一一章 初体験

 パクッ、と、マンガに出てくる擬音のような音を立てて、夕顔ゆうがお朝陽あさひ渾身の一作である目玉焼きを口に運んだ。

 その表情がまあ、大好きなケーキを前にした幼い女の子のよう。満面の笑顔で幸福感丸出し。見ているだけでこちらも心が温まり、幸せになるような表情。黄身はグチャグチャで白身は焦げているという不出来な目玉焼きを出してしまった当人でなければ、だけど。

 実際、自分でも納得いかない目玉焼きしか出せなかった朝陽あさひとしては、こんな表情で食べられるのはただただ申し訳ない気持ちでいっぱい。自分が食べるのも忘れて、ちぢこまっている。

 「おいしいっ!」

 と、これまた夕顔ゆうがおは幼い女の子のように無邪気で愛らしい表情で言ってのける。

 れっきとしたおとなの、それも絶世の美女がこんなにも素直で幸せそのものの笑顔を浮かべてのけるのだ。一目見た誰もが恋に落ちてしまうだろう。

 朝陽あさひも例外ではなく、その笑顔の破壊力にはかなりグラッときた。もし『不出来な目玉焼きを食べさせてしまった……』という後ろめたさがなければ、一発で恋に落ちていたにちがいない。それぐらい、夕顔ゆうがおの無邪気な笑顔には魔法めいた魅力がある。

 「……すみません。出来が悪くて。料理はあんまりしたことなくて」

 朝陽あさひはちぢこまったまま小さく口にした。実際には『あんまり』と言うよりも『ほとんど』と言うべきなのだが、そこはまあ『見栄』というものである。

 夕顔ゆうがおは、朝陽あさひの言葉に驚いたような顔をして見せた。本当によく表情がかわる。そのかわり振りを見ているだけで人生三周ぐらい余裕で行けそう。

 「なに言ってるの。本当においしいわよ」

 「でも、黄身はグチャグチャに潰れているし、白身は焦げてるし……」

 「それがなに?」

 と、夕顔ゆうがおは今度は怒ったような表情をして見せた。

 「わたしの大好きな嫁が心を込めて作ってくれたのよ。世界一おいしいに決まっているじゃない」

 ――だから、そういうのやめてぇ~!

 朝陽あさひは耳まで真っ赤になった。頭を抱えてテーブルに突っ伏したい気分。親が幼い子どもを褒める『アレ』だとわかっているので、ひたすら恥ずかしい。

 ともかく、ふたりそろっての朝食だというのに自分だけ食べずにいるわけにもいかない。第一、不出来な料理を他人様に食べさせておいて自分は食べずに逃れるなんて、失礼千万にも程があるではないか。

 と言うわけで、朝陽あさひも覚悟を決めて食べることにした。とはいえ――。

 ――これは、後回しにしよう。それぐらいはいいよね?

 と、さりげなく目玉焼きを遠ざけた。夕顔ゆうがおのあの笑顔を見たすぐにあとに焦げ臭いにちがいない目玉焼きを食べて、夕顔ゆうがおの優しさと愛情とを思い知らされる羽目になるのはやはり、避けたい。

 ――とりあえず、それは最後の試練にとっておいてまずは、これから……。

 朝陽あさひは薄くて、固くて、そのくせズシリと重い茶色いパンに手を伸ばした。これなら、もとからあったパンを焼いただけで自分で料理したわけではないから『マズくなっている』ということはないだろう。多分。

 パクッ、と、こちらも軽快な音を立てて一口、かじる。食べた瞬間、目を丸くした。驚きのあまり、口元を押さえた。いままで食べたことのないはじめての食感。

 皮は固いけれど、中身はしっとりしていて粘りけがある。薄いくせにズシリとした重い食感は、朝陽あさひの知るパンとはまるで別物。朝陽あさひの知るパンと言えば『軽くて、ふんわりしていて、甘味があって……』というもの。それなのに、このパンときたら……。

 ――なんか、酸っぱいんですけどっ!

 思わず、心のなかで叫んでいた。

 『酸味のあるパン』なんてはじめて食べた。

 ――これ、どういうこと⁉ まさか、あたしがさわったから腐っちゃったの⁉

 冷静に考えれば、いくらなんでもそんなことはあるはずがないとわかるところだが、このときの朝陽あさひはパニックに陥っていたので本気でそう疑ってしまった。

 ――あたし、そこまで料理へただったあっ⁉

 心のなかで泣きながら絶叫した。

 そんな朝陽あさひを、夕顔ゆうがおはキョトンとした表情で見つめている。このときの夕顔ゆうがおは年齢相応の落ちついたおとな女子という印象だった。

 「どうしたの? もしかして、ライ麦パンはじめて?」

 「ラ、ライ麦パン……?」

 「そう。ロッゲンブロートっていうライ麦一〇〇パーセントのドイツパン」

 「ライ麦パン……。これが」

 朝陽あさひは薄くて、固くして、ずっしりと重い茶色いパンをマジマジと見つめた。

 『ライ麦パン』というものがあることは知っていた。でも、実際に見たのはこれがはじめて。もちろん、いままでに食べたことはない。

 「ライ麦パンは小麦のパンみたいにふくらまないから見た目のわりにズシリと重いし、サワー種を使っているから酸味があるの」

 「酸味がある……。あ、ああ、そういうものなんですか」

 ということは、自分がさわったせいで腐ったわけではない、と言うことだ。

 ――よかったあっ~。

 と、心から安堵する朝陽あさひであった。

 「もしかして、朝陽あさひって、小麦のパンしか食べたことない?」

 「あ、はい。いつも、白くて柔らかいパンばっかりでした」

 そもそも、ライ麦パンなんてスーパーのパンコーナーでも見た覚えがない。

 夕顔ゆうがおは『チッチッチッ』と、人差し指を振りながらたしなめる表情になった。

 「ダメよ、朝陽あさひ。白い小麦のパンなんて食べちゃ。生成された白い食べ物は美容の大敵。パンを食べるなら未精製のライ麦パンや全粒粉を使った茶色いパンでなくちゃ」

 「そういうものなんですか?」

 「そうよ。世界の美女は、パンに限らず白い食べ物なんて食べないわよ」

 言われてみれば、昨日の朝食にでたご飯も玄米だった。

 「未精製の茶色い穀物の方が栄養が残っているし、消化するためにより多くのエネルギーを使う。つまり、同じカロリーを食べても未精製の穀物の方が太りにくい、スタイルを維持しやすいっていうわけ。朝陽あさひはせっかくかわいいんだから食べ物にも気を使って、美貌を維持しなくちゃダメよ」

 ――美貌なんて言うほどのものじゃないけど。

 『美貌』などと言うたいそうな言葉はやはり、夕顔ゆうがおのような文句なしの美女子に使うべきもの。自分のように『学校のなかではかわいい方』という程度の女子に使うべき言葉ではない。

 「夕顔ゆうがおさんは食べ物にも気を使ってるんですね」

 「当たり前よ。食は人生の基本。人間の体は自分の食べたものでできているんだから。きちんと調べて、食べるものを選ばないと。なんでもかんでも食べていたら容姿も衰えるし、健康にも悪いわ」

 夕顔ゆうがおは驚くぐらい真面目に言いきった。その表情から見える本気度が怖いぐらい。

 ――やっぱり、夕顔ゆうがおさんぐらいの美女子になると色々、気を使っているんだなあ。

 きっと、学校帰りにファーストフード……なんていうことは一度もしたことがないのだろう。自分はしょっちゅう、友だちとやっていたけど。

 ――そんな楽しみもなくなるぐらいなら、あたしは絶世の美女子になんてなれなくていいや。

 と、あっさり白旗を掲げる朝陽あさひであった。

 ――でも、と言うことは毎日の朝食もメニューが決まっていたりするのかな? だとすると、勝手に用意して悪いことしちゃったな。

 『世話になるのだからそれぐらい……』という善意だったけど、美容の『び』の字も知らないような素人に用意されてはかえって迷惑だったかも知れない。

 ――今度は、ちゃんと教わってから作ることにしよう。

 そう心に誓う朝陽あさひであった。

 「そう言えば、夕顔ゆうがおさんって仕事はなにをしているんですか?」

 「ん? なに、急に?」

 「あ、いえ、食事にもそんなに気を使うなんて、見た目が大切な仕事なのかなって思って……」

 「ああ。たしかに、見た目が重要な仕事ではあるわね」

 ――やっぱり。

 と、朝陽あさひは納得した。

 ――こんな美女子なんだもの。きっと、グラビアアイドルかコスプレイヤーなんだろうな。夕顔ゆうがおさんなら水着姿をネットにあげただけで、こんな大きな家に住めるぐらい稼げるだろうし。

 そう思ってからふと、気づいた。

 ――そう言えば、あたしはこれからどうすればいいんだろう?

 一〇〇年以上の眠りから覚めたばかりとあって、すっかり忘れていた。しかし、このままなにもせずに夕顔ゆうがおの世話になりっぱなし……というわけにはいかない。

 両親と夕陽ゆうひが貯金を積み重ねてくれていたおかげで、働かなくても食べていける程度のお金はある。だからと言って、その金に頼ってダラダラ生きるわけにはいかない。そんな人生を送っていては、自分を生かすために苦労してくれた両親に対して申し訳なさすぎる。

 「あの、夕顔ゆうがおさん」

 「なに?」

 「この時代に、あたしにもできそうな仕事ってありますか?」

 「仕事?」

 夕顔ゆうがおはライ麦パンをくわえたままキョトンとした表情を浮かべた。そんな無邪気な仕種がまた反則的にかわいらしい。

 「はい。このままなにもせずに夕顔ゆうがおさんのお世話になりっぱなしっていうわけにもいかないですから。なにか、仕事を見つけないと」

 「わたしとしては、わたしのかわいい嫁でいてくれるだけで充分なんだけど」

 「そういうわけにはいきません」

 朝陽あさひもこのときばかりは胸を張って、憤然として答えた。そんなヒモみたいな人生を望んでいるわけではない。

 一〇〇年以上もたっていれば自分の時代とはなにもかもちがっているだろうからいきなり働くということはできないかも知れない。学校からやり直さないといけないかも知れないが、とにかく、将来的にはきちんと自分で稼いで、自力で生活できるようになりたい。

 「そうねえ……」

 夕顔ゆうがおはいかにも甘い味のしそうな薔薇色の唇に指を当てて考え込んだ。

 「じゃあ、とりあえず、わたしの職場見学でもしてみる?」

 「職場見学? 夕顔ゆうがおさんの?」

 「そう。あなたを迎えるために、しばらく有休をとっていたんだけどちょうど今日から復帰だから」

 「えっ、でも、素人がスタジオなんかに行ったら邪魔になるんじゃ……」

 「大丈夫だいじょうぶ」

 夕顔ゆうがおはライ麦パンをかじったまま、片手をパタパタ振って見せた。

 「今日は撮影とかはなくて、オフィス仕事だから」

 ――ああ、そうか。グラビアアイドルだって撮影の日ばかりじゃないよね。オフィスでの打ち合わせとかあるはずだもんね。

 グラビアアイドルの仕事が自分にとってなにかの参考になるとは思えない。それでも、ひとりで家に残ってぼんやりしているよりははるかにマシだ。それに、アイドルではなく、アイドルを支える裏方仕事の方なら自分にもできることがあるかも知れない。

 「はい。お願いします、夕顔ゆうがおさん」

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