第一部 陰謀の渦中へ
01 ノールの歌姫
まだ雪の残る小麦畑に、小麦のもみ殻を黒く焦がしたのを撒く。
少しでも早く雪を溶かし、畑を起し、種を蒔きたいがためだ。
このノールの西、帝国との国境でもある山々の東に広がるこの土地で古くから行われている、春の風物。
白い手を真っ黒にしながら、ノラは駕籠の黒いもみ殻を撒き続けていた。
真っ白な頂上の連なる西の山々から吹き下ろす風は、まだ冷たい。すでに山の稜線に陽が落ちかけている時刻なれば、その寒風はなおさらノラの手を厳しく痛めつけた。
黒の上着に同じく雪を引きずるほどに長い黒のスカートは、白い雪の上に映えた。
黙々と、ただひたすらに黒いもみ殻を撒き続けるノラも、時折通りかかる一頭だけのロバの曳く黒い幌の馬車や、馬格の貧弱な馬を御した者が通りかかる度に手を止め、真っ白な広い庇の被り物を汚れていない手の甲で上げ、その美しい白い顔を晒し、緑色の瞳を雪と泥の入り混じった小道に向けた。
共に黒がらを撒く父に見られていることも承知していた。それでもノラは、車輪や馬蹄が泥を踏み掻き上げる音がするたびに手を止め、道の彼方を見た。
ノラは待っていた。ただひたすらに、待っていた。
待っていることを父に知られるのも厭わず、待っていた。
「ノラ」
彼女と同じ黒い木綿の粗末なジャケット。そして同じく黒のダブダブのトラウザーズの父が彼女を呼んだ。
「もう、陽が落ちる。今日は、このぐらいにしよう。帰るぞ」
「はい、お父様」
父の言葉は、絶対。逆らうことは許されなかった。それがどんなに些細なことでも、従うのがこの土地に生きる者の掟だった。
しかし、ノラは振り向いた。
もしかすると今、彼はあの山を越えているかもしれない! 今、ノラが身を翻して背を向けたその瞬間に、西の山に続くこの道の彼方に現れるかもしれない!
そうして二度、三度、背後の西を顧みつつ、父の後について、ノラは家路を歩いた。
腰の高さまでレンガを積んだ上に古びた樫の木を組みその壁を白の漆喰で固め、屋根を板で葺いただけの簡素な家。
夕飯のスープを煮込みパンを焼くかまどの煙が立ち昇る。
そうした、同じような家が点在する村落の一軒が、ノラの家だった。
「天にまします我らの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国(みくに)を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日々の糧を今日も与えたまえ。
我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救いいだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン」
「アーメン」
「願わくはわれらを祝し、また、主の御恵みによりてわれらの食せんとするこの賜物を祝し給い、われらの心と体を支える糧となしたまえ。
われら主のいつくしみに感謝しこの夕餉を食せん。
われらの主、イエス・キリストによって。アーメン」
「アーメン」
朝食も夕食も、必ず家族全員が食卓に集い、神への祈りを捧げる。
祈りは一家の長である父親が行い、全員が唱和する。
ノラは、父と母、そして市場へ山で狩ったシカとウサギの肉を売りに行った兄が帰宅して、共に祈りを捧げた。
少量のジャガイモと野菜を煮込んだスープ。パンとヤギの乳で作ったチーズ。そしてヤギの乳。それが夕食の献立の全てである。肉は飼っているヤギやロバや馬が死んだときだけ、彼らが神に召されたのを祝福し神に感謝し、食べる。
食事中は無言。言葉を交わしてはならない。神の恵みに感謝しながら黙々と食せねばならない。
そして食事が終われば食後の祈りを捧げる。
「父よ、感謝のうちにこの食事を終わらん。主のいつくしみを忘れず、すべての生きとし生ける者の幸せを祈りつつ。
われらの主、イエス・キリストによって。アーメン」
「アーメン」
「ノラ・・・」
食事の後は蝋燭の節約のため早めにベッドに着く。
今日も自分の部屋、といっても兄と隣り合わせでただ薄い布を天井からぶら下げて仕切っただけの間で寝間着に着替えベッドに就き、就寝前の祈りを捧げようとしていたところを、父に呼ばれた。
「はい、お父様」
ノラは再び食卓に着き、父と対峙した。そして食器を取り片付けていた母が席に着くのを待った。
「ノラ。
お前はまだ、あの男に執心しておるようだな」
昼間畑に出ていた間は巻き上げていた長い金髪は三つ編みにして右胸の上に垂らしていた。外出時にする黒いリボンは解いている。父もまた、白髪の混じった金髪を束ねて後ろにしていたがやはりリボンは外していた。父の額と頬に刻まれた深い皺に、彼の怒りが籠っていた。
けっして我が事で怒ってはならない。
それがこの里に棲む者の掟であるから父は耐えているのだ。だが、彼のその怒りは容易に見て取れた。
父の背後の壁には猟銃が2丁掛けられていた。その黒い銃身が食卓の上にあるランプの光で鈍く揺れていた。
「いいえ。もうペールのことは忘れました」
「お前は執心しただけでなく、掟も破るのか。家の者から縁を切られ、里を追われた者の名を口にし、そのような嘘まで吐く。
忘れたとお前は言うが、それは嘘だ。私にはわかるぞ。神もとうにお前のその醜い執心と嘘を見抜いておられる」
ノラには返す言葉がなかった。父の言葉に逆らってはならない。それもこの里の掟だからだ。
「共に神に祈り、お前の罪を赦したもうことを願うとするが、もう一度お前に命じる。
これが最後だぞ、ノラ。
あの男のことは忘れるのだ。完全に。一切名も口にしてはならぬ。あの男を想う歌も歌ってはならぬ。讃美歌以外の歌は掟で禁じられているのは知っておるだろう」
母も父と同じだった。厳しい山の寒さを宿したような瞳でノラを見つめていた。
「よいか、ノラ。わかったな?」
「・・・はい、お父様」
ノラには、そう答えるしか術(すべ)はない。
「よし、では共に祈るとしよう」
そして父と母、ノラは卓の上に両手を組み、神に祈った。
「天にまします我らの父よ・・・」
だが。
ノラの小さな胸の中には神をも焦がすほどの熱い滾りが残っていた。それは彼女の父にも、彼らの神さえも消すことのできない情熱の、灼熱の炎だった。
次の日の朝。父と共に畑に出たノラは、朝日に照らされた西の山に続く道の彼方に、懐かしい、待ちに待った愛しい男の影を見出した。
「ペール!」
あられもない声を上げたノラは、全てを投げ出してその影に向かって走り出した。
もう誰にも彼女を止めることは出来ぬように思われた。
父は娘のその姿に長い嘆息を吐き、天を見上げて神に呼びかけた。
「天にまします我らの父よ。
たった今、私は娘を一人、失いました。
これは試練ですか? それとも私の罪あるがためなのでしょうか」
そしてノラは家族を失い、里を追われた。
日々の糧を与えてくれる場所を失った少女は、街へ、都へ向かうしか、途がなかった。
アサシン・ヤヨイシリーズひとくちメモ
16 「ソルヴェイグの歌」解説
このほど連載を開始した「ソルヴェイグの歌」について、いささか解説、ウンチクをたれたいと思います。
この「ヤヨイ」シリーズは、まずアルファポリスにおいて第一作目から第三作目まで「SF」カテゴリーに投稿していましたが第四作は「恋愛」にしました。
ですが、このノベプラにおいては、全て「歴史」に統一することにしました。
テーマが「恋愛」とか「結婚」とかになってしまい、今までのミリタリー風味はあまりありません。そこはよろしくご了承のほどをお願いいたします。
まずこの「ソルヴェイグの歌」という題名ですが、プロローグあとがきに記した通りで、チョットだけ付け加えますと、あの全国の高校演劇部の女子が一度は演じてみたいと思うノラ、
「私はあなたの人形だった!」
のセリフで有名な「人形の家」という戯曲を書いたヘンリック・イプセンの作になる「ペールギュント」という作品が元、というか下敷きというか、です。これにノルウェーの代表的作曲家、エドヴァルド・H・グリーグが曲をつけ楽劇として完成を見たわけです。
その「ペールギュント」に登場する、主人公ペールを一途に思う女の子ソルヴェイが歌うアリアが「ソルヴェイグの歌」なのです。
日本では「朝」と並んでグリーグの代表作とされています。超有名です。
YouTubeで検索するとノルウェー語で美しい歌声を披露するシセル・シルシェブーsissel kyrkjeboの動画を視聴できます(下にURL載せときます。今はおばちゃんですが彼女の若かりしころの映像でかわいいんじゃマイカと思われます。声もキレイです)。
プロローグで散文詩風に大まかな筋を書きました。
原作は要は、あまりに誇大妄想狂に過ぎた「ええカッコしい」の男が目立とうとしていろいろやって、女にも滅多やたらに手を出してだらしなくて、結局ダメで、社会からも地元からも見放されて全てを失って死んでしまう。
が、それでも彼を一途に思う女の子がいて、最後は彼女の膝に抱かれてあの世に行ける、というところに僅かに希望を見出せるといった、あまり救いのない全体的に暗い話なのです。
ですが、この作品。
現代にも相通じるところがある奥の深い話でもあると思いますし、グリーグの豊かな、民族性の高い素晴らしい音楽が独特の雰囲気を醸し出している名作だと思います。北欧の芸術というのは、演劇でも音楽でも絵画でも、どこか人間性の奥の奥を穿ったような、そんな作品が多いですね。
さて、このヤヨイシリーズのほうの「ソルヴェイグの歌」ですが。
今回の舞台も帝国ではなく外国です。一作目が北、二作目が南の海、三作目が西、ときましたので、四作目は東にした、というわけでもないのですが、シリーズ的にそうなっちゃいました。
舞台となる「ノール王国」は「帝国」同様、ポールシフトによって起こった大災厄で故国を捨てざるを得なかった北欧の人々を先祖とする架空の王国です。何もかも失って陸路を彷徨いつつ今の地に辿り着いた帝国の人々と違って北極海の沿岸伝いとか北極海を海路で移動して来た人々の末裔たち、という設定です。
着の身着のまま、すっからかんでやってきて一から全て作らねばならなかった帝国の人々はその国のありようや習俗を古代ローマに倣って作りましたが、ノールの人々は船で避難できたせいか比較的余裕があったらしく、その習俗もどこかかつての母国を反映した、北欧が政治的中立を政策にする前の、最も活動的だった近世から近代の習俗を維持している設定にしました。一神教であるキリスト教を国教にしているのも同じです。北欧の国の国旗はどれも十字架が入ってますね。
前説的な記述が長くてちょっとイラっとする方もいらっしゃるかもしれませんが、中盤くらいからヤヨイのミッションとノラの恋愛部分がメインになってきますので、よろしくお付き合い下さい。
また、前回のように50万字を超えるような大作にはなりません。その半分くらいになる予定です。
【ノルウェー語】ソルヴェイグの歌 (Solveigs sang) - ペール・ギュント (日本語字幕)
シセル・シルシェブー(Sissel Kyrkjebø)による1993年の歌唱。
ttps://www.youtube.com/watch?v=WRsE5QI_TZE
ちなみに、ほんとうは、ムギのタネのまき時は秋ですね。
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