一〇章 嫁にもらわれたいわけね?

 清新な日の光が差し込み、鳥たちのさえずりが聞こえる朝の一時。

 朝陽あさひの姿は夕顔ゆうがお家のキッチンにあった。エプロンをつけて、コンロの前に立っている。感心なことに朝食を作っているのである。

 結局、夕べはのぼせたまま寝入ってしまった。朝になってみると、夕顔ゆうがおにしっかりと抱きしめられており、しかも、豊かな胸のふくらみに顔を押しつけられて息苦しさで目が覚めるという、世の男子諸君には夢のようなシチュエーション。

 実際、なにやら息が苦しいと思って目を開けると、密着状態の胸の谷間が目に入り、ふたつのふくらみの間に顔が埋まっていることに気がつくというのは相当に刺激的なものがある。

 一瞬、パニックになりかけたが、軟らかな肉に口元まで押しつけられていたので声が出なかった。それが幸いして、夕顔ゆうがおを起こさずにすんだ。ほとんど拘束しているかのようにしっかりと力強く抱きしめている夕顔ゆうがおの腕をそっとほどき、起こさないように静かにベッドからはなれた。

 服を着替え、顔を洗い、歯を磨き、髪を整えた。それからキッチンに入り、エプロンをまとって朝食作りにとりかかったのである。

 ――居候なんだし、やっぱり、それぐらいはしないとね。

 料理の経験はほとんどないが、夕顔ゆうがおに世話になりっぱなしというのはいくらなんでも肩身がせますぎる。少しぐらいは役に立ちたい。

 自分でも料理できる食材はなにかないかと探してみたら、冷蔵庫のなかに卵が一ダースばかり入っていた。これには正直、ホッとした。

 ――あたしにまともに作れるものといったら目玉焼きぐらいだもんね。

 一六歳女子として少々、恥ずかしさを感じながらそう思う。

 夕陽ゆうひの前では常に『お姉ちゃんでいないと!』と、気を張ってきた朝陽あさひだが、こと家事に関しては家事上手の母親に任せっきりでほとんど経験がない。夕陽ゆうひもまた母親任せだったので、この点において手本になる必要がなかったという理由もある。

 ――でも、夕顔ゆうがおさん、言ってたな。夕陽ゆうひにあたしの好きな料理を教わったって。

 と言うことは、自分が眠りについてから料理を学んだということなのだろう。母親について必死に練習したのにちがいない。いつかきっと目覚めるのはずの姉。その姉を好きな料理で迎えてあげたい。その一心で。

 そう思うとしんみりした気分になり、泣いてしまいそうになる。

 頭を強く振って気分を切り替える。グズグズしてはいられない。夕顔ゆうがおが起きてくる前に朝食の準備をしておかないと。

 さらに探してみると一通りの野菜と色とりどりの花があった。料理には縁のない朝陽あさひだが、お洒落なケーキなどで見てエディブルフラワーの存在ぐらいは知っていたので、この花も食べられるのだろうと判断した。

 ――野菜と一緒にしまってあったし、このままサラダに使っちゃっていいのよね?

 これらの花々にはナスタチューム、ボリジ、マリーゴールド、カモミールといった名前があるのだが、朝陽あさひがそんなことを知っているはずもない。

 ちなみに、カモミールの花は食用というよりはハーブティー用なのだが、朝陽あさひにはそんなことはわからない。一緒くたにサラダの材料にしてしまった。

 他には、小さくて、薄くて、茶色いパンがあった。こんなパン――パンだろう、恐らく――は、見たことがなかったけれど、ご飯を炊かなくてすむのは助かる。正直、ご飯を炊いたことなんて小学校の調理実習のときぐらいしかない。

 この時代の炊飯器の使い方なんて誰にも教わっていないし正直、まともにご飯を炊ける気がしない。

 ともかく、ど素人なりに義務感に駆られて朝食の準備をはじめた。

 フライパンをコンロにかけて熱し、油を引いて、卵を割り入れる。他になにも用意できないことを考えてひとりふたつずつにした。

 ジュージューと音を立てて卵を焼いているうちに緑の葉を皿に盛り、その上に色とりどりの花を散らしてサラダを作った。葉っぱの種類なんてわからないのでとにかく全部、適当に放り込んだ。なので、味に関してはまったく見当がつかない。

 それでも、花をふんだんに使ったおかげで見た目的にはかわいいし、華やかだし、なんとも女の子っぽい。ひな祭りのご馳走に添えるのにピッタリという感じの見た目に仕上がった。それを見た朝陽あさひは、

 ――あたし、けっこうセンスある?

 と、ちょっとばかり自惚れた。

 パンをトースターにいれて、焼きあげ、皿に乗せてテーブルに並べる。その頃には目玉焼きも焼きあがっていた。いたのだが……。

 こちらは残念ながら『自惚れさせてくれる』出来とはなっていなかった。全体の形はいびつだし、黄身の部分はくずれているし、白身は焦げているし、そのくせ、黄身の方はまだグチャッとしたまま。

 見るからに不格好な仕上がりで、朝陽あさひとしては思わず冷や汗を流してしまった。

 ――で、でもまあ、目玉焼きは半熟を好む人もいるしね!

 そう言い訳しながら皿に盛り、テーブルに並べる。

 ――お母さんの目玉焼きは形もまん丸だったし、焼き具合もきれいだったなあ。どうやったら、あんなふうにきれいに焼けるんだろう。

 少しぐらい、料理を教わっておけばよかった。

 そう思う。けれど、それはもう決して叶わない願い。自分はあの頃のままなのに母はもういない。二度と会えない……。

 朝陽あさひは浮いてきた涙を拳でグイッとふきとった。

 朝から泣き顔なんて見せられない。

 ともかく、朝食の準備はできた。あとは、夕顔ゆうがおが起きてくるのをまつだけ。

 ――って言うか、起こしにいこうか。

 朝陽あさひがそう思ったそのときだ。

 「朝陽あさひ、どこ⁉ どこ行っちゃったのおっー!」

 驚天動地の叫びが響いた。

 それはもう、この大きな家全体がビリビリと震え、朝陽あさひの全身がブロンズ像のように硬直してしまうぐらいのすごい叫び。

 お昼寝から目覚めたときに、隣にいたはずの母親がいないことに気づいて泣き出す幼女のような、それを、声だけおとなのものにしたような悲鳴だった。

 家も大きければ、隣近所との距離も遠いといういまの時代だからまあいいが、朝陽あさひの時代のアパートででも響こうものならまちがいなく、『うるさい!』とどなり込まれるレベル。

 それから、慌てふためいた足音が近づいてくるのが聞こえた。慌てているのに『ドタドタ』などという不格好な音ではなく、軽やかで音楽的な響きに聞こえる。グラビアアイドル並の美貌に対する朝陽あさひの先入観のためか、それとも、それだけ体の使い方がうまいのか。その両方かも知れない。

 夕顔ゆうがおが動物のシルエットがいっぱいプリントされた淡いグリーンのかわいいパジャマを着たまま、顔も洗わず、髪もとかさず、青ざめた表情でキッチンに飛び込んできた。そんな姿でもやはり魅力的なのが人並み外れた美貌の功徳というもの。

 夕顔ゆうがお朝陽あさひを見て、ホッと安堵の息をもらした。その様子は本当に心から『安心した!』という感じで、ひとりで起き出してきたことに罪悪感を感じてしまったほどだ。

 夕顔ゆうがおの安心感はたちまち怒りに変じたらしい。頬をふくらませ、両手をギュッと握りしめ、思いきり体を伸ばす。

 「もう! なんで、先に起きちゃうの⁉」

 その仕種といい、口調といい、まるっきり五、六歳の幼い女の子そのもの。『絶世の』と言ってもいいほどのおとな美女子がそんな子どもっぽい姿を見せるのだ。もうたまらなくかわいい。朝陽あさひも思わずドキリとしてしまった。

 夕顔ゆうがおは怒り心頭という感じで叫んだ。

 「おはようのチューで起こしてあげるつもりだったのにぃっ!」

 ――そこかい!

 思わず、心のなかでツッコむ朝陽あさひであった。

 「おはようのチューてっ……なんで、そんなことになるんですか⁉」

 実は、その予感があったからそっと起き出したのだが。

 夕顔ゆうがおは世の絶対真理を説くがごとくに答えた。

 「愛する夫は毎朝、おはようのチューで起こしてあげる。それが、妻の掟でしょう」

 「だから、どこの掟なんです⁉ そもそも、夕顔ゆうがおさんはあたしの妻じゃないし……」

 その言葉に――。

 夕顔ゆうがおはたちまち身をちぢめて口元に手を当て、両目をウルウルさせた。この変わり身の早さ。まちがいなく女優としてやっていける。

 「……ひどい。わたしを妻にしてくれないなんて。ずっと好きだったのに。運命の人だって信じて、まっていたのに」

 「だから、卑怯だよ、あんた!」

 夕顔ゆうがおのあざとかわいい仕種を見せつけられて、朝陽あさひはたちまち体温沸騰。思わず、顔を真っ赤にして叫んでしまった。

 そんな朝陽あさひの態度に、夕顔ゆうがおはケロッと表情を一変させた。本当に、ネコの目のようにクルクルとよく表情がかわる。この表情の多彩さ、これなら写真集の一〇冊や二〇冊、簡単に出せそう。

 夕顔ゆうがおは納得顔で両手を打ちあわせた。

 「あ、なるほど。つまり、朝陽あさひは嫁をもらうより、嫁にもらわれたいわけね?」

 「そ、そりゃ、女の子だし……って、ちがう! そういう問題じゃなくて……」

 朝陽あさひは抗議の叫びをあげたが、夕顔ゆうがおは聞いていない。右手を豊かな胸のふくらみの上において背筋を伸ばし、堂々と宣言した。

 「だいじょうぶ。わたしは受けも攻めも両方イケるから。責任もって、朝陽あさひを嫁としてもらい受けるわ」

 そう宣言する表情がキリッと引きしまり、たちまち王子さま顔になる。

 グラビアアイドル並の美しい顔立ちだけに、こうして凜々しい表情を浮かべると本当に様になる。宝塚の男役というか、ファンタジー世界に登場する女騎士というか、とにかくそんな感じ。

 その凜々しくも美しい姿に朝陽あさひは心臓がでんぐり返り、真っ赤になってしまう。

 「うんうん。それならそれでかわいくて良き! そう言えば、エプロン姿も似合ってるわあ。世界一かわいい、わたしの嫁ね。朝陽あさひ、大好き!」

 そう言って、満面の笑顔で抱きついてくる。スリムなくせに出るべきところはしっかり出ているその肉体の感触は、それはそれはすばらしいものであったけど……。

 「胸に顔を押しつけないで! 窒息しちゃう~!」

 世の男子全員が羨む朝陽あさひの悲鳴が家のなかに響いたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る