第三話:六月の陽光――ラベンダーの約束

 六月のプロヴァンスは、太陽の恵みを全身で受け止める季節だ。マヌーの庭では、アンリの墓石を取り囲むようにラベンダーが紫色の花穂を一斉に広げ始めていた。


 この朝、マヌーはいつもより少し遅く目覚めた。昨夜、久しぶりに村の祭りに参加し、友人たちと夜更かしをしたからだ。窓から見える庭は、朝の光の中で一層鮮やかに輝いている。


「おはよう、アンリ。今日は少し寝坊してしまったわ」


 彼女はアンリの墓石の前に立ち、周囲のラベンダーの成長ぶりに目を細めた。花穂はまだ完全には開ききっていないが、その紫色は日に日に濃くなっている。


「今年のラベンダーは特に美しいわ。あなたが天から特別な光を送ってくれているのかしら?」


 マヌーは小さな剪定バサミを取り出し、伸びすぎた茎や枯れた葉を丁寧に取り除いていく。ラベンダーからは既に甘く芳醇な香りが漂い始めており、彼女の手に触れるたびに、その香りは空気中に広がった。


「もうすぐ収穫の時期ね。今年も良い出来になりそうよ」


 庭の東側では、五月に咲き誇っていたバラたちが少しずつ花を落とし始め、代わりにリナリア(キンギョソウの仲間)やカモミールが小さな花を咲かせていた。特にカモミールの白い花と黄色い中心部の対比は、青空の下で一層映えて見える。


 マヌーはカモミールの花をいくつか摘み取り、乾燥させるために小さなカゴに集めた。


「アンリ、あなたが好きだったカモミールティーのために摘んでいるの。あなたはいつも、『マヌー特製のカモミールティーは最高だ』って言ってくれたわね」


 南側の菜園では、トマトの実が色づき始め、ズッキーニの花も大きく開いていた。マヌーは水やりをしながら、一つ一つの植物に言葉をかける。


「もう少し待っててね。もっと甘くなったら収穫するから」

「あなたたちのおかげで、私の食卓はいつも豊かよ」


 この日の午後、マヌーはアンリが生前作った木製の椅子に座り、庭園を眺めていた。彼女の体は以前ほど軽快には動かなくなってきていた。少し疲れを感じることが多くなり、時には息切れすることもある。しかし、庭に居る時だけは不思議と体の不調を忘れてしまう。


「アンリ、私もそろそろ年かしら。でも、この庭にいると元気が湧いてくるの」


 彼女は少し目を閉じ、六月の陽光を全身で感じていた。すると、風が静かにラベンダー畑を通り抜け、その香りが彼女の周りを包み込んだ。


 その時、マヌーには聞こえなかったが、ラベンダーたちは風を使って彼女に語りかけていた。


「マヌーおばあちゃん、ゆっくり休んでいいんだよ」

「私たちがあなたを元気にするから」

「あなたの優しさが、私たちの香りになるんだよ」


 マヌーが目を開けると、庭全体が風で揺れ、まるで波のように動いているように見えた。彼女は微笑み、アンリの墓石に向かって言った。


「この庭にいると、あなたがまだそばにいるような気がするわ」


 夕方、マヌーは村から訪ねてきた友人のジャンヌと一緒に、庭で採れたハーブとトマトでスープを作った。二人は庭に面したテラスで食事をしながら、若かった頃の思い出話に花を咲かせた。


「あなたとアンリは、村一番の仲良し夫婦だったわね」とジャンヌは言った。


「ええ、彼は最高の伴侶だったわ。この庭も二人の子供のようなものよ」


「この庭園は村の宝物よ、マヌー。みんな感謝しているわ」


 ジャンヌが帰った後、マヌーは再びアンリの墓石の前に立った。日が沈み始め、辺りは黄金色の光に包まれていた。


「今日も素敵な一日だったわ、アンリ。あなたがここにいてくれるから」


 彼女が小さな家に戻った後も、庭園は生き物たちの声で満ちていた。コオロギが鳴き始め、夜の花々が香りを放ち始める。そして、ラベンダーたちは約束を交わしていた。


「私たちの香りで、マヌーおばあちゃんを癒そう」

「彼女が弱っていることを、私たちは知っている」

「だから、今年は特別に美しく、特別に香り高く咲こう」


 六月の夜風が庭園を優しく撫で、その約束を天へと運んでいった。

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