人間廃絶論

瞬遥

第1章 違和感①

1.1 異物としての自分

1.1.1 幼少期の違和感


鏡の中の顔を、じっと見つめる。


そこに映っているのは自分のはずなのに、どうしてもそう思えなかった。

黒くてまっすぐな髪、少し大きめの目、ぼんやりした表情。

幼稚園の頃から「かわいい」と言われることが多かったが、駿はそれが嫌だった。

かわいいと言われると、何かズレたものを押し付けられるような気がした。


じわじわと胸の奥が冷たくなる。

鏡に映る自分は、本当に自分なのか?

それとも、ただの偽物なのか?


まるで、何か別のものがこの顔を借りて、「緒方駿」のふりをしているような気がする。


試しに笑ってみる。歪んだ笑みが返ってくる。


——違う。


何が違うのかは分からない。

ただ、どこかが致命的に間違っている気がする。

駿は無意識に自分の手を爪で押し込む。

強く押しすぎて、指先にじんわりと痛みが走った。



幼稚園のころから、駿は周りの子どもたちと遊ぶのが苦手だった。


男の子たちはヒーローごっこやサッカー、女の子たちはおままごとやお姫様ごっこ。

それぞれの遊びは、明確なルールで仕切られている。

駿はどちらの遊びにもすんなりと入ることができなかった。

ヒーローごっこでは「ちゃんと敵をやっつけろ」と言われ、おままごとでは「パパ役やってよ」と頼まれる。


でも、駿はどちらもやりたくなかった。


「お前、なんでいつもぼーっとしてんの?」


ある日、男の子の一人にそう言われた。

駿はうまく答えられず、ただ俯いた。


「駿くんって変なのー」


今度は女の子が笑った。

駿は何も言えず、ただ手を握りしめる。

爪が手のひらに食い込む感触がした。


どこにも居場所がない。

どこにも馴染めない。


それは小学校に上がっても変わらなかった。


「お前、もっと男らしくしろよ」


「お前、女みたいな顔してんな」


たまに、そう言われる。

男らしさが何なのかも分からないし、女らしさが何なのかも分からない。

ただ、どちらの言葉も「駿は間違っている」と言っているような気がして、息が詰まった。


友達がいないわけではなかった。

話しかけてくる子もいたし、一緒に遊ぶこともある。

でも、それはただの表面的な関係でしかなかった。


「駿くんってさ、なんか変だよね」


ふいに言われた言葉が耳にこびりつく。駿はぎゅっと拳を握る。


そうだ。自分は変なんだ。


いや、変なんじゃなくて——。


自分は人間の皮をかぶった異物なのではないか?


その考えが頭をよぎった瞬間、駿はぞっとした。

喉の奥が締めつけられるような感覚。


体が冷えていく。


自分は何者なんだろう?

どうして、ここにいるんだろう?


——そして、本当に「人間」なのだろうか?







1.1.2 家庭環境と母親との関係


部屋の空気は、いつも重たかった。


古びたアパートの一室。

天井にはうっすらと染みが広がり、壁紙はところどころ剥がれている。

部屋の隅には、開けっぱなしのコンビニの袋が転がっていた。

湿ったタバコの匂いと、化粧品の甘ったるい香りがしみついていて、どれだけ換気をしても消えることはなかった。


母親が帰ってくるのは、いつも夜遅くだった。

ドアが乱暴に開く音とともに、ヒールの硬い音が床に響く。

駿は布団の中で息をひそめる。物音を立てなければ、母親は自分の存在を忘れてくれるかもしれない。


「はぁ……だる……」


母親は大きなため息をつきながら部屋に入る。

化粧の落ちかけた顔が、うっすらと街灯の光に照らされた。




駿が幼い頃、母親はまだ駿を抱きしめることがあった。

寝る前に絵本を読んでくれたこともある。

小さな体を毛布に包み、「おやすみ」と優しく囁いてくれたこともあった。


けれど、それはほんの一瞬の出来事だった。


駿が成長するにつれて、母親の態度は少しずつ冷たくなっていった。


「もう大きいんだから、甘えんな」


「うるさい、黙ってろ」


「いちいち構ってらんないの」


その言葉は次第に、もっと鋭いものへと変わっていった。


「お前なんか産まなきゃよかった」


「気持ち悪いんだよ」


最初にその言葉を聞いたとき、駿は何も理解できなかった。

ただ、胸の奥がギュッと締めつけられるような感覚だけが残った。


母親はいつも疲れていた。

夜は水商売の仕事に出かけ、昼はずっと寝ていた。

起きているときは機嫌が悪く、駿が話しかけると舌打ちをして煙草に火をつける。




家の中は、いつも散らかっていた。


リビングのテーブルには、飲みかけの缶チューハイと使い捨てのライター。

台所には、食べかけのインスタント食品の容器が積み上がっている。

駿のための食事は、せいぜいコンビニのおにぎりか、スーパーの半額弁当だった。

たまに「好きなもの買っといて」と千円札を渡されることもあったが、それが何日分の食費なのかは分からなかった。


「腹減った」なんて言えなかった。

母親の機嫌を損ねたら、また「うるさい、黙ってろ」と言われるかもしれない。

だから、駿はただ静かに息を殺して、ひとりで眠るのを待った。


母親が家にいる時間は、なるべく部屋の隅でじっとしていた。


存在を消すように。

物音を立てずに。


まるで、自分が本当に「異物」であるかのように。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る