脱走しない棒人間
@wlm6223
第1話
瞼を瞬いてみると真っ黒な背景の中にいくつかの明滅する淡い光の群れが現れた。そのの光はきらめくほどの光量ではなく、ELほどの明るさで、特に目に刺さるような刺激ではなかった。
緑色の楕円がぼやけて見えたかと思うと、群青のモアレになった。
形は毎秒ごとに変化し、あるときは工場地帯のパイプのようになることもあれば、陋屋に見られるような狭くて不潔な路地にもなった。光は不定形で様々に変化していった。人工物が見えたが今度は群生する針葉樹になった。おそらく今まで見たことのある風景の断片が視覚野を刺激しているのだろう。
見えるもの全てに共通しているのは、影がなく、その表面がのっぺりとしていることだった。これは実像ではない。そう断言出来た。
実のところ、これらを観察するのはいつものことなので、特に新しい感慨を受けることはなかった。
見たこともない風景なのだが、いつかどこかで見合った風景だった。
その記憶を辿ってみたが、思い当たる節はない。しかし、ここへ来るのは初めてではない。ひょっとするとデジャヴかもしれない。 その光景に人間は出てこなかった。
この無人の明滅する光の光景に見とれてしまった。これらは夢とは違う。夢は何かしらの実像を結ぶものだが、いま見たものはその実像がない。砂に書いた画のように現れては消え、いや、様々にその姿態を変え、現前に現れては消えてゆくのだ。
思い切って目を開けることにした。
白い天井が見えた。まだ視界がぼやけている。
天井だけではない。自分が寝ているベッドも見えた。ベッドも純白だった。
ベッドはまたもや白い間仕切りで区分けされていた。
とにかく白い。白は清潔感を表すのに最適だが、その白は清潔感というより漂白された消毒液くさい除菌の済んだ構築物に見えた。 それからの数分間は何事もなかった。
いや、何も出来なかった。
特に拘束具のようなものはなかったし、身体の自由は利いた。が、身動きするのは得策には思えなかった。
ここはどこだろう?
もし自宅の寝室であるならいつものベッドには青い毛布がある筈だ。が、それもない。サイドデスクにスマホと眼鏡を置いてある筈だがそれらもない。
第一、自宅の寝室であるなら白いカーテンで仕切られていることもない。
消毒液くさい清潔感の中、じっとしているのが最も自分の現状を把握するのに一番に思えた。
というのも、一日が何も変化する事なく過ぎてゆくなんて事はあり得ないからだ。
ひたすら変化を待った。体は起きていた。だが、まだ頭が睡眠を欲しているようで、軽く重みを感じた。頭というより、目の奥が重たかった。何かを見詰めすぎた後のように後頭部に重みを感じた。
「おはようございます。朝食です」
誰かの声がした。
カーテンが開いた。
そこにはピンクの看護服を着た看護師がいた。まだ二十台中頃と見えるその女性はてきぱきと配膳を済ませた。
「あの……」
「なんでしょう?」
「今日は何日ですか」
「一月の十五日です」
「何年の?」
「二〇二三年ですが」
「私がここにいるのは?」
「覚えていらっしゃらないんですか」
「お恥ずかしながら」
「一昨日、喘息の発作で入院されたんです。血液酸素濃度が異常に低くなっていたんですよ」
「そうでしたか」
「ちゃんと介添人の方もいらして誓約書にサインもされていますよ」
身に覚えがない。
「昨日もちゃんとされてたじゃないですか」
身に覚えがない。
「さ、朝食ですよ」
これは分かる。
配膳されたのは粗末な朝食だった。
取り敢えず入院中ということは分かった。だが、今朝までの記憶がない。
最も新しい記憶を辿ってみると、大体こんな感じだった。
おれはごく一般的なサラリーマンで喘息持ちだ。
仕事中、ちょっと体調不良を感じて産業医のところに行ってみた。
病院の清潔感はどうにも肌に合わない。消毒された清潔感と言おうか、真綿に湿らせた薬品の匂いと言おうか、そういった感じだった。
実のところ、産業医のところへ来るのはこれが初めてではない。むしろ、月に一度は来ていた。何故かといえば、しょっちゅう体調の悪化を感じていたからだ。
産業医とも顔見知りになり、診察室に入るときは「毎度どーもー」などという間柄になっていた。
その日(一昨日?)、産業医はいつも通り体温を測り、胸に聴診器を当てて身体の異常を検査した。
産業医は小首を傾げた。
産業医は私の左手の人差し指にクリップ式の計測器を挟んで何かを計測した。
「血中酸素濃度が七十五パーセントしかない! そのまま座っていなさい!」
産業医が絶叫したのは覚えている。
「いや、全然大丈夫っすよ。ほら」
と私は立ったり座ったりを繰り返した。
そこまでは覚えていた。
その時から現在までの記憶がない。
記憶がなくても記録があるらしく、私はこの病院に入院させられたようだ。
間仕切りの白いカーテンが開けられた。
そこは六人部屋の病室で、東側に窓があり、その正反対の、出入り口に最も近いベッドに私は寝かされていた。
看護師が「朝食です」と言われなければ、今が朝だとは分からなかった。
朝日は全てのものを洗浄する。真新しい風、真新しい陽、真新しい一日――私の身の回りにも新しい清潔な風が吹いてきた。
だが、どうにも病室は辛気くさい。同室の患者たちは老人ばかりで生を諦めたかのように見えた。
私はこんな所に長居するもんじゃない、と思った。
人間というのは不思議なもので、周囲の環境に適合するように出来上がっている。
即ち、私も立派な患者様になったわけだ。
だがそれがどうしても許せない。同室の死を待つ老人たちに辟易したのだ。
こんな所に居着いてたまるか。
朝食を済ますとベッドを出て病院内を抜け出すことにした。
ナースステーションを通り過ぎてエレベータを呼んだ。ここは五階だった。
一階へ降りるとここは総合病院だというのが分かった。内科あり外科あり耳鼻科あり眼科あり心療内科あり。
出入り口近くに会計のカウンターと薬剤所があった。
広い待合室は老人たちでぎゅう詰めだった。
なかには点滴をぶら下げたパジャマ姿の男もいた。
五階と一階ではまるで世界が違うらしく、一階は活気に満ちあふれていた。
総合病院だけあって、老人が多い。
朝から病人にたむろするのは老人たちの悪い癖だ。
病院は治療のために実社会から隔絶された閉鎖空間だ。
だから老人たちは用もないのに同じ境遇の者――孤独で暇で、話し相手が欲しい――を求めて病院に居座っているのだ。
病院には患者の日々の仕事も生活もない。
こんな離れ小島みたいなところに閉じ込められてたまるか。そう思った。
病院の一階を抜けて表へ出てみた。
振り返ると「九段坂総合病院」とあった。かなり老朽化したビルだった。
九段下にいたのか。それなら土地鑑もある。
が、この道路がどこの道なのか分からない。
病院へ救急搬送されるとそうなるのだが、自分が現在どこの場所にいるのか分からなくなるのだ。
さて、ここはどこだ?
当てずっぽうに病院前の道を右に進んでみた。
車道は四車線。その両脇に歩道がある。人通りは少ない。これはまだ午前中の朝食どきで、誰も通勤・通学するには早かったせいだろう。
その道を何の手掛かりもなく歩いて行った。
道の突き当たりに来た。
そこには靖國神社があった。
お、ここは正に九段下じゃないか。と思った。ということは、この道は靖国通りで右にいけば九段下、左に行けば市ヶ谷という事になる。自分が今どこにいるのかが判明して私は急に安心した。どことも分からぬ場所の、どこかの病院に寝かせ付けられているのは、医学的には正しいのだろうが、入院している本人にとっては、大変不安になるものなのだ。
右にも左にも用はない。いや、いまの私には用事がない。
というわけで直進し、靖國神社に入ってみた。
朝の清浄な空気があった。
病室で嗅いだ消毒液の清浄さとは明らかに違っていた。
うん。ここは生きている。そう感じた。
靖國神社の参道をゆっくり歩いていくと突き当たりに本殿があった。右手には神楽の舞台があった。舞台は閉められていたが、本殿の方は開かれていた。
本殿は大きく立派な設えで、私一人の参拝には荘厳過ぎた。
朝早くからということもあり、参拝客は私一人しかいなかった。
一人にしてはあまりに広すぎる。それに立派すぎる。
何の習性なのだろうか、私は本殿に賽銭を投げ、二礼二拍一礼した。これで合っているかどうか分からなかったが、確かこれでいいんだよな、と思った。
日本人でありながら神社の参拝方法もあやふやなのだから、ひょっとすると、自分はやはり何かしらの病気なのかもしれない、と思った。
最も、病院から抜け出して来たのだから病人には間違いないのだが、記憶や意識、今まで培ってきた礼儀作法や習慣までも消え去るほどの大病ではないだろうと、判断した。
即ち、ちゃんと歩ける。財布を入れた鞄も持っている。ちゃんと信号を守れる。
これだけあれば日常茶飯な事のほぼ全ては解決できるのだ。
靖國神社の中には正式名称は知らないが、土産物屋がある。お守りを売っていたり、護摩符を売っていたりする売店だ。
その土産物屋は早朝だというのに、開店していた。
私は見るでもなくその売店を冷やかし、立ち去ろうとしたが、「武運長久」のお守りを見付けてしまった。
買うしかない。
六百円を支払って「武運長久」お守り一個を購入した。
靖國神社の武運長久なのだから、よっぽど効果があるか、あるいは全く無能なのかのどちらかなのだろうと思った。
しかし、今の私には心強かった。なんせ「武運長久」だ。私は人生を死に向かうまでの闘いだ、と捉えていたので丁度都合が良かったのだ。
いかにも厨二病的な考えなのだが、たかが体力の落ちたサラリーマンとはいえ、毎日が闘いの連続なのだ。
私の場合、PCの操作と会議が仕事の中心だった。今どきのサラリーマンはそう言う人も多いだろう。
PCで各種報連相を行い(私の場合は時々コーディングもする)、会議で退屈な時間を過ごす。これで大体定時過ぎの午後七時頃に終業するのが日課だ。
会議は私にとって良い息抜きだった。
もちろん発言などしない。
小さければ五人ほど、多ければ五十人ほどのを会議室に閉じ込められ、ああだこうだとプレゼンを受ける。その後質疑応答になるのだが、会議の主催者は既に根回し済みなのでこれといった討論はない。
ではなぜ会議などやるのだ。
答えは簡単だ。出席者全員の了承を得たいがためだ。
会議が終わると一仕事終えた気になる同僚もいるのだが、私の場合は長い休憩時間が終わった。そうとしか思えなかった。
こんな生活を送ってきたから、私の替わりはいくらでもいる。いや、私の替わりがいなくても会社組織は何の滞りなく運営出来る。 駄目サラリーマンと言われればそれまでだが、会社組織は実のところ小さな複雑系なのだ。
即ち、多少の変化や欠損があっても組織は何事もなかったように日々の活動を続けることが出来るのだ。
森林の木が数本刈り取られたぐらいでは森林はビクともしない。それと同じ理屈だ。
逆にバタフライ効果というものもあるが、私のサラリーマン生活ではそれにお目にかかったことがない。
そんなわけで私はこの突然訪れた休暇を楽しむことにした。
靖國神社はかなり大きい。
散策するにも特に見所がない訳ではないが、こうして自分の足で歩いてみると、この都心の真ん真ん中でこれだけの敷地を維持するのは大変だろうなあ、などと要らぬお世話を考えたりする。
時刻はまだ午前九時をちょっとまわっただけだ。世間の朝はこれから始まる。
私は靖國神社の広い参道を下り、九段坂の交差点へ出た。
ここまで来ると人通りもそこそこある。
私はその行き違う人々を観察したが、どうもみな棒人間にしか見えなかった。
確かに顔があり、上着を来て、穿くものも穿いていた。目にはそう映るのだが頭にはその姿は棒人間の黒い線とただ丸い頭しか認識できなかった。
神経のどこかに異常があるのかもしれない。
そうも考えた。しかし見えたものと頭の中で結ばれた像とが不一致するのはよくあることなので気にしないでおいた。
この現象に名前がついているかどうか知らないが、これは誰にもあることらしい。
例えば通勤・通学の満員電車の中で、同席した人の人相や出で立ちまで暗記している人はそう多くはいないだろう。
これは聞いた話なので真偽は不明なのだが電車の中では乗客たちは互いに人間である、と認識していないらしい。というのも、満員電車に耐えられるのはその意識のお陰で、「ただ物に取り囲まれているだけ」と、脳が認識しているためだそうだ。
普段であれば確かにプライベートスペースを侵されてしまっては心理的負担が大きい。だが満員電車は別だ。個々人は互いに他人(物)であり、目的地の駅に着いてしまえばはいサヨナラだ。これは乗客たちの心理的な自己防衛でもあるのだそうだ。
私は棒人間であることを好んだ。
誰からも干渉されず、誰にも認識されていない。大勢の中のごく一粒でいるのが心地よかった。
これは都会に住む者なら誰しも経験することなのだが、誰しも他人に無関係なのである。それでいて東京という複雑系の中の一員でもある。その細胞の一つであることを求められるのも都市生活の様式なのだ。
私は地下にある都営新宿線の九段下駅へと進んだ。
今時では珍しくsuicaやPASMOではなく硬貨で切符を買った。
ホームへ降りると棒人間他たちが電車を待っていた。
程なくして本八幡行きの鈍行が来た。
棒人間たちは降車する人がいなくなると新宿線へ乗り込んだ。私もそうした。
車内は静寂そのものだった。
棒人間たちはあるいはシートに座り、あるいは把手に掴まって立っていた。
殆どの棒人間たちはスマホをいじくっていた。
この習慣にも、もう慣れた。
現代人はスマホが大好きだ。何を見ているのかは知らないが、隙あらば、あるいは隙がなくてもスマホをいじくっている。
この数センチ角の板は我々の生活をすっかり変えてしまった。
かくいう私もスマホを持っており、常に携帯していた。「スマートフォン」というぐらいだから本来は電話機の筈なのだが、利用目的はネットに繋ぐかゲームで遊ぶのが用途として多いらしい。特に電車内では「通話しない」という暗黙のルールがあるので(これは東京に限った話かもしれないが)誰もが無言でスマホを操作していた。
考えてみればこれは奇跡の光景だ。
この数十年でコンピュータは異常なほど進化を遂げた。
コンピュータの最初期のものは部屋一杯になるほどの大きさだったらしい。それでもメモリも僅かで処理能力も現代のものに比べれば大したものではなかったようだ。
これほどの高性能のスマホが普及しても、やっていることは娯楽に集中しているらしかった。
数十年前まではごく一部の人間だけに許されたその技能は、今やその他大勢の棒人間たちの暇つぶしの道具になっていた。
やろうと思えばやれるのだろうが、人工衛星の周回軌道の計算や、元素解析の手助けに使う者はいない。
かつて高尚だったコンピュータの利用も、いまは棒人間の玩具に堕してしまった。
私はそれが情けなくも思ったが、棒人間たちのスマホの購買意欲がコンピュータの発展に大きく寄与したのは間違いなく事実だ。
即ち、もっと安く、もっと高性能で、もっと小型で。
これから先、この分野は果てしなく進化していくのだろう。しかし、本当に現状の進化方法でよいのだろうか? スマホの進化は所詮昔からある電気を使ったノイマン型コンピュータである。
いつしかそれも旧式になる日が来るのだろう。そのシンギュラリティーが来るのはいつなのか予測できないが、いずれその時が来る。
現代では宇宙旅行で用いられるのは化石燃料を使った大型ロケットである。
全長数十メートル。乗員は三四人。それが現代の科学の常識だ。
その常識もあらぬ技術の発展でそもそもの原理が根底から覆される時がいずれ来るだろう。
その時、棒人間たちは嬉々として宇宙へ旅立って行くのだ。
そのロケットがどういう仕組みで大気圏を脱出し、人間の居住に適した環境を保持出来ているのかも知らずに。
棒人間でいることはたやすく安心を得るのには最適だ。
こうして地下鉄の中にいると、胎内にいるかのような錯覚を起こすことがある。
ほどよい振動。ほどよい暖かさ。ほどよい灯り。それらは目的地という降車駅まで自動的に走ってくれる産道なのだ。
電車の出入り口の上には液晶パネルが二枚ある。
液晶パネルは次の停車駅のを示していた。あるときは日本語、あるときは英語、あるときは朝鮮語だった。
私が思うに日本の公用語である日本語表記は必須であり、英語は海外からの観光客向けなのは理解出来る。が、朝鮮語を表記する必要がるのか? こういった端々に見える「似非国際化」がどうも気になる。
遠い未来、日本という国が滅びてその地に「東朝鮮」が建国されてしまうではないかと思ってしまうのだ。
考えすぎか。
私は棒人間だ。考えることは許されているがその考えを流布する許可も行動力もない。
私のような棒人間の個人的な感慨を世に流布する手段はある。SNSだ。だがこれは諸刃の剣で、簡単に世界中に(といっても日本語で書いてしまうので日本限定なのだが)発言出来てしまうのだが、その言論の自由にはそれ相応の責任が発生する。まあ、当然といえば当然なのだがその当然を理解せずにSNSを活用する棒人間が多いような気がするのだ。
一時の承認欲求を満たすために過激が発言をしても反感を買うだけで何の益にもならない。
ここが言論の場としてマスコミとSNSの決定的な差であろう。
もしある棒人間が本を出版したとしよう。そうすればその文責は著者の棒人間と出版社に存ずる。出版前には出版社のチェックが入るのだ。しかしSNSの場合はその個人が全責任を負うことになる。
その責任の重さを日本では教育していない。
のみならず個人の考えを公にすることを日本の学校教育では教えていない。
となると、必然、声の大きい者が言論の場で出しゃばってくることになる。特に注意すべきはその声の大きい者はちゃんとスーツを来て、髪型を整え、良い姿勢で神妙な顔つきで大声を張り上げるのだ。人間の印象は概ねその外見で決定される。何も考えていない(考えることの出来ない)棒人間たちはまんまとその大声に扇動されてしまうのだ。
現代ではマスコミは洗脳装置として機能している。それを嫌ってネットに別の言論を求める者もいるが、所詮、同じ穴の狢だということに気づき始める。そして当たり障りのない言葉をネットに投稿し続ける。それで承認欲求は満たされてしまう。
要するに棒人間たちは自分で考え、自分で行動出来ないのだ。
だがそのぬるま湯に浸かった生活は安穏としていて居心地がいいのだ。
だから棒人間たちはせっせとスマホでSNSにアクセスしている。
もう一つネットの欠点を上げるとすれば、既存のマスコミの垂れ流し情報を真に受けているのではなく、自分で探して見付けたニュースであるかのように錯覚してしまう点だ。
これは自分でニュース情報を取捨選択して最も的確な情報にアクセスしている気分になっている、ということだ。
大手ポータルサイトを例にとろう。
そこにはいくつもの時事ネタがあるのだが、そこへ掲載されるのは「掲載料」を払ったものばかりなのだ。これではただの宣伝活動と何ら変わりはない。
翻ってSNSは根拠のない噂と雑談が占めている。
確かにSNSはジャーナリストにとって最後の武器になる可能性を秘めているが、その他大勢の棒人間にとってはただの落書きとそう変わりはしない。ネットに流れる膨大な情報の津波の中ではそういった情報も土砂と一緒に遙か彼方へ流されてしまうのだ。
それでも棒人間たちはスマホを手放そうとはしない。ぬるま湯はとてもとても快いからだ。
私の乗った地下鉄にもスマホを持った棒人間たちが大勢いる。
棒人間たちはそれでいいのだ。その暖かで柔らかい毛布の中に包まれているのが快感なのだ。その毛布の外のことなど気にもしない。いや、知らないのだ。知ろうともしないのだ。だから世界がどう回っていようと関心がないのだ。無関心こそ悪であることに気づきすらせずに。
棒人間たちは駅に着く度にある者は降車し、ある者は乗車していく。そして散り散りに去って行く。
それでいいのだ。世間の波風に浚われず一日を始め、そして終わるのだ。
これこそが日常である。これこそが規範なのである。
私もまた自分が棒人間であることを知っている。だからどうした。何が悪い? 大事なことは「頭の良い人」が替わりに考えてくれる。こんな便利な社会はそうそうあるもんじゃない。
だがしかし、そんな社会で本当に上手く回っているのだろうか? この地下鉄のように。
電車は偶発的な事故がしばしば起こる。
人身事故だったり天候のせいだったり、どんなに予防策をしても事故は必ず発生してしまう。
電車であれば数十分でその「事後処理」は終わるのだが、社会で「事故」が起こったときはどうなる? 誰が後始末をしてどう処理するのか? 棒人間にはそれが見えていない。
「きっと立派な誰かが対処してくれるんでしょ」
それが棒人間の答えだ。
その「誰か」という人物を本当に信頼していいのだろうか? 社会は善人もいれば悪人もいる。その事故に乗じて悪事を働く者だっているのだ。
日本は、少なくとも東京二十三区は性善説で出来上がっている。殆どの棒人間は善人なのだが、ごく少数、だが一定数の悪人はいる。その対策を「誰か」に任せておくことに不安を感じないのだ。
世間はちゃんと回っていく。多少の瑕疵はあっても、それは複雑系の中に吸収されていく。それに頭の良い「誰か」の手によってか対処されていく――そういう考えが棒人間たちの共通認識なのだ。
地下鉄は岩本町駅に着いた。
私は電車から降り、階段を上って駅を出た。
昭和通りで神田川を超えた。神田川は濁った深緑色をしており、水辺独特の腐臭を放っていた。
このまま直進すればJR秋葉原駅だ。
が、私はその道を外れて電気街へと向かった。
秋葉原は昔から電気街として知られているが、今はもう世界屈指の萌え萌えタウンになっていた。
秋葉原駅西口に立つと、極彩色の看板に彩られたビルが建ち並び、かつての電気街の賑わいは残っていたが、客層は大いに変化していたい。
駅の構内には観光客と思われる五人の白人の棒人間がたむろしていた。
辺りを見回すと、平日の昼間だというのに棒人間たちがあちこちにふらついていた。
私は駅に隣接するラジオストアに足を運んだ。
この狭苦しい回廊には一坪程度しかない電子部品のパーツ屋が犇めき合っている。が、それはもう昔の話で、ラジオストアの半分は閉鎖されてしまった。
こういうパーツや工具を扱う店(東急ハンズなども)を見ると、自分の裡からどういったわけか製作意欲が湧いてくるのだ。
さて、何を作ろうか。
手始めに簡単なところでヘッドフォンアンプにしよう。
1Wも取れれば十分なので贅沢にもA級にしよう。鈍足だが2N3055を出力段にして、ドライブ段は2SC2240とA970のド定番に頑張ってもらおう。どうせ自分専用の一品物だから音声パスのコンデンサにはちゃんとマイカを使おう……次第に回路の構成が頭の中に組み上がってきた。
あとはパーツを集めるだけだ。細かい抵抗などはまとめて百本入りを買って済ませる積もりだ。
手近にあったパーツ屋でボリウムを探した。ボリウムも音決めには結構なキーパーツだ。
店の隅々までを見渡してボリウムを探したが、低品質の激安品しか見付からなかった。
私は店の親父さんに訊いてみた。
「ヴァイオレットのボリウムありませんか」
「随分前に廃番になったよ」
意外だった。価格もそこそこで音が良いがガリが出やすいので有名だったのだが、まさかディスコンとは。
「え? じゃあ、東京光音の……なんて言いましたっけ? 緑色のやつ」
「ああ、それも廃番だよ。青いのならあるけど、うちじゃ取り扱ってないなあ」
「じゃあ、あるのはこれだけ?」
私はその激安品を指さした。
「それだけになっちゃうねえ。お客さん、随分古いの知ってるねえ」
もう秋葉原ではまともなボリウムすら買えなくなっていたのか。
あとはCTSという手もあるが、あれはどちらかと言えば楽器用だ。Allen Bradleyでもいいが、そこまで高価なものは使いたくない。MILスペック準拠は高価なのだ。
私はさっさと諦めてラジオデパートへ向かった。
オヤイデの斜め前にラジオデパートはあるのだが、どうも外観からして様子がおかしい。廃ビルになってしまったかのような、妙な閉塞感があるのだ。
ラジオデパートに入るのに一瞬躊躇したが構わず入ってみた。
嫌な予感は当たっていた。
どの店もシャッターを閉じていたのだ。
ビル中央のエスカレーターで地下階へ行くと、ノグチトランスが無くなっていた! その替わりに真空管屋に衣替えしていた。
ケースの奥澤も閉まっており、どこでケースを買えばよいのか、どこでトランスを買えばよいのか分からないじゃないか!
この時点で私はヘッドフォンアンプ製作を断念した。
断念したとはいえ、かつては秋葉原のランドマークといってよかったラジオデパート内を散策することにした。
悪い予感はますます当たっていた。殆どの店がシャッターを閉じていた。海神無線も閉店となっており、これじゃまともなCR類が買えない! トモカも無い! それ以前にビル内の人の気配がない! 秋葉原はもう電子パーツの街ではなくなってしまっていたのだ。
そんなことはなんとなく予想していたが、現前にそれが立ち現れると、かなり落ち込んだ。もう秋葉原は電気街ではないのだ。
失意のうちにラジオデパートを出ると、もうそこは萌え萌えタウンのまっただ中だった。何だか分からんアニメ画の看板が立ち並び、PCパーツの販売店が並んでいた。棒人間たちがあちこちを闊歩していた。
ああ、もうここにおれの居場所はない。
最後の砦として秋月電子のある通りに行ってみた。
千石電商があった! しかし昔の小汚い一階のみではなく、昔あった場所の斜め向かいに店舗を構えていた。恐る恐る店内に入ると小綺麗になっていた(たかが千石電商のくせに!)。店内は殆どギターパーツ屋と化しており、昔の面影は、その品揃えからも察することは出来なかった。
そそくさと千石電商を後にすると秋月電子へ向かった。
秋月電子も小綺麗になっている! 私はすっかり浦島太郎になっていたのだ。しかし棒人間たちがお目当てのパーツに群がっている光景は昔のままだった。
お目当ての2N3055はあった。しかし定番の東芝製ではなく、聞いたこともないブランドのセカンドソース品だった。
東芝が半導体製造から撤退して大分経ったらしい。私はそんなことも知らなかったのだ。
で、最後の砦、鈴商へ向かうが店舗ごと無くなっていた。
秋月電子のある狭い通りに行けば、大体のパーツが入手できたのは、もう遠い昔の話になってしまったのだ。
この「最後の砦」と思っていた通りにもチェーン店の喫茶店やいかがわしい飲食店が立ち並んでいた。
時代が変わったのだよ、と言われればそれまでだが、もう電子パーツは実店舗で買う時代ではないのだ。しかしAliExpressで出所不明の怪しいパーツを買う気にはなれない。どうも海外のネット通販が信用出来ないのだ。
それに加え、私は昨今の「何でもスマホで」という風潮が嫌いなのだ。私はおサイフケータイなんてもっての外と思っている口なのだ。
なんでもスマホに集約すると、確かに便利だ。しかし、不慮の停電になったらどうなる? スマホを紛失したらどうなる? 故障したらどうなる? そういった不安を覚えるのだ。
こういう考え方は確かにもう古いのは承知している。しかし便利になる一方、もし何らかの事情によりスマホが使えなくなってしまったら何も出来なくなってしまうのが恐ろしいのだ。
便利なのは結構だ。しかしその分、何かあったときの損失も大きくなるのだ。その点を棒人間たちはどう捉えているのだろうか? おそらく何も考えていないのであろう。きっと「頭の良い人たち」が解決してくれる。そう考えているに違いない。
私はヘッドフォンアンプの製作を諦めて、昌平橋通りを末広町方面へと歩いて行った。
この通りも昔の様相を残しておらず、かつては無味乾燥なオフィスビルが建ち並んでいたのだが、いまは脂っこいラーメン屋やメイドカフェが目についた。その光景に私は幻惑した。
どこか足下の地に着かない、眩暈とも平衡感覚の揺れともつかない視界の揺らめきを感じた。
「こんにちはー。メイドカフェです!」
確かに私はその声を聞いて、メイド服姿の少女からチラシを一枚受け取った。チラシを見ても何が書いてあるのか分からない。揺れる視界の中で文字が踊って見えるのだ。
私は少女の側をすっと歩き去り、末広町まで出た。
もうここで秋葉原はお終いだ。
蔵前通りを右折し、中央通りへ向かった。
左側の湯島辺は古くからの夜の遊興街だった筈で、昔は若旦那の遊び場所として栄えていたのだが、今はもう中国人の客引きが跋扈するどうしようもない街になっていた。
まあ、昼間の歓楽街は前の晩に出たゴミが山積しており、仕事終わりの疲れが街に滲み出していた。ライトの点かない看板は見るにも貧相で、夜に見る光景とは対蹠的だった。
陽の明かりの下で見る湯島は疲弊していた。
私は湯島の細い路地を縫うように歩いて行った。
細い路地にもバーやキャバクラがあり、その昼間の顔は陽を受けて色褪せていた。
夜は多少の顔色の悪さも隠してくれる。人工のライトが化粧を加えてくれる。夜闇に照らされた建物や棒人間たちは本当の姿形をその化粧によって蠱惑的に見せてくれる。しかしその本質は夜の狂躁を無理にでも作り上げるための、ほんの仮の姿でしかない。
夜の街の本質が昼間にあるのか、夜にあるのか、私は逡巡した。
コンクリートの建物、車道のアスファルト、その上を走る自動車たち。東京二十三区の原風景がそこにあった。車たちは川を泳ぐ魚のように走って行った。
白、黒、赤、青……車たちはその色を日光に映えながらきちんと信号を守って走って行く。ちょっとした川の堰に佇む小魚だった。 夜の店の看板は陽の元に原色を曝け出し、その薄汚れた姿態を見せていた。
昼間は全てが明らかになり、夜は人工的に作られた物が、見せたい物だけが光り輝く。
歓楽街ではどこもそうなのだが、ここ湯島の辺りは特にその夜と昼間とのギャップが大きいように見えた。
平日の昼間だというのに人混みが絶えない。
棒人間たちはどこから来てどこへ向かうのか分からないが、それぞれの目的地へと四散していった。
私もその流れに乗り、蔵前通りを西に向かった。
湯島天満宮があった。
ここは繁華な湯島の歓楽街とはうって変わって静謐が辺りを占めていた。
湯島天神は言わずと知れた学問の神が奉られている。確か今は世間では受験シーズンだ。
きっと今頃は絵馬が沢山あるに違いない。
見るともなく絵馬掛けを見ると、溢れんばかりの「合格祈願」の絵馬がぶら下がっていた。
その絵馬の一つ一つを見ていった。
「合格祈願」と書いておきながら、その隣にアニメ画の女の子が描かれている物もあれば、絵馬全体にびっしりと文字が書き込まれたものもあった。
これだけの絵馬を検分しなければいけないのだから菅原道真公も大変だなあ、と要らぬお世話を焼いた。
社内には雀、メジロ、ドバトがあちこちにいた。キジバトではなくドバトがいる辺り、この辺は東京二十三区の東側なんだんなあと思わせた。
私は社殿の周りを徘徊していると、幾人もの受験生と思われる若者が絵馬を掛ける場所を探しているを見付けた。
「あんちゃん、ここならまだ絵馬、掛けられるよ」
「あ……、ありがとうございます」
「受験生だよね。どこ受けんの?」
「東京理科大です」
「理科大かあ。頑張ってね」
「……はい……」
若者は私が示した場所に絵馬を掛けてそそくさと去ってしまった。
若者にしてみれば不審なおじさんに声を掛けられたのだから、その場から一目散に逃げ出すのが必然だ、と今になって思った。
加えて「頑張ってね」というのは近頃ではあまり言わないらしい。
というのも、頑張っている人にさらに「頑張って」というのは失礼にあたるらしいのだ。
言われた側からすれば「既に頑張っている。これ以上どうすればいいんだ」と、解釈をするらしい。
こういった言葉の端々にもジェネレーションギャップがあることを、若者が去ってから思い出した。
そこかしこにいる受験生と思われる若者たちも、今が頑張りどきなのだ。この数日で自分の人生の節目となる受験が待っているのだ。
考えてみれば、受験というのは人生で初めて競争社会に触れる機会なのかもしれない。 ということは、この湯島天神を訪れる受験生たちは人生の初心者ということか。
その初心者たちが神頼みというのはいかがなものかと思うが、神仏にでも縋り付きたくなるような気持ちは理解出来る。かくいう私も、ちょうど三十年前には受験生だったので、どこだか忘れたが、神社へ絵馬を奉納した覚えがある。
あれは一体何だったんだろうか?
私にはこれといった信仰心もないし、神頼みに縋るような情けない心情も持ち合わせていない。
だが、確かに過去に絵馬を奉納したのは事実だ。
その当時のことを思い出そうとしたが、それはもう記憶の奥底に沈んでしまい、何故どうしてそうしたのか思い出すことが出来ない。
こういった場合、何か自分に不都合があって記憶から消し去りたい事実があると、その不都合を記憶から消す心理が働くのだが、私は浪人せずに進学したし、第一志望校にも入学できた。
ただの験担ぎだったのか?
たかだか三十年前のことがもう大昔なのか?
私はその自分の記憶力に辟易した。
それではいつまでの記憶が明瞭に思い出せるか……。
病院で目覚めた以前のことがはっきりしない。一昨日の産業医での診察のことは覚えている。
だが、その前日となると……
記憶がそもそも曖昧なものだとは聞いて知っていたが、それが我が身になるとどうにも解せない。私はまだ四十五歳だ。自分ではまだ耄碌するほどの年齢ではないと考えている。しかし、自分の記憶の断片を繋ぎ合わせてみても、どうにも過去の事実が上手く噛み合わない。
サラリーマンという仕事柄、毎日同じような日常を過ごしているのだが、どうも今週と先週の違いが、今月と先月の違いが、今年と昨年の記憶が分断して繋がり合い、どの事実がいつに起きたことなのかがはっきりしない。
変化の少ない日常を送っている人ほど昔の記憶を鮮明に覚えている、と聞いたことがあるが、私の場合は自分の身に起こった事実と日付とが紐付いていないことが分かった。
まずいな。このままじゃ。
今の自分を形作っているのは過去の経験や事実、周囲の人間関係によるものだ。それがたった一人、病院を抜け出してみて、それらすべてが混濁している状態なのに気付いた。
そう気付けるだけ、まだましかな。
私はそうも考えた。これはどうにかしてその混沌を合理的に紐付けなければなるまい。 私はスマホを鞄から取り出して自分のスケジュールを確認した。
うん。何も問題ない。平常運転だ。
だがしかし、私は今、神社にいる。
そのことに違和感を覚えたが気にしないことにした。
というのも、現に私はいま一人でこの湯島天神におり、まだ冬の寒さの中で震えながらぽつねんとしている。
私は本殿に向かった。ドバトの群れが一斉に飛び立った。
私は本殿に二礼二拍一礼し、賽銭箱に五円玉を放り込み、「過去の自分との縁結びをお願いします」と祈願した。
そこまですると、そう言えば今日、神社へ来るのは二回目だな、とふと思い起こした。
今日の記憶はまだある。ちゃんと連続して今日一日を過ごせている。
そのことに少し安堵した。
空を見上げると曇天に変わっていた。
寒空の中を鳩の群れが飛んでいた。鳩たちがどこへ向かうのかは知れないが、北東を目指して飛んでいた。おそらく上野公園へ向かうのだろう。
私は湯島天神を後にし、行く当てもなく歩き出した。
そうはいっても本当に行く当てもない訳ではない。
せっかく湯島へ来たのだから若旦那気取りでシンスケへ寄って熱燗で湯豆腐を、とも思ったが時間もまだ早かったし、何よりまだ開店には早すぎた。
私はそのまま昭和通りを横切ってアメ横まで歩いた。その間に何人もの棒人間たちとすれ違い、何匹もの魚の車に追い越された。
あまり人の事を言えた義理ではないが、みな一体どこへ向かって行くのだろうか? 私には明白な目的地が無い。それにも関わらず、こうして平日の昼日中に一人の棒人間として誰の目にも触れずこうしていっぱしの社会人面をして闊歩している。どの棒人間も私を不審な目で見たり、目を合わせることなく過ぎ去って行く。
私にはそれが不思議でならなかった。
私のような病院から抜け出してきた者、すなわち「患者」が街中にいても誰も咎めないのだ。
本来なら私は病室のベッドの上にいるべきであるのに(そう誓約したと看護師が言っていたのだ)だれも私を患者として、実社会から一時隔離して治療が必要な人間にも拘わらず、だれも一一〇番も一一九番もしない。
棒人間たちよ。もし私が犯罪者であってもそうするのか?
どうやら私は外見上、患者でも犯罪者にも映らないらしい。それはそれで良かった。即ち、それは私も棒人間であることの証左だった。
私はアスファルトの歩道を何食わぬ顔で進んでいった。
昭和通りに出た。
私の政治信条上、上野近辺では昭和通りより東側へは行かないことにしているのだが、今日は特別だ。何が特別かというと、強制入院の憂き目に遭って大人しくベッドの上に寝てなどいられるか。今日に限っては普段のサラリーマン生活を抜け出てちょっと冒険してもいい日にしたのだ。
いつものことなのだろうが、アメ横は極彩色に彩られていた。歩道は棒人間たちで賑わっていた。魚屋あり、乾物屋あり、洋服屋あり、飲食店あり。およそ生活に必要な物は大体が揃っていた。秋葉原のパーツ屋ほどではないが、どの店も小さくみっしりと通りに詰め込まれており、男たちが呼び込みのダミ声を響かせていた。男たちは棒人間ではなかった。ちゃんと顔を持ち、肉体をもち、その表情には自分たちの糧を得ようとする生きた人間の姿があった。店先に並べられた商品も色鮮やかで光り輝いていた。
いや、輝いていたのは陳列された商品たちだけではない。商品棚も、その売り子たちも、しかも客の棒人間たちも鮮烈な光を放っていた。その輝きがどこから来るのか判別できなかったが、ここには生きた人間の熱気があり、情熱があり、躍動があった。
私は棒人間の人の流れに乗って御徒町方面へとゆっくり流されていった。
四方八方から売り子たちのかけ声が響いてくる。JR山手線の走行音が響く。棒人間が売り子に値引き交渉しているのが聞こえてくる。「今日のお昼はどこにしましょうか」と近くにいた棒人間の連れが話しているのが聞こえてくる。
私の視覚と聴覚はアメ横の過多な刺激に聾された。
光の三原色を混ぜると白くなり、全ての純音を混ぜるとホワイトノイズになるように、私の感覚は全くの全となり、何が見えているのか、何が聞こえているのかが判別できなくなった。この異常な刺激は視覚と聴覚のみならず、触覚・嗅覚にも異常を与えた。雑多な空気の中に複数の香辛料の匂いと皮革製品の匂いと魚の匂いが混じり、体全体がふわついて足下のアスファルトの感触が絨毯のように柔らかく感じだした。一歩踏み出すごとにその感触は柔らかくなり、耳元でざわめきが近付いてくるようだった。視覚の異常も進み、色のある世界の筈なのに徐々にモノクロにしか認知出来なくなっていった。
とはいえ自分が異常であるという意識がある以上、本当に自分が狂ってしまったのでないと判断出来た。
まずい。ここから離れなければ。
私は慌ててこの雑踏から逃げる道を探した。
山手線高架下の商店街へ逃げるか、いや、アメ横センタービルに逃げるか、どちらが得策が判断できなかったが、咄嗟にアメ横センタービルに逃げ込むことにした。棒人間たちの流れからして、その方が近道だったのだ。
自分でもフラつきながら歩いているのが分かる。もっと早く、もっと早くと焦るばかりだった。
アメ横センタービルの入り口に着いた。這々の体でなんとか階段を上り、中二階の展望台になっている休憩所へ着いた。着いた途端、しゃがみ込んでしまった。
耳元に纏わりつくホワイトノイズは軽減された。見えるものも、ほんのりと色を取り戻していった。
しばらくここで休憩しなければ。
中二階には自動販売機が四台ほどあった。
何か飲んで気を紛らわせようと思った。
コーヒーは駄目だ。刺激が強すぎる。紅茶も駄目だ。実はコーヒーより刺激が強い。烏龍茶にしようと思ったが生憎在庫がない。緑茶もあったが、「あったかい」しかないので諦めた。結局、コカ・コーラを買って飲んだ。
真冬のコカ・コーラは寒かったが、その冷たさが感覚を取り戻すのに役立った。今までほんのり暖かかった体が本来の冬の寒さを感じ始め、視覚の焦点も合いだした。さっきから聞こえていたホワイトノイズもその音が分離され、何が耳に入ってくるかちゃんと聞こえるようになっていった。あちこちから売り子の元気な声が聞こえだした。
また一口コカ・コーラを飲んでみる。
冬空でコカ・コーラは寒すぎたが、却ってそれが感覚を取り戻すのに役に立った。
冷たい缶を握りしめてアメ横を見渡すと、道の両脇に店舗が並び、それぞれの店舗には二三人の売り子がいて大声を張り上げていた。その中を棒人間たちがゆっくりと品定めするように歩いて行った。
棒人間たちの行列はちゃんと左側通行になっており、左側の行列は上野方面から御徒町方面へ、右側はその逆の人の流れになっていた。その光景を見ると、さっきまで自分のいた場所が遠くの点にあるように感じた。しかし、実際には先ほどまでいた場所はすぐ目の前だった。
流れゆく棒人間たちの群れを俯瞰していると、さっきまでの自分もその群れの中にいたのが不思議に思われた。
棒人間たちがどこから来てどこへ向かうのかは分からなかった。みな一同にこのアメ横に集い、袖すり合う仲なのに互いが互いに無関心で、すれ違う人にも同じ方向へ向かう人にも全くの無関心だった。そしてこのアメ横の通りを過ぎると、それぞれがそれぞれの道へと散らばって行く。その静かな集合と離散を眺めていると、まるで人の生涯の一断片を見るような思いを感じた。
棒人間と言えども人間である。それぞれに自分たちの人生があり、生活があり、仕事がある。
人生の合間のほんの数分だけ、このアメ横に集って、また四散して行くのだ。
その光景を眺めていると、まるで人生という大木を切り取った一部の年輪を見るかのように思えてきた。
ここに集まったのは、単なる偶然でしかない。それはみなが理解し、納得し、触れ合うこともなく過ぎ去って行く川の流れの一滴の水なのだ。その川の流れは止まることなく順調に流れている。
これだけ人が多いのに、何のトラブルも起きなかった。
いや、中には掏摸の一人や二人はいたかもしれないが、誰もそんなことには無頓着で、店前の商品を吟味していた。
私はまたその川の流れに乗る勇気が持てなかった。人疲れしていたのかも知れない。雑踏の息苦しさに耐えられなかったのかもし知れない。自分が棒人間に戻るのに嫌気が差していたのかも知れない。
コカ・コーラを飲み干してしまった。全身が冷えたが体調は戻った。吐く息がほんのり白い。私は両手を擦り合わせて指先の暖を取ると、アメ横センタービルを降りていった。
そこにはちょっと気になるものがあった。
地下階があったのだ。
話には聞いていたが、アメ横センタービルの地下は海外からの輸入食材店が集まっているという。
私の冒険心が動き出した。
私は棒人間たちの流れに乗らず、地下階まで降りていった。赤地に白文字で「地下食品街」と書かれた看板を潜ると、そこはもう異世界だった。
アジア中のあらゆる食材の匂いが立ちこめる圧倒的な存在感のある物品に溢れかえっていた。
見たところ、台湾・中国・インドネシア・フィリピンなどの食材があった。正確に記すればそれらの国の食材があった「らしい」。というのも、商品説明の値札が英語ではない外国語で書かれており、その商品がどこの国のものなのか分からなかったのだ。
この地下階には棒人間は自分一人だけだった。
剥き出しの豚(?)の肉が山積された店、粗雑に魚(なんの魚だ?)を陳列した店、異様な匂いを放つ香辛料の店。ここにはアジアの活気が凝縮されていた。私は初めて豚の頭が売られているを見た。ザ・スターリンかよとも思ったが、これも食用の筈だ。誰が買ってどう調理するのか気になったが誰にそれを訊けるのか分からなかった。
地下階は地上とは違う熱気があった。売り子が騒がしく呼び込みもしていない。だが棒人間ではない客が入り浸り、食材を吟味していた。その一人の客と店員との遣り取りを聞いてみると、聞いたこともない外国語での遣り取りだった。多分値下げ交渉だ。アメ横では値札より安値で売るのが普通なのだが、この地下街では本物の値引き交渉をするらしい。こういった辺り、この地下街だけがアメ横の周囲とは違った常識で運営されているらしかった。
私は香辛料屋の店先で一つ商品を手に取ってみた。
そのガラス瓶にはどこの国とも分からぬ外国語しか書かれておらず、この商品が何なのか分からなかった。
が、買ってみた。
店員は無愛想で私に接客した。こういう接客は東京二十三区の東側では当たり前の事だったので、私はさして気にも留めなかった。
自分の鞄の中に外国が詰まっている――それだけで何か気分が高揚した。
私はアメ横センタービルの地下階を出た。そこは紛れもなく日本だった。先ほどまでいた地下階はそこだけ外国だったのだ。唯一日本的だったのは日本円で買い物が出来ることだけだった。
外は相変わらずの冬の曇天だった。その下を大勢の棒人間たちがゆっくりと歩いて行った。ある者は店先の商品を眺め、ある者は真っ直ぐに歩いて行った。
私は一人の棒人間としてその流れに乗ることを拒否した。
鞄の中に秘密の香辛料を持っているのだ。これだけで他の棒人間たちと自分は別種なのだという思いがあったのだ。
私は棒人間の流れに逆らって、JR山手線の高架下の商店街へ入っていった。
そこは小さなテナントが密集した一本道で、洋服屋、雑貨屋、時計屋、革製品屋などが軒を連ねていた。
商店街は表通りの喧噪が噓のように静まりかえり、人通りもまばらだった。通行人よりも店員の数の方が多いように見えた。
私は革製品屋で財布を買おうとしている客と店員との会話を立ち聞きしてしまった。
「吉田カバンの製品はどこで買っても同じ値段だよ」
「どうしてですか?」
「卸してるところが一緒なんです。だから値段も一緒」
なるほど。そういう業界の事情もあるのかと合点がいった。
アメ横が代表的かも知れないが、浅草近辺には皮革加工業者が多い。これは江戸時代から続いていると聞いたことがある。往事の浅草と言えば弾左衛門の配下だ。身分的な職業の割り当てで皮革加工行が盛んだった地域だったのだ。
今でもその名残が色濃く残っているらしく、浅草周辺には皮革製品加工業者が多い。その流れでここアメ横にも革製品を取り扱う店が多い。
原宿のアパレルブランドがオリジナルの革製品を開発するために浅草詣でをしているのは、そちらの業界では常識だ。ここアメ横にもその昔からの習慣(敢えて伝統とは言わない)が根付き、この活況溢れるアメ横の原動力の一つとなっているのだ。
そういう視点でアメ横の店を眺めてみると案の定、革製品が多い事に気付く。
革ジャンはもとより財布・ベルト・バッグ・何かの小物入れ・革靴……こんな粗雑で猥雑な雰囲気の街でもそれなりに歴史があるものなのだ。
それにしても、ここアメ横に限ってはその歴史の重さを感じさせない気安さがある。
昔から「アメ横なら安く買える」という話が出回っており、そのせいか、とにかく棒人間が多い。のみならず、下町風情があるのもアメ横の魅力の一つだろう。
しかし、私のような東京二十三区の東部出身でありながら下町育ちではない者にとっては、その下町風のかぜが羨ましくもあり、身に纏わり付いた下町言葉や気風が疎ましくも感じられるのだ。
私は一本道の回廊のような通路を通り、ある店の前に立った。万年筆屋だ。
小さなショーケースに万年筆がびっしりと並んでいた。モンブラン・マイシュタースティックの天冠のスノーホワイトが輝き、ペリカン・M400の深緑に飲み込まれ、デルタ・ドルチェビータの橙色が目に染み込んできた。他にもアウロラ・リフニッシの鮮烈な金色、パーカー・デュオフォールドの端正な出で立ちに目を奪われた。ほかにもファーバーカステル、カヴェコ、アウロラ、ビスコンティ、クロス、シェーファー、ウォーターマン、カルティエ、ダンヒル、カランダッシュ等……ショーケースの中で万年筆たちは整然と立ち並び、そのスリムで贅肉をそぎ落とされた機能美を凝縮したフォルムを見せていた
私は文房具に目がなかった。しかし今まで万年筆を所有したことがなかった。その文房具の頂点ともいえる万年筆を目の前にし、書くという行為だけに特化し、先鋭化したその道具たちの機能美と最低限の装飾のバランスの良さに見とれてしまった。
私があまりにもショーケースの中を凝視するものだから、店番の親父さんも私に注意を払った。が、親父さんから話しかけては来なかった。それがこの店の、東京二十三区東部の商売の仕方なのだ。
「……あの、すいません」
「いらっしゃい。なんでしょう」
「このペン、試し書きさせてもらえませんか」
私は親父さんにペリカン・スーベレーンを示した。
「太さはどうします? 400? 600?」
「一番よく売れてるやつで」
「じゃあ400かな」
親父さんはショーケースの裏の留め金を外してその深緑の一本を無造作に取り出した。
試筆用の紙とインクとを用意し、付けペンのスタイルで線を一本かいてから「どうぞ」と私に万年筆を渡した。
私は紙にぐるぐると円を書いた。かなり滑らかに書けた。そして急に思いついた言葉「寒山拾得」と書いてみた。描線が太く漢字が潰れてしまった。
「もっと細い線が掛けるペンはありませんか」
「お客さん、字が小さいね。それ、ペン先はEFだよ。それ以上細いものだったら国産のがいいよ」
確かに私の字は小さい方だが、文庫本の活字よりは大きい。しかし万年筆屋の親父さんの言うことだ。信頼していい。
親父さんは店の隅にある国産の万年筆を取りだそうとしたが、私は慌てて「あ、いいです」と一声掛けた。私はペンを紙の横に丁寧に置いて店先を立ち去ろうとした。
親父さんは怪訝な顔をしたが、私は少々後ろめたい気分になったがその場を立ち去った。
私は本気で万年筆を買う気はあった。その程度の現金は持ち合わせていたし、あのショーケースの中に散りばめられた宝石のような万年筆にも魅惑された。だがしかし、描線が太い。おそらくどの万年筆を試しても結果は同じだと踏んだのだ。私の場合はどんなに描線が太くてもシャープペンの0.5mm幅が実用に耐える限界だった。0.3mmが丁度良いぐらいなのだ。素人の私からしても、その一筆で万年筆の書き心地の良さは理解できた。しかし、万年筆の線幅が太いのがどうにも気に入らない。いや、実用にならない。店の親父さんに頼み込めば、何本もの万年筆を試筆してお眼鏡にかなう一本が見付けられたかもしれないが、そこまで親父さんの手数を踏ませるのが申し訳なかった。もしかしたら「全部ダメ」なんてこともあり得たし、もしその一本が「見た目が気に食わない」なんてことも予想できた。
私は特別に文房具には拘る方だ。
拘るといっても高価なものを買い漁るような類いではなく、自分の使い方に見合った、かつ文房具は大量に消費するので廉価で最低限の品質も持つものを選んでいるのだ。
ということは、そもそも私には万年筆が不要ではないか?
そうとも思えたが実物を見ると、その所有欲の誘惑に一時負けたのだ。
ここアメ横に来ると、何かしら所有欲を満たしたくなる誘惑に負ける棒人間も多いと思う。
前述の革財布もそうだし、衣料品もそうだし、レザー製品は殆ど揃えることが出来る。加えて食料品店も豊富だ。
アメ横へ来れば何でも揃う。しかも安い。それがアメ横の魅力になっており、棒人間を寄せ集める要因になっているのだ。
斯くして私もその棒人間の一人としてこのアメ横界隈を徘徊している。この街の臭気、熱気にほだされたのだ。
アメ横は死の匂いがする病室とは正反対の匂いがする。決して良い匂いではないが、生の匂いがする。獰猛な野獣が獣臭いのと同じに思えた。
なんだかんだ言っても、私はこの街の臭気を好んだ。
それに加え、自分の身の回りの臭気に自分が感化されやすいことに気が付いた。
私が病室を抜け出したのは、その病室にはびこる生を諦めた匂いに嫌気が差したのだと思い出した。
私はまだ生きている。生きていきたい。
私の人生はそれほど良くもないが悪くもなかったのだ。
サラリーマン人生に倦怠を感じてはいたものの、本気でその倦怠を忌避したいとまでは思っていなかったのだ。
一人のサラリーマンとして、一人の棒人間として、私はそれになんだかんだで楽しんでいたのだ。
ただし、棒人間でいることは、誰かの「養分」になっている点を注意されたい。
ここアメ横を例にとれば、水分で水増しされた冷凍蟹を、そうとも知らされず買ってしまうこともあるだろうし、先ほどの万年筆にしたって中には偽物が混じってる可能性もある。
製品と価格が相場通りだったとしても、なにかしらの「裏技」を使われているかもしれないのだ。
話をもうちょっと拡大してみよう。
あなたが買い物をするとき、ちゃんと世間相場というものを考えて購入していますか?
ただ安値に釣られて買い物をしていませんか?
安いものには訳がある。タダのものには罠があるのだ。
なら大手小売業者なら安心かというと、必ずしもそうではない。
大手メーカーの工場は大抵海外にある。靴ならバングラデッシュ、電子機器は中国などだ。日本に住んでいながらMADE IN JAPANにお目にかかることが少なくなってきているのにお気付きだろうか?
大手メーカーは賃金の安い労働力を求めて海外進出し、廉価で労働力を買い、日本へ輸入しているのだ。
「フェアトレード」という言葉をご存じだろうか?
要するに発展途上国の労働力を無理矢理廉売させるのをやめた企業や製品のことだ。
フェアトレードの製品は他の製品と比べて割高になっている事が多い。
その差額が日本企業の「養分」なのだ。
棒人間たちは喜んでフェアトレードではない製品を購入し(安いからね)、せっせとなけなしの金を企業に「奉納」している。
その最先端を行くのがこのアメ横なのではないだろうか?
私はふとそんな風に思った。
店先に並んでいるからといって、全ての商品が安全で妥当な価格とは限らないのだ。
そう思うと(私を含め)棒人間たちは誰かの見えざる手によってその消費行動をコントロールされているのではないだろうか。
このアメ横の人並みも、向上でライン生産される商品と同じように、ラインで商品を買わされているだけではないだろうか。それを誤魔化すために各店には売り子が呼び込みをやっていると考えると合点がゆく。
そう考えると、アメ横は巨大な「消費工場」なのではないだろうかと思えてきた。
そこまで考えると、確かに「消費工場」に務めるのが心地よいのが納得できる。
棒人間たちの行動原理は極めて単純なのだ。即ち、もっと安く、もっと多く、もっと品質の良さそう(実際に高品質かは別として)なものを――世間ではそれを「賢い買い物」と言うのだそうだが、私から見れば「どの消費工場がいいか」でしかないのだ。
しかし、どんなに偉そうな事を言っても私のような棒人間はただの消費者でしかない。
そう、今日のはアメ横での消費者なのだ。もう今日はそれで腹をくくることにした。
そう言えば今日は病院で粗末な朝食を食べただけで、他に口にしたものはコカ・コーラ一缶しかない。
スマホの時計は午前十一時十九分を示していた。
私はフェアトレードがなんだ、安さは正義だ、と居直った。そして路面店の海鮮丼屋で腹ごしらえをした。
マグロ丼九四〇円。これが今日の昼食だ。
このマグロ丼に使われているマグロが本物なのか代用マグロなのかは気にしないでおいた。そんなことは私にはどうでも良かった。とにかく「マグロ丼」と名前のついている食べ物が食べたかったのだ。これは、これから始まる入院生活での貧しい食事に対抗したいがためだった。
そう言えば「マグロ丼」ではなく「鉄火丼」って言うんじゃなかったっけ?
そんなことを気にしていると、すぐにマグロ丼が来た。
私は店外の小汚いテーブル席でマグロ丼に食らいついた。醤油もじゃぶじゃぶかけた。
うまい。この寒空の下で食うマグロ丼、旨かった。
白状すると、味覚に異常があったせいかもしれない。しかし旨い。もうそれで満足だ。
食べ終わるまではあっという間だった。
私は勘定を済ませて昭和通りへと抜けた。
たかが大通り一本隔てただけで、アメ横の喧噪は消え去り、東京二十三区のアスファルトとコンクリートのビルの景色に変わった。
私は上野方面へと歩いて行き、上野公園へ入った。
知ってはいたものの、上野公園はとにかく広い。歩き廻るには広すぎる。
昼過ぎの上野公園は棒人間たちもまばらにしかいなかった。
やたら幅の広い遊歩道の両脇に桜が植わっていた。桜の花は今が見頃だった。
桜が見頃? この季節にしてはちょっとおかしい。
たしか上野公園には寒桜はなかった筈だし、梅の花と見間違えたかと思ったが、その淡い白とピンクのグラデーションからすると、桜に間違いはないと思えた。
満開の桜の木の下で私はその美を堪能した。しかし、それが本当に桜が咲いているのか、桜とは別の花と勘違いしているのか、判別出来なかった。
ほんの微風が吹くだけで桜の枝はしなり、そのたびに数枚の花びらがちらちらと舞い落ちた。花びらはひらめくたびにその色合いを瞬きさせ、すっとアスファルトの地面の上に舞い降りた。
ふと私は自分の視界に色が戻っていたのに気が付いた。
アメ横の雑踏に人酔いして五感が麻痺していたさっきのことなど、つい忘れてしまった。 桜の花弁がアスファルトの上にうっすらと影を落としていた。空の灰色と端正な桜の色は不思議とその色合いを互いに補完して冬の風に吹かれながらそこだけ暖かさを感じることが出来た。
私は本当に桜の花が咲いているのか疑問に思ったが、その美を見るに付けて、花の種類などどうでもよいとさえ思った。とにかくこの寒空の下でも凜と咲く花の見事さに息を吞んだ。
上野公園の遊歩道は延々と続いていた。桜の木の間を名も知れぬ野鳥が飛んでいた。
私は盲滅法に園内を散歩した。
こうして自由に歩き回れるのも、入院したら出来なくなるのが私の心に影を落とした。普段、何気なく出来ていることが、入院生活では出来なくなる。そういった些細な制約が私を入院を忌避させた。
まあ、普段から大した生活している訳ではないから、ほんの数週間の入院ていどでどうこう言うのが間違っているのだが。
そう頭では判断出来たが胸の裡ではやだやだとだだをこねた。
こうして公園内を歩いていると、意外にも野鳥が多いのに気が付いた。
木々の中から鳴き声がするし、遊歩道の両脇の木から木へと移り飛んでいく野鳥の姿をしばしば目にした。
その野鳥の名を知らない事を私は少々悔やんだ。
都会の真ん中にありながら、上野公園は多少の野生の息遣いをしていた。私はそれこそが生であり自然であり、時たまの休息に必要なものだと思った。
歩みを進めていくと、冬枯れした木立の奥に瀟洒な二階建ての茶色の建物が佇んでいた。
上野の森美術館だ。
先ほどまでいたアメ横とは対照的なほど物静かで意匠をこらした外観は、私を拒絶することなく館内へ案内された。
入場料は二千百円だった。
展示物は「兵馬俑と古代中国」。私にはさして興味の惹かれるものではなかったが、だからこそ知見を広めるためには好都合だった。
館内は暖かすぎず寒くもなく、湿度も適度にあった。
私は美術館のこの空調管理がもたらす空気が好きだ。なにもかもフラットで日常にはない美術館特有の空気があった。確かに、この環境であればいくら歩き廻っても汗をかく事はないし、気分的にも集中して美術品を鑑賞しやすい。
どういう訳か、美術館と同じ空調管理をしているところを私は知らない。出来うることなら、職場や家庭の空調もこのようにしたいのだが、私はその術を知らない。
館内は薄暗く、間接照明が所々にあった。人で混み合うこともなく、ゆっくりと展示物を鑑賞することが出来た。
鑑賞客はみな棒人間だった。
展示物は土器で出来ているのか陶器で出来ているのか分からなかったが、その緻密で精細な技巧を凝らした数々の人形は、古代からの時を経てもその威厳と高邁さを失うことはなかった。
展示物は実寸大の人形の他もあり、書・剣・その他副葬品があった。
私は遺物の圧倒的な迫力に気圧された。今の私にはちょっと刺激が強すぎたのだ。
その物言わぬ人形を眺め、その圧倒的な存在感に息を吞んだ。その姿形はとても棒人間と同じ生き物である人間とは思われなかったのだ。
しかしいま目の前にあるのは古代の人間をかたどった人形に過ぎない筈だ。ところが、その人形の方が私の知る棒人間より気高く、勇ましく、生物としての存在感が強いのだ。
これは一体どういう事なんだ?
私はその人形の持つ人間としての意志すら感じた。
しっかりと起立し、眼前をじっと見詰め、微動だにしないその姿は、何かしらの厳格な命令により規律正しくその命を果たし続ける兵士の姿に見えた。
翻って館内を巡る棒人間たちは意志すら持たず、暇を持て余し、怠惰な時間を過ごしているかのように見えた。
ガラスの展示台に閉じ込められたその兵馬俑の一兵士は、いま正に皇帝の命を待っていた。その一瞬のために身体を鍛え上げ、甲冑を着、矛を振るう準備が出来ていた。
こうしてみると、余暇がもたらす現代人の自由というものは、ただの怠惰であり、人生という限られた時間にその生を燃やすことなく細々と時を過ごしてるかのような倦んだ時間に安穏としているだけではないかと私には思われた。
兵士の眼光は鋭く、敵を見据えて今か今かとその出陣の号令を待っていた。
しかし、その下例は決して下る事はないのだが、兵士は兵士としての役割を全うする準備が出来ている。
私にはそんな風に見えた。
人間が生きていくということは、その価値として、生を燃やし続けることにあるんじゃないかとふと思った。
現代の日本人は基本的に自由だ。
だがその自由を、時間を、ただの倦怠に押し塗り潰され自分が生きた人間であることを半ば放棄しているのではないだろうか。
人生には余暇は必要である。だが、その余暇を浪費する手段が多すぎるのではないだろうか。
私のようにサラリーマンを長くやっていると、平日はそれなりに仕事に追われ、毎日の半分はその仕事に忙殺される。
しかし、それは本当に人生を賭けての毎日の格闘といえるだろうか?
日本にいる限りは身の安全が保証されていると言っていい。だがその替わり、毎日の活動に精気を失っていないだろうか。
現代人はもうとっくに野生の生か死かを賭けた闘いを放棄し、生を燃やす必要がなくなっているだ。
だが、この兵馬俑の時代は違う。
戦乱があり、飢饉があり、立身出世の野望があったのだ。
そういった生への渇望、生きていく上での獰猛な野生が現代人にはもうないのだ。
それが証拠にアメ横には無数の棒人間の群れがあった。なんだかんだ言っても私もそのうちの一人だった。
これはその他大勢の一般大衆が必要最低限の文化的な暮らしを保証されているからであろうが、その安穏がもたらしたものは、無数の意志を持たない棒人間の量産でしかなかったのだ。
だが私はその事実を受け入れた。
ある側面、その兵馬俑に生きた人間の躍動に憧れはするが、もうすでに私は棒人間である。自分の裡に燃え上がる野心もないし、貧苦を凌いで暮らしていけるだけの覚悟もない。これはきっと棒人間であれば誰でもそうだろう。
社会は変わった。戦乱はなくなり、国家も安定し、私のようなその他大勢の棒人間もその労働力を社会に還元するかわり、日々の生活の安寧のために毎日を過ごすことが出来ている。
平和。平和そのものだった。
その平和が、社会的安定がもたらしたものは無数の棒人間だったのだ。
棒人間でいることは心地よい。安定した社会基盤という毛布にくるまれ、毎日を棒に振るような無為徒食な日々が快かった。私はこのぬるま湯の世界を愛していた。
兵馬俑の兵士とはガラス板一枚で仕切られていた。
そのガラス一枚は、たった数ミリの厚さでしかなかったが、その数ミリはとてつもなく多きな隔たりだった。
私は兵馬俑の兵士から離れることにした。
これ以上、この古代人と対峙しては自分の不甲斐なさ、緊迫感のなさ、人生への向き合い方のだらしなさを露呈させられるのに耐えられなかったからだ。
展示室の会場は広かった。私はその兵馬俑の展示物から放たれる生気にもうやられまいと、足早に会場を歩いていった。
一通り展示物を見ると、私は会場を後にし、二階にあるカフェへ向かった。
いま思えば九段坂総合病院を抜け出てから歩きづめだった。
普段の私の生活はデスクワークばかりだったので、これほど歩いたのは久しぶりだった。情けない話だが、少々の疲れを感じた。
カフェは外側一面がガラス張りで曇天でも室内は十分な灯りが取れていた。
カフェ内の調度品も凝っており、上野や御徒町の雑然とした雰囲気とはまるで違った静寂があった。
私は一番窓際に席を取り、オレンジジュースを注文した。
この席からは上野公園の林を一望出来た。カフェのすぐ側にも木があり、名を知らぬ小さな野鳥が飛んでいた。
小休止。それにはもってこいの場所だった。
先ほど見た兵馬俑の熱の籠もった展示品の毒気を、ここで少しは和らげることが出来た。
私は白を基調とした店内を見回して見た。
私の他に三組の客がいるだけで、広い店内をより広く感じさせた。客は棒人間だった。
程なくしてオレンジジュースが来た。
メニューはコーヒーや紅茶、ハブティーもあったが、最も刺激の弱いと思われるオレンジジュースを頼んだのだ。
ストローをグラスに差し、一口飲んだ。
柑橘系の刺激と果物の甘さが口に入ってきた。
どうも私には上野の街の刺激が強かったらしい。
こうして一人でアスファルトの遊歩道とその脇に連なる木々を見ているのが、今の私には丁度良かった。
こうしてみると、私は人間の生気に当たるのがストレスになっていたんじゃないかと思い始めた。
上野は繁華街だ。当然、人も多い。
その人々が発する熱気、声、圧力が私には強すぎたのかもしれない。
しかし、病院の死臭のする清潔感の中にいるよりはずっとましだった。
私の原風景はこのカフェから見える光景と不思議とマッチした。
コンクリートで出来た建物の中でアスファルトの遊歩道を眺め、その遊歩道の脇に木々がある。
良いことなのか悪いことなのか判断出来ないが、東京出身だと緑が多ければ心が安まるという訳ではない。
私が育った場所に森林はなかった。
公園に申し訳程度に銀杏の木が植わっているだけだった。だから大自然の野生が支配する光景は物珍しいし、鳩と鴉と雀以外の鳥をみると「珍しいな」と思ってしまうのだ。
ここ上野公園には都心でありながら多くの野鳥が根城にしているらしかった。
ちょっと窓越しに見ても、見たことのない野鳥が度々飛び交った。
野鳥たちは野鳥たちで、ここに根付いているのだろう。
私が意外に感じたのは、その多くいる筈の野鳥がこの上野公園を出てその他の地区に根付いていないことだった。
前述した通り、鳩と鴉と雀は都内のどこにでも生息しているのに、他の鳥はついぞ見たことがない。
それは単に野鳥にとっての住環境や餌場の関係によるものだろうが、他の地域がそれほど住環境として向いていないとは思えないのだ。
ここ上野公園は確かに緑が多い。だが、たったそれだけのことではないか。他に何が不満がある?
私は野鳥の生態については全く知らないが、雀のような小鳥が生きていける場所なら、他の野鳥も十分どこでも住み着いていけると思うのだが……
翻って人間について考えてみた。
確かに人間はどこにでも住んでいる。北極近くにもいるし、発展途上国にも住んでいる。戦乱の国にも住んでいる。赤道近くの南の国にも住んでいる。
それぞれの場所は生活する上でそれなりに難しい面はあるのだが、それを克服してみな日々の生活を送り、子供を産み育てている。
そこまで私は考えると野鳥の生態に疑問をもったが、人間の生活圏を日本にのみ限定してみると、野鳥の生活圏が限定されているのが理解できた。即ちこうだ。
日本人の多くは大都市圏に住みたがる。善し悪しは別にして私は東京出身で今まで東京以外で暮らしたことがない。地方都市で生活するには車は必需品であり、北国であれば雪の災害もあるし、南部では台風が来る度に災害が出る。その寒すぎもせず災害も(何故か)少ない東京に安住するのは、余計な心配事も少ないし生活基盤を失うような事も今のところ起こっていない。
東京暮らし、いや、都市圏暮らしは何かと便利で快適なのだ。
野鳥にとってもきっとそうなのだろうと、ようやく推論できた。
この上野公園以外でも住むことは出来るだろうが、きっと野鳥なりの不便が生じるんじゃないだろうか。
私は野鳥の生態を知らないが、きっとそういう事なのだ。
では果たして野鳥は私のような棒人間と同じなのだろうか?
いや、きっと違う。小鳥と言えども野鳥だ、野生の動物だ。
野鳥の姿は愛らしく美しいが、野鳥にしてみれば毎日が生きて行くための闘いがきっとある。
餌の捕食もそうだし、安全なねぐらの確保も必要だし、外敵からの襲撃も常に考えられる。
このカフェから覗き見える美しい野鳥は、ここから距離は近いが、棒人間である私とは非常に距離がある存在なのだろう。
私はスマホで上野公園に住む野鳥にどんな種類があるか調べてみた。ざっと六十三種類いるそうである。
まあ、これだけ敷地面積があるのだから、二十種類ぐらいはいるだろうと予想していたが、その三倍以上いるとは意外だった。
それぞれの野鳥にそれぞれの生活がある。
その一つ一つを挙げていけば類似したものは殆どないだろう。そこには野鳥ごとの、六十三通りの生活があると予想した。
野鳥たちは時折さえずり声を上げた。その声はカフェにいる私の耳にも届いた。
野鳥の声は美しかった。その声は音楽とはは違い、旋律もなければリズムもなかったが、何故がリズムに乗った旋律を歌い上げているように聞こえた。
野鳥が鳴く理由を私は知らない。だが野鳥のさえずりは私の心と体の疲れをゆっくりと和らげてくれた。それが聞き慣れた鴉の声や雀の声であってもだ。
そう言えば、医者に言わせれば今の私は病人だそうである。病人は病院でじっとしているのが得策なのだろうが、今の私にはこうして野鳥の羽ばたきや鳴き声を聞いている方が何よりの治療になるのではないかと思われてきた。
しばらく野鳥の声を聴いているうちにオレンジジュースを飲み干した。
カフェを出る時が来たのだ。
私は勘定を済ませ、一階へ降りて上野公園を散策することにした。
上野公園の遊歩道の幅はかなり広い。多分五メートル以上あるだろう。その緩やかに曲がりくねったアスファルトを私は歩いていった。
歩道の両脇の木々が風に戦いだ。一月の風はまだ冷たかったが私には心地よかった。
と、歩道によたよたと一羽の鳩がもんどり打ちながら飛び出してきた。
その直後、その鳩を追うように鴉と猫が飛びかかって来た。
鳩はバランスを崩し、アスファルトに転落した。
その一瞬をめがけて猫が鳩を口で捕らえた。鴉は両足を鳩めがけて突き出したが、猫の方が一手早かった。
猫は獲物である鳩を口で捕らえると、それまでの俊敏な躍動から悠々とした歩みに変え、鴉は何事もなかったようにまた中を飛び、木々の中に消えていった。
野生だ。これこそが野生だ。
私はさきほどまでカフェのガラス越しに野鳥の閑雅な風景に見とれていたのだが、実のところ、上野公園は野生の地だったのだ。
猫はきっと獲物を捕らえて空腹を満たしているだろう。一方、鴉の方は次の獲物を探して上野公園の中に鋭い眼光を放っているに違いない。
私はとんでもない勘違いをしていたのだ。
野生はいつでも生と死が隣り合わせになっているのだ。それを美しいだとか長閑だとかいっているのは、野生のほんの一側面を見ただけに過ぎないのだ。
野生は戦って生きているのだ。戦って生き延びているのだ。食うために殺す。そういう生物として当たり前のことがこの上野公園では起こっているのだ。
野生生物に棒人間のような「棒動物」はいない。そのことは頭では理解できていたが、いま目の前でその野生の現実を突きつけられて、(臆病なことだが)自分が棒人間であることを心底安心した。私は食われる心配はない。それだけでも安全であることを確認できた。
そこでふと先ほど見た兵馬俑の人形を思い返した。
兵馬俑が作られた時代、中国がどうであったか知らない。が、社会制度は成り立っていたのは間違いないが、生きるために罪を犯す者や罪そのものを生業とする者も大勢いたであろう。その頃の中国の都市は現代の日本の都市と比べて犯罪も多かったのではなかろうか? あの人形を生み出すことの出来た社会だ。今の人間に比べて、より獰猛で狡猾で、生き延びるために必死だったに違いない。
そういった善くもあれ悪くもあれ、往事は現代人よりも野性味に溢れたエネルギーに満ちていたに違いない。
私はそのエネルギーに憧れた。即ち、私にはそのエネルギーが足りていない自覚があったのだ。
こんな長閑な平日の真っ昼間に野生動物の生と死を賭けた弱肉強食を見せつけられたのだ。
夜はどうなっているか分かったもんじゃない。
その予感は私を恐怖や不安に陥れるのではなく、私が夜闇に紛れて獲物を捕らえ、血を啜り肉を食らう血生臭い生の強者として振る舞える様を想像しての心の身震いだった。
この遊歩道はいつまでも続いていくようだった。実際、上野公園は広大でその敷地全てを歩き廻るには時間が掛かりすぎた。
私は公園の端々に立つ案内板を見ないで歩いて行った。
特にこれといった目的地もなく、ただ歩いて行くだけ。今の私にはそれが快かったのだ。
もし私が病院を抜け出さなかったら、ただ刻々と過ぎる時間の中、反昏睡でベッドの上で横たわっていただろう。
それは私の流儀ではなかった。
たとえ何も考えない(考える事の出来ない)棒人間であったとしても、生を感じられる場所にいることこそが、私にとっての最良の治療になるのだ。
朱に交われば赤くなる。どだい人間なんてその程度のものなのだ。
どこをどう歩いたかすら明白ではなかったが、国立科学博物館の前を通り、しばらくして東京都美術館の前に来た。
冬空の曇天の下、私の体は少し汗ばんでいた。
上野公園内はひたすらアスファルトと木々で出来上がっていた。道は真っ直ぐになり、あるときは緩やかに曲がり、あるときは分岐した。
公園であるが故に視界が開けていたが、これでは地底の回廊を堂々巡りしているのと変わりはなかった。ただいつも天井には空があり、周りには緑もあった。もしこれが背の低い天井で周囲は石造りの壁であったとしたら地下迷宮を彷徨っているのと同じだった。
私はでたらめに歩き廻り、ついに公園の端に着いた。
上野公園はぷつりと途切れ、車道に行き着いた。看板によれば「動物園通り」だそうである。
私は目の前の横断歩道を渡った。
その先には不忍池があった。
私はその巨大な池を二分する小道を歩いて行った。
不忍池辯天堂があった。
いまさら目に入ったように思えたが、横断歩道を渡るときからその堂は見えていた。
緑青色の屋根に朱の柱を通したその堂は、いかにもこの地が昔からの由緒ある品格を持った場所である、と言わんばかりの風格と品を備えていた。
私はそのお堂にはさして惹かれなかった。というより、もっと気に掛かるものがあったのだ。
池を覆い尽くすほどのフラミンゴのがいたのだ。
フラミンゴたちはその細長い首をあちこちに向けて悠々と池の上を泳いでいた。
不忍池辯天堂を取り囲むように池は出来ており、不忍池辯天堂周囲の池は多数の蓮の葉が茂っている。その茂みを押しのけるほどのフラミンゴの群れがいたのだ。
あるフラミンゴは超然と前へ進み、あるものはじっとそのままの場所に佇み、また別のフラミンゴはゆっくりと不忍池の水の上にを進んでいた。
池全体がフラミンゴの淡色のピンクに染まっていた。それは先ほど見た上野公園内の桜の花の色に似ていた。
その向こうまで続く淡色の鳥の群れは、それぞれゆっくりと歩み、お互いにぶつかり合うこともなく、かといって隙間を作るともなく、その艶やかな色を池の表に覆い被さっていた。
細く長い首が優雅な曲線を描いていた。その首の先に大きな黒い嘴がある。リラックスしているのか、大きな動作をするフラミンゴはいない。まるでここにいるのが当たり前のような顔をして泳いでいた。
私はフラミンゴたちの様子をしばらくぼんやりと眺めやった。
どのフラミンゴも艶やかな色彩を放ち、冬の不忍池に晴れやかな色を塗り染めていた。あるものは時々嘴を水に浸した。どうも水を飲んでいるらしかった。フラミンゴたちの動作は緩慢と言うよりも優雅と言ってよかった。誰も慌てず、かといって刺激が鈍磨している様子もなかった。
私がフラミンゴの群れを恐れもせず驚きもせず眺めていると、そのうちの一羽が私の方に近付いて来た。
その一羽は蓮の葉をなんとか避けて私の前で止まった。
しばらくの間、私はそのフラミンゴと対峙した。言葉は出なかった。
遠くで見ていると気が付かなかったが、フラミンゴは意外と大きかった。首の長さは一メートルいかないぐらいだった。
私に近付いてきたフラミンゴはまるで不思議そうな顔をしていた。鳥類なのだから本当に不思議に思っているのかどうか判別出来ないが、どうもこちらに興味を示しているらしかった。
私は思い切って、右腕をフラミンゴの顔先にゆっくり出して見た。
フラミンゴは微動だにしなかったが、「げげげ」と「ぎぎぎ」の発音の中間の声で鳴いた。見た目は美しいが鳴き声はその姿とは正反対のダミ声だった。
私は一旦右腕を引っ込め、ゆっくり顔を近付けてみた。
するとフラミンゴも顔を近付けてきた。
あと三十センチというところでお互いに顔を近付けるのを止めた。
間近で見るとその羽毛の一枚一枚まで見て取ることが出来、大型動物とはいやに愛嬌があった。
そう言えば、このフラミンゴたちは野生なのか、それともどこかで飼育されたものなのか?
野生であればこんなに人に慣れているのは珍しい。
まあ、どっちであれ、これだけの群れがどこから来たのかが疑問だ。
フラミンゴと見つめ合った後、その一羽は何事もなかったかのように、また群れの中へ戻って行った。
その一羽は群れに戻ると、また「ぎぎぎ」とも「げげげ」ともつかない声を発した。
そして周囲にいた一羽も似たような声を上げた。
その声は周囲の二三羽にも広がったが、声はそれで終わった。
何かフラミンゴ同士で会話しているようにも見えたが、どう考えても「げげげ」と「ぎぎぎ」で意志の疎通が出来ているとは思われない。
私の思惑とは裏腹に、フラミンゴたちはまた悠々と不忍池を泳いでいた。
その光景は全く人目を憚らず、そこらにいる鳩や雀よりも人間に対して警戒を示さなかった。
それは群れでいることの強さなのか、それともやはり野生ではない人慣れした鳥なのか、どちらにもとることが出来た。
私がぼんやりとフラミンゴの群れを眺めていると、池の中央辺りにいた一羽が翼を広げて飛び立った。
その跳躍は真っ直ぐ天に向かい、足をきっと伸ばし、力強く翼を羽ばたかせていた。
それにつられてなのか、近くにいたフラミンゴたちも同じ方向に向けて飛びだった。
その飛翔の波は瞬く間に池の全てのフラミンゴに波及し、豪快な翼の羽ばたきと水飛沫を残して天へ舞った。
フラミンゴたちは紡錘型の陣形を組み、西へと飛んでいった。その姿は力強く、閑雅で灰色の空にその桜色の体の跳躍が馴染んでいた。
行っちゃったか。私はそう思った。
不忍池にはフラミンゴたちの飛び立った波紋が残された。それも次第に穏やかになり、ついに波紋は消え、静かに水平になった。
フラミンゴたちがどうして一斉に飛びだったのか、またどこへ向かって行ったのかは分からない。多分、自分たちのいるべきところへ向かったのだと思った。群れで生活している以上、その群れからはぐれれば死活問題となるのだろう。ところで、どの一羽が飛び上がるタイミングを決めているのか? どこへ向かうのか決めているのか? その一羽はどんな判断で今が飛び立つべきと判断したのか? 棒人間の私にはそれら一切の事が分からなかった。
スマホが鳴った。電話番号は非通知ではなかったが、知らない番号からだった。
「もしもし」
私は警戒して名前を名乗らなかった。
「○○さんの携帯ですか」
「はい。○○です」
「私、九段坂総合病院の看護師長の××です」
「はあ」
「今、どちらにいらっしゃいますか?」
私は一瞬、間を置いた。
「不忍池です」
「不忍池? 上野ですか?」
「ええ……まあ……はい」
「無断で病室から抜け出さないで下さい! 探したんですよ!」
「あ、そりゃまあ……申し訳ない」
「いいですか! 今すぐ病院へ戻ってきて下さい!」
「はあ……分かりました……」
「もし何かあったら一一九番して下さい! ○○さん、入院して経過観察が必要な体調なんですよ! いいですか! すぐ病院へ戻ってきて下さい!」
「分かりました。分かりました。今から戻ります」
「何でしたら救急車、呼びましょうか?」
「あ、それは大丈夫です。ちゃんと電車で戻ります」
「いいですか! 大至急、病院へ戻って来て下さい!」
「分かりました。じゃあ、一時間はかからないと思いますので」
「お願いしますよ!」
「ええ。じゃあ、電話切ります」
そう言って私は半ば強引に電話を切った。
私にはいるべき場所がある。というかいなければいけない場所があるのだ。
それは自分の体調のせいでもあるが、本当にそうなのだろうか?
まあ、私は棒人間だ。人の言う事には従う。そうして入院期間が過ぎればまた社会復帰だ。
私はフラミンゴのように翼を持っていない。どこかへ旅立つ事は出来ないし、もし翼があっても飛び立つ事はしないだろう。
何と言っても、私は棒人間だからね。
脱走しない棒人間 @wlm6223
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