掃が先決だというのを、アルテは長年の錬金術師としての経験の中でよく知っていた。


 そして、どれだけ長く錬金術師をやっていようと、失敗するときはするのだ。何がいけなかったのかは、清掃の後に風呂に浸かりながらじっくりと考えることにする。

 重いため息が、焦げ臭い地下室の中にこだました。





 今日は、とてもよく晴れていた。こんな日は絶好の洗濯日和だ。風呂から上がったアルテは、爆発で黒焦げになった服をすぐさま洗濯した。


 先ほどまで着ていた服はすっかりと汚れが落ち、今は綺麗になって外で風に揺られている。その様子を窓越しに眺めつつ、アルテは本のページを繰る。


 全身がふやけそうなほど風呂に浸かりながら考えたが、結局、失敗の理由はまだ完全には分かっていない。錬金術師歴の長い彼女でも時折こういったことがあるぐらいには、錬金術は奥深く、難解なものなのだ。もちろん、未解明な原理も多い。


 分からないことは分かるまで気が済まないが、かといって難しいことをいつまでも唸りながら考えていても解決につながるわけではないということも、彼女は長年の経験からよく知っていた。


 こういったときはあえて、別のことをしてリフレッシュするのが効果的だったりする。一度頭を切り替えてから再び問題に取り組むと、途端に嘘のように解決することもあるのだ。今、アルテが錬金術とは全く関係のない本を読んでいるのもそういうわけだ。


 読んでいるのは、古い童話を集めた短編集。かつて町の本屋で手に入れたものである。今は影も形もないほどに遠い昔に書かれた物語から、今もなお語り継がれているものまで、さまざまな物語がその一冊の中に記されていた。


 また一つの物語が終わり、ページを繰ればまた新しい物語が始まる。

 めくった次のページに記された題名は『賢者の旅』。錬金術師が賢者の石を使って難題を解決していく、ありふれたおとぎ話だ。


「……賢者の石って、ほんとにあるのかなぁ」

 輝く小さな石を掲げる、挿絵の錬金術師を見ながらアルテはぽつりと呟く。


 ——賢者の石。

 卑金属を金に変え、どんな病も治し、穢れたものをたちどころに浄化してしまうこともできれば、触れたものに強力な生命力を授けることだってできる。


 手にした者はどんな願いも叶い、古代において『錬金術の至高』と呼ばれていたと伝えられる物質。


 だが、今ではそれも幻の存在だ。近代錬金術史において、その錬成に成功した者は未だにいないのだから。その錬成方法は、遠い古の時代に失われてしまったとも、おとぎ話に書かれた空想上の存在だとも言われている。


 アルテが生まれるよりもずっとずっと昔の、神話の時代。神々は人類に錬金術の知識と技術を与え、それと共に賢者の石の製法も授けたが、人々が誤った使い方をしたために、賢者の石とその製法は地上から失われた——そんな真偽不明の伝承も存在する。


 今となっては、賢者の石は実在せず、錬成は不可能と考える錬金術師も多い。だがその一方で、理論上では決して不可能ではないと主張する者も一定数存在している。


 実際、『賢者の石の製法』と言い伝えられているレシピは世界中に多数存在し、そのほとんどが全くのでたらめであるところ、ごく一部ではあるが〝理論的には〟実現可能と思われるレシピも存在している。


 わざわざ“理論的には”と強調するのは、それが実際に行うのは非常に現実的ではないものばかりだからである。使用するエーテル量や魔力量、それからときには使用する素材が、およそ常識のほどを超えているのだ。


 それらも、もしかしたら後世に誰かが書いたでたらめなのかもしれない。けれどその一方で、古代錬金術には現代では失われてしまった技術も多々存在しており、それらの中には現代の錬金術とは比べ物にならないぐらいの高度なものもあったのだとか——それらが失われてしまったのは、古くからの錬金術の秘密主義な性格が原因だ、と分析する学者もいる——。だから、現代では到底実現不可能なレシピも、古代では常識の範疇だった可能性も捨てきれないのだ。


 そして、それらの研究に日々勤しむ錬金術師も決して少なくはない。そういったことは決して無意味ではないとアルテは思うし、そうした努力はいつか錬金術の発展にも寄与することとなるだろう。


 けれど、千年以上にもわたる錬金術師生活の中で、彼女はその実在性を疑問視するようになっていた。実際、彼女もこれまでの長い人生の間に、賢者の石の錬成実験を幾度となく行ってきたのだ。そして、そのたびに失敗し続けてきた。数えたら途方もないぐらい、何度も、何度も。


 それでも彼女には賢者の石を完成させたい理由があった。だから諦めなかった。だが、それでもやはり、彼女の手の中に賢者の石が生まれることはなかった。


 だから彼女は、賢者の石の錬成を試みることをとうとうやめた。そして、何か代わりになるものの開発を試みることにした。もしかしたら、賢者の石を作るよりももっと手っ取り早い方法は他にもあるかもしれない。


 今日の実験も、その『代わり』を作ることを試みてのことだった。結果は失敗に終わったが、それならまた別の方法を考えるまでだ。


 旅が終わってから数百年、彼女はその長い時間のほとんどを実験と研究に費やしてきた。その過程で、いつしか彼女にとっての”錬金術”は、彼女自身も気づかぬうちに『心を躍らせてくれる魔法のような技』とは正反対のものになっていた。目的を達成するための、ただ一つの手段。


 そこに、楽しさなんてあるはずがない。あっていいはずがなかった。——じゃないとわたしは、あのときの責任を。


 アルテの脳裏にふと、若き日の記憶が蘇る。

 見えてくるのは枯れ果てた大地と、隣に立つ仲間たち。

 あの日、小さなその身に全てを託された少女は、息も絶え絶えの状態で仲間たちに微笑みかけて。そして——。


 ……こういったことをいつまでも考えていても仕方がないことは、重々わかっていた。一度のめり込んでしまったが最後、思考と記憶の渦に呑まれて身動きが取れなくなってしまうから。


 あのとき、もっとこうできたら。もし自分があんなことをしていなければ。そんなことを今考えたところでどうにかなるわけではないのに。——今日はもう少し、休憩が必要そうだった。


 アルテは紅茶のおかわりを淹れ、もっと別の、錬金術師が出てこない本を今度は読むことにした。

 紅茶を片手に、長らく読み返していなかった本のページをめくっていると、時間があっという間に流れていく。


 いつの間にか、手にした本のページも最後のところへと差し掛かる。百年ほど前にも読んだことのあるその結末を見届けると、アルテは椅子から立ち上がった。その本を、元あった本棚に戻すために。と、その前に、うっかり手にしたままだったティーカップを、テーブルの上に置いて。


 と、そのときだった。

 ——ドンドンドン!

「っ⁉」

 ドアノッカーが戸を叩く音が、ふいに部屋に鳴り響いた。アルテは彼女は思わず、小さな肩をびくっと震わせて足を止める。


 自分の尾を噛む蛇の形をしたドアノッカーは重たく、鳴らすと意外に大きな音が出る。それが急に鳴ると、アルテは驚いてしまうのが常だった。


 きっと、町の誰かが何かの用でやって来たのだろう。そう思いながらアルテは玄関へと向かい、扉を開く。


 けれどその一秒後に、その予想は大きく裏切られることとなる。

 開いた扉の先に立っていたのは、町に住む誰かなどではなかった。そこにいたのは、全くもって見知らぬ少女だったのだ。

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