Ebrietas
椿谷零
Ebrietas
口の中に、ぬるりと淡色の液体が流れ込んでくる。口一杯に苦味が広がって、喉を焼き尽くす。口から食道へ、そして胃へと流れ込んだ液体は、血流に乗り、じわじわと脳を侵食していく。視界が歪み、足元がふらつく。まるで、重力そのものが、私を地面に引きずり込もうとしているかのようだ。膝から崩れ落ち、冷たい床に体を預ける。この、すべてが溶けていくような感覚。現実から解き放たれる、この感覚だけが、私を辛うじて繋ぎ止めている。現実世界に、私の居場所なんてない。優しい言葉も、温かい眼差しも、私には向けられない。現実という名の牢獄から、ほんの一瞬でも抜け出すために、私は今日もこの液体に呑まれる。それ以外、如何にかする方法を知らないのだから。
私、茅場 惠(かやば めぐみ)。高校1年生。父親は4ヶ月前に死別した。決して良い親と言えるものではなかったが、私は好きだった。母親は父が亡くなってから人が変わってしまった。感情の波が激しくなり、まるで壊れた人形のように、一日中泣き続けることも珍しくない。元々悪かった酒癖は、一段と酷くなった。親戚からは「こっちにくるかい?」と言われたが、私はこの母を見捨てることを選ばなかった。いや、選べなかった。私までいなくなったら、母は完全に壊れてしまう。そう思うと、どうしても母から離れることができなかった。
「なんで…なんであの人が死ななきゃいけなかったのよ」 その言葉をボソボソと言う様は見ているこっちが呪われるのかと思うくらい怖かった。暫くして、母は暴力も振るうようになった。最初の方は我慢していた。母が壊れていることは承知していたからだ。他の人に言ったら、母は病院に連れてかれてしまう。そう思って誰にも言ってないし、言うつもりも無い。多分、病院に行ったら帰れなくなる。如何してか、そんなことを本気で思っている私がいた。
お腹を蹴り上げられたときの、胃液がせり上がってくる感覚。背中を踏みつけられたときの、骨が軋む音。布団を被せられ、上から乗られたときの、息苦しさ。私の不満を溜め込んだタンクは、今にも爆発しそうだった。そんなときだった。私が「それ」に出会ったのは。
夜中に目が覚めた。体が痛くて夜寝られないのだ。痣がシーツと擦れるたびにズキズキと悲鳴を上げる。体を起こして階段を降りる。一階にはリビングとダイニングとキッチンがある。私はキッチンを目指した。冷蔵庫を開けて飲み物を探している時、飲みかけのビールを見つけた。昔、母が美味しそうに飲んでいたのを思い出した為か。気づいた時には口をつけていた。母はこれを飲んで不満を発散している。本当は飲んではいけないこれを私は飲んだ。私もこれを飲めば助かると思ったのだろう。
アルコールが血管に染み込み脳に達した瞬間、体がぐらりと揺れた。母に気づかれるわけにはいかない。私は、静かに床に座り込んだ。冷たいフローリングの床が私の肌から温もりを奪ってゆく。冷静ではなかったのだろう、自然と笑みが溢れていた。まるで、体が内側から溶けていくような、不思議な感覚。何故だかこの時だけは、全てから解放されたような気がした。日々の不満、苦しみ、悲しみ。それら全てを忘れさせてくれる、魔法の液体。その日から私は母の目を盗んではお酒を飲んだ。ハイボールの時もあればビールの時も、焼酎やウィスキーも飲んだ。飲んだ時の記憶は無くなるし、飲んだ日の翌日は必ず頭が割れるように痛くなった。それでも止めることは出来なかった。
どれだけの月日が経っただろうか。季節は冬になった。私の日々はいつも通りだ。朝昼晩と殴られて、夜にお酒を飲む。私はお酒を飲むたびにお酒に対して強くなってきているのがわかった。倒れそうになることは無くなった。無いとふらふらして逆に危なかった。お酒を飲み始めてからテストの点数は駄々下がりだ。元々悪かった成績は地を這いずり。留年寸前まで落ちた。それでもこの地獄から逃げる方法を私はこれ以外知らなかった。
友人は多くはなかった。数人と仲良くするような感じだった。「文豪ストレイドッグス」が好きな人たちが集まって仲良くなった。私は立原道造が好きだ。顔が格好良いんだよ。彼はギャップが良い。ポートマフィアにいる時は頼りないのに…「文豪ストレイドッグス」を知ってから、私は彼の詩を読むようになった。彼の夢と希望に溢れた世界観が音楽のような美しい言葉で紡がれているのを読むのは心地良かった。解釈などを彼女達と語り合うのは私にとって救いだった。
だけれども、お酒を飲み始めてからは話さないようになった。飲んでることがバレたく無いから。ポロッと母のことをこぼしてしまいそうだったから。仲良く語り合っていた彼女達は全員私から離れていった。私はそれでも良いと思った。不思議と寂しいとかは感じなかった。
或る日、先生から声をかけられた。「おい、茅場。大丈夫か?お前授業全然聞いてないだろ。きちんと聞いてくれよ。俺だって頑張ってんだから。成績がこれ以上下がったらお前留年するぞ。勉強付き合おうか?」私を心配しているのだろう。心配されているということ自体は、嬉しかった。でも、私は断った。
私は孤立していった。勉強なんて全くしなかったから授業にもついていけなくなって、授業中はいつも寝るようになった。「おい、こら!何寝てるんだ!起きろ!起きろ!」と怒られたりもしたけれど、何回も繰り返していたら、先生の方が折れた。惰眠を貪るようになって、余計に夜寝なくなった。そんな状態だったけど、学校には毎日行っていた。家にいたら、蹴られたり怒声が飛んで来るからだ。
或る日の朝、ふらふらになりながら、学校に向かった。その夜は一睡もしていなかったから、目も殆ど開いていなかった。どうせ学校で寝れば良いと思っていた。家から出てすぐの四つ辻でそれは起きた。キキーッと大きな音が私の目の前で轟いた。急ブレーキの音だった。時の流れが一瞬スローモーションになったように感じた。視界が車体で埋め尽くされる。
ドンッ!胸にぶつかる大きな音が辺りに響き、私は息ができなくなった。背中から地面に倒れた。それでも車の勢いは止まらなかったらしい。タイヤが私の体を押し潰す。メキメキと肋骨が砕ける音が身体中を反響する。紅い花の花弁が一面に散らばってゆく。口から紅い液体がとめどなく溢れ出す。酸素を吸いたくても肺が押し潰されて息が出来ない。次第に音が私の耳から遠のいていった。視界も黒く靄が掛かって見えなくなった。此処で死ぬのかぁ…少し、安心している私がいた。
私のいなくなった街はすぐに喧騒を取り戻した。私の家だけが時を止めたままだった。
お酒に酔っていた時の気まぐれだったのだろう。私の勉強机には、直接一編の詩が書き込まれていた。それは誰の目にも触れることなく。西向きの窓から差し込む光によって紅く照らし出されていた。
◆◇◆
夕闇迫る部屋の隅
母の怒声が木霊する
逃げ場のない心の叫び
握りしめた硝子の洋盃
淡い色の誘惑に
溺れるように口をつける
滲む視界、揺れる世界
刹那の安らぎを求めて
繰り返す日々に疲れて
私は今日も夜の帳に
溶けていく
◆◇◆
Ebrietas 椿谷零 @tubakiyarei155
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