第16話
車に乗り込み座席に深く沈み込む。ふーと、息を吐いて大きく深呼吸。緊張していた体へ酸素を送る。やはり保護者との会話は慣れない。
三者面談なんかも苦手だ。
世の中にはモンスターペアレントなんて類もいて、子どものすることの責任を全面的に教師に押し付けてきたりする。
倉賀家はそういう類の人々とは違うが、どうしても破れない大きな壁を感じる。
家族とそれ以外を隔てるような、大きな壁。そして、その壁の中は平和なのだと信じて疑わない。壁の中で息苦しさを感じることを許されていない。
でも、あの子を救えるのは家族しかいないのだ。自分には、その権利がない。
家族か、あるいは……。
「あ」
朝倉は重大なことを忘れていたことに気がついた。
あいつに残念なお知らせをしなければならない。
明日からの特別授業のお知らせだ。
「はぁ……」
朝倉先生との早朝マンツーマン授業からやっと解放された。クラスメイトたちが続々と登校してくる。窓の外をぼんやりと眺めると、意味不明な化学式が空をくるくると舞っている。
ついに幻覚まで見え始めてきたらしい。
心の病に違いない。
すぐに、朝倉先生に補習をやめるように取り合わないと。
そう思い、椅子から立ちあがろうとしたが、今からまた朝倉先生の顔を見るのも嫌だ。
どうせ、軽くあしらわれるだけだ。
俺はぐったりと脱力して机にうなだれた。
「なんだよ。やけに疲れてるな」
頭上から爽やかな男の声がした。
「こいつは悟史。俺の友人だ。サッカー部に所属している。今日も朝から、校庭で健全な球蹴りしていい汗をかいてきたんだろう」
「それは心の声か?」
「うん」
「うん。ってお前」
球蹴り少年悟史は、ジャージ姿のまま俺の前の席に腰掛けると、おもむろにジャージを脱ぎ始めた。悟史が教室でジャージから制服に着替えるのは毎日のことだが、こちらとしては朝から男の着替えなんぞ見とうない。
とはいえ目をそらすのも億劫で、目の焦点をずらしてセルフモザイクをかけてやった。ぼんやりと見える、悟史の上半身はだいぶ日に焼けていた。
もうそんな季節か……。
「と、男の裸を眺めて俺は夏のおとずれを感じたのだった」
「頭大丈夫か?」
悟史が呆れたように俺の頭を小突く。
「今日 、朝補習だったんだってさ」
いつのまにか俺の背後に立っていた弘が悟史にそう言った。
「補習?まさか、成績悪すぎて?」
「そう。しかも朝倉先生と二人きりだってさ」
「キッツ」
悟史は憐れみの目を俺に向ける。
「なんで知ってるんだよ弘」
と、問うと弘はフッと鼻で笑った。
「俺も誘われたからだ」
弘が自慢げに言う。
え?弘も誘ったなんて聞いてないんだけど。
「誘われたって、朝倉先生に?」
俺がそう尋ねると、弘はコクリとうなづいた。
「そう。創1人だったら寂しいだろうから俺も来ないか?って」
「で、なんて答えた?」
「『嫌です!!』」
薄情な奴だ。
弘だって下から数えた方がはやい順位のくせに。
俺はプイッと弘から顔を背けた。
「で?昨日はどうだったんだよ。植物園」
弘が俺の背後から腕を回し、俺の首を締め付ける。生殺与奪の権を握られてしまった。
「うん。楽しかったよ」
俺がそう答えると、二人はものすごく驚いたような顔で俺を見た。
「え?なに?」
「どうした?何かあったのか?」
弘が俺の顔を心配そうに覗き込む。
「また告白してふられたのか?」
悟史が悲しそうな目で尋ねてくる。
なぜそうなるんだ。
「別になにも……なかったよ」
「吃ったな」
と、弘。
「やっぱりなんかあったんだな」
と、悟史。
「なんで、そうなるんだよ」
別に嘘なんて言っていないのに。
「だってお前、倉賀先輩の話題だすと急に元気になるじゃん。なのに……今日は普通じゃねぇか」
「うんうん」
弘の言葉に大きくうなづく悟史。
「あー、そうかな?補習で疲れたからかも」
本当にそうなのだが、悟史と弘は顔を見合わせて怪訝な顔をしていた。
「そんなおかしい?」
俺の問いかけに二人は力強く頷く。
「ま、俺も大人になったんだよ。デートの一つや二つで大喜びしたりしない」
本音を言えば、メイと植物園デートをできたことはすごく嬉しかった。
だけど、メイの様子が気にかかってしまった。合唱部を辞めたこと、大学に進学するつもりがなさそうなこと。俺の知らないメイがそこにいるような気がして、素直にあの瞬間を楽しむことはできなかった。
「逆に怖い。お前が大人になるわけない」
バシバシと弘が俺の机を叩く。
「てっきり今日はシンバル叩きながら喜んでるもんかと」
と、悟史。
こいつらの目に、俺はチンパンジーとして映っているのだろうか?
「さてと、ちょっとトイレいってくる」
失礼な2人の友人を無視して、俺は伸びをしながら席を立った。
「もうすぐチャイムなるぞ?」
悟史に引き留められる。
「次の授業、朝倉先生でしょ?トイレ行ったって言っておいて」
そう言って、俺はあくびをしながら教室を出た。朝補習のせいで睡眠時間が足りない。眠い。
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