第二話:五月の輝き――薔薇の季節

 五月に入り、プロヴァンスの太陽はより強く輝きを増していた。マヌーの庭園では、春の花々が次々と咲き誇り始め、毎日が新たな発見に満ちていた。


 この日も朝早く、マヌーは庭に降り立った。アンリの墓石へと向かう道すがら、彼女の目に飛び込んできたのは、一夜にして咲き誇ったバラの姿だった。


「おはよう、アンリ。見て! あなたが植えたバラたちが、こんなに美しく咲いているわ」


 墓石の周りを取り囲むように植えられた「ピエール・ド・ロンサール」というつるバラは、淡いピンクの花弁を重ね、甘い香りを漂わせていた。十六世紀のフランスの詩人にちなんで名付けられたこのバラは、アンリのお気に入りだった。


 マヌーは小さなハサミを取り出し、傷んだ葉や枯れた蕾を丁寧に取り除いていく。その手つきは優しく、まるで赤ん坊をあやすかのようだ。


「あなたはいつも言っていたわね。『バラに語りかけると、もっと美しく咲く』って」


 彼女は微笑みながら、一輪一輪に声をかけていく。


「素敵な香りをありがとう」

「あなたの色は本当に美しいわ」

「強い風にも負けずに、しっかり咲いているのね」


 庭の中央から東側にかけては、「ダマスク・ローズ」が群生していた。古代から香水の原料として珍重されてきたこのバラは、濃厚で甘い香りが特徴だ。マヌーとアンリは若い頃、これらのバラの花びらからローズウォーターを作り、村の市場で販売していた。


 マヌーはいくつかの満開の花を摘み取り、小さなカゴに集めた。


「今年もローズウォーターを作るわ。村の人たちも楽しみにしているもの」


 南側の菜園では、ジャガイモの葉が大きく育ち、トマトの苗も順調に成長していた。マヌーは早くも実をつけ始めたエンドウ豆を収穫し、それをそのままポケットに入れて食べた。その甘さに、彼女は目を細める。


「アンリ、エンドウ豆が甘くて美味しいわ。あなたが生きていたら、きっと『今年は出来が良い』って言うでしょうね」


 昼食の後、マヌーは庭の西側に新しく花壇を作ることにした。アンリが亡くなる前に二人で計画していたことだ。小さなスコップで土を掘り返し、堆肥を混ぜ込む。汗が額から流れ落ちるが、彼女は休むことなく作業を続けた。


「約束通り、ここにマーガレットを植えるわ。あなたのお母さんの名前の花ね」


 夕方近くになると、マヌーはようやく花壇を完成させ、そこに白いマーガレットの苗を植え付けた。彼女の手は土で汚れ、爪の間にも黒い土が入り込んでいたが、その表情は満ち足りていた。


「少し疲れたけれど、満足よ。マーガレットさんも喜んでくれるでしょう」


 アンリの墓石の前に座り込み、一日の出来事を報告する彼女の横で、バラたちは風に揺れながら囁いていた。


「マヌーおばあちゃん、私たちのために毎日ありがとう」

「あなたの優しい手のおかげで、私たちはこんなに美しく咲くことができるの」

「疲れているのに、私たちのためにたくさん働いてくれて…」


 マヌーには聞こえないその声を、夕暮れの風だけが知っていた。彼女が家に戻った後も、花々は静かに語り続けた。


「アンリさんも、きっと喜んでいるよ」と古いバラの木が言った。

「私たちができることは、マヌーおばあちゃんのために精一杯美しく咲くことだけ」と若いバラが答えた。


 その夜、マヌーは窓際に座り、摘み取ったダマスク・ローズの花びらを小さな鍋に入れ、ローズウォーターの仕込みを始めた。窓の外では、月明かりに照らされた庭園が静かに息づいていた。明日もまた、新しい命の営みが続いていく。

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