第1章 違和感②

1.1.3 自傷行為と「変化」への渇望


指先が、気持ち悪い。


自分の手の甲をじっと見つめる。

爪は生温かく、指の腹は少し汗ばんでいた。

その感触が嫌でたまらなかった。


爪を立てて腕をひっかく。

最初は軽くだった。

けれど、すぐに物足りなくなって、何度も同じ場所をこすった。

赤くなり、やがて皮膚が薄く裂けて、小さな血の玉がにじむ。


――これ、本当に俺の体?


まるで、自分が自分ではないみたいだった。

体の輪郭が曖昧で、どこからどこまでが「緒方駿」なのか分からなくなる。


だから、もっと削った。


鉛筆削りの刃を抜いて、爪の間に押し込んだ。

力を入れると、爪がじわりと浮いて、血がにじむ。


痛みが、確かにそこにあった。


「……あぁ」


ようやく、自分がここにいる気がした。




初めて鏡を見て気持ち悪いと思ったのは、いつだっただろう。


家の洗面所の鏡に映る顔を見たとき、胃の奥がじわりと冷たくなった。


この顔は、誰のもの?


俺?


いや、違う。


この身体は、俺じゃない。

こんな形で生まれた覚えはない。


もっと違うはずなのに。


なのに、どうして俺はこんな顔をしている?


「……変えたい」


そう呟いた瞬間、母親の化粧ポーチが目に入った。


手を伸ばし、口紅を取り出す。

少し震える手でキャップを外し、鏡を見ながら唇に塗る。


濃い赤がじわりと広がった。


ファンデーションを手に取り、肌に塗る。

パフの感触が、どこか別の世界に連れていってくれるような気がした。


アイライナーで目元をなぞる。


変わっていく。


別の誰かになれる。


この顔じゃない、俺になれる。


期待を込めて、ゆっくりと鏡を覗き込んだ。


――けれど、そこにいたのは、ただの滑稽な仮面だった。


ぎこちなく塗られた口紅、ムラのある肌、滲んだアイライン。


こんなの、変化でもなんでもない。


「……違う」


鏡を見つめたまま、力なく呟く。


俺はこんなものになりたいんじゃない。


こんな中途半端な「真似事」じゃなくて、もっと根本から変えないといけない。


俺は、生まれ変わらなきゃいけないんだ。






1.1.4 異物としての自覚


「……何やってんの」


低く、冷え切った声だった。


心臓がひとつ、跳ねる。


鏡の奥の俺は、間抜けな顔のまま固まっていた。

口紅ははみ出し、肌はまだらに白く、アイラインは滲んで黒い影を落としている。


「気持ち悪い」


背後で、足音が近づく。


母親が、すぐそばにいた。


化粧ポーチを掴み取られる。

乱暴に中身をぶちまけられ、床に落ちた口紅が転がる。


「こんなことして……あんた、ほんとに頭おかしいんじゃないの?」


怒鳴り声が耳の奥に突き刺さる。


「男のくせに、何考えてんの? そんな気持ち悪いこと、どこで覚えたの?」


「みっともない……ほんとに、みっともない……」


母親の言葉は、罵倒なのか、嘆きなのか。


俺はただ、鏡の中の自分を見ていた。


「……」


不完全な顔。

不格好な化粧。


「違う」と思った。


なりたかったのは、こんなものじゃない。

こんな中途半端な偽物じゃない。


でも、俺は最初から間違っていたのかもしれない。


「――ふざけるな」

母親の手が飛んできた。


頬に鈍い衝撃が走る。


パチン、という音が遅れて聞こえた。


けれど、痛みはなかった。

何も感じなかった。


俺は殴られるまま、動かなかった。


叩かれた頬が熱を持ち始める。

目の奥がじんわりと痛む。


――あぁ、まただ。


また、「俺」がここにいる。


生々しい肉体。

血の通った皮膚。


俺は、俺の体に閉じ込められている。

人間の形をした檻の中に。


この体を持っている限り、どこにも居場所はない。


母親はまだ何か言っていた。

でも、その声はもう遠くて、意味をなしていなかった。


鏡の中の俺は、何かを言いたげに唇を動かしていた。


でも、何も言えなかった。

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