第5話 封じられた声


「……私、誰?」


美月は自宅のアパートのバスルームで、鏡に映る自分の顔をじっと見つめていた。昨夜の出来事から一晩が経過していた。警察に行き、全てを話し、証拠の報告書を提出した後、彼女は疲労困憊で家に帰ってきたのだ。


鏡に映る顔は確かに自分のものだった。しかし、どこか違和感があった。目の奥に何か別のものが宿ったような、そんな感覚。


「気のせいよ」


美月は自分に言い聞かせるように呟いた。しかし、その声さえも少し違って聞こえた。少し低く、少し柔らかく。


昨夜の地下で見た光景。自分と瓜二つの顔をした水無瀬透子の遺体。そして、桐生の言葉。


「彼女が選んだんだ...水無瀬さんは、あなたを選んだ」


何を意味する言葉だったのか。美月は頭痛がするのを感じた。時計を見ると、もうすぐ夜勤の時間だった。休暇を取ることも考えたが、事態が明るみに出た今、病院には行かねばならない気がした。


シャワーを浴び、制服に着替える。全てが機械的な動作に感じられた。体が自動的に動いているような感覚。


バスルームを出ようとしたとき、鏡の中の自分が一瞬、別人に見えた気がした。


「水無瀬さん...?」


返事はなかった。しかし、背後から何者かが近づく気配がした。美月は背筋を凍らせ、ゆっくりと振り返った。


しかし、そこには誰もいなかった。


---


病院に着くと、異様な緊張感が漂っていた。警察の捜査が始まったことで、スタッフたちは動揺している様子だった。ナースステーションでは看護師たちが小声で話し合っていた。


「小鳥遊さん、来たの?」


看護師長の村瀬が驚いた様子で美月に声をかけた。


「はい...仕事ですから」美月は平静を装った。


「でも...事情聴取とかまだ続いてるんじゃ...」


「大丈夫です」美月は微笑んだ。それは自分でも不思議なほど自然な笑顔だった。「私は真実を話しただけですから」


村瀬は複雑な表情をした。「そう...」


美月は更衣室に向かった。途中、スタッフたちの視線を感じた。噂はすでに広まっているのだろう。森谷病院長は緊急入院したという話も聞こえてきた。あの夜、306B号室で何かを見て取り乱したらしい。


更衣室で制服に着替えながら、美月は思った。


「これで終わりなのかしら...」


すると、自分の口から別の声が出たような気がした。


「まだよ...」


美月は驚いて周囲を見回したが、更衣室には誰もいなかった。自分の幻聴だろうか。それとも...


更衣室を出ると、茜が待っていた。


「美月!大丈夫?」


茜は心配そうに美月の顔を覗き込んだ。


「ええ、大丈夫よ」美月は答えた。「警察はどうなった?」


「調査が続いているわ」茜は小声で言った。「病院側は全面的に協力すると言ってるけど、森谷病院長は精神的ショックで入院中だって」


「桐生先生は?」


「休職処分になったらしいわ。でも、警察は彼の証言を重視しているみたい」


二人はナースステーションに向かった。業務の引き継ぎを受け、夜勤が始まった。通常通りの作業。点滴の交換、バイタルチェック、患者の様子確認。しかし、全てが不思議なほど遠くのことのように感じられた。


深夜0時を回ったころ、美月は306号室の前を通りかかった。ドアの前で立ち止まり、じっと見つめた。


「入ってみる?」


振り返ると、桐生が立っていた。彼は休職中のはずだったが、病院に来ていたのだ。


「桐生先生...なぜ?」


「君に会いたかったんだ」桐生は疲れた表情をしていた。「そして...彼女にも」


「彼女...?」


「水無瀬さんだよ」桐生は真剣な眼差しで美月を見た。「君の中にいる」


美月は言葉に詰まった。自分でも感じていた違和感。それは単なる心理的なものではなかったのだ。


「どういう意味ですか?」


「地下で君が彼女の遺体に触れた時、何かが起きた」桐生は静かに説明した。「彼女の...何と言えばいいのか...記憶、意識、そういったものが君に移った」


「そんな...」


「信じられないかもしれないが、私には分かる」桐生は306号室のドアに手をかけた。「さあ、入ろう」


美月は躊躇したが、何かに突き動かされるように桐生の後についていった。


306号室の中は暗く、静かだった。使用停止のままで、ベッドもなく、医療機器も撤去されていた。月明かりだけが窓から差し込み、部屋に薄暗い光を投げかけていた。


「ここで全てが始まった」桐生は窓際に立った。「7年前、別の場所にあった306号室で水無瀬さんは亡くなり、そして病院が改築された後、この部屋が新しい306号室となった」


「でも、なぜこの部屋から...声が?」


「場所ではないんだ」桐生は振り返った。「部屋番号だ。306という数字に彼女の思いが込められている」


美月は部屋の中央に立ち、深呼吸をした。何か懐かしさを感じた。この部屋に初めて来たわけではないのに、もっと前から知っているような感覚。


「私の中に...水無瀬さんがいるんですか?」


「そう考えるしかない」桐生は静かに言った。「あの夜、地下の306B号室で、君は彼女の記憶を受け取った。だから、あの遺体が君の顔をしていた」


美月は自分の体を見下ろした。確かに自分の体だ。しかし、どこか違和感があった。体の動かし方、立ち方、呼吸の仕方...些細な違いだが、確かにそこにあった。


「私は...私なの?」美月の声は震えていた。


その瞬間、背後から何かの気配を感じた。振り返ろうとしたとき、強烈な痛みが頭を襲った。


「ああっ...」


美月は頭を抱え、その場にうずくまった。頭の中で何かが割れるような感覚。そして、無数の映像が洪水のように流れ込んできた。


病院のベッドに横たわる自分。いや、水無瀬透子。苦しい呼吸。医師たちの説明。「しばらく安静に」という言葉。そして、あの夜。息ができなくなる感覚。必死にナースコールを押す手。誰も来ない恐怖。そして、闇。


「美月!」


桐生の声が遠くから聞こえてきた。美月は目を開けた。彼女は床に倒れており、桐生が心配そうに覗き込んでいた。


「大丈夫?」


「はい...」美月はゆっくりと起き上がった。「私...彼女の記憶を見たの」


「何を?」


「彼女の最期...そして、その前の入院生活も」美月は震える声で言った。「彼女は知っていたんです。システムに不具合があることを」


「何だって?」桐生は驚いた。


「彼女の隣のベッドの患者が同じ経験をしたって...ナースコールが表示されなかったって」美月は頭の中の記憶を辿った。「彼女は病院に報告しようとしたけど...誰も真剣に取り合わなかった」


桐生は言葉を失った様子だった。


「そして、あの夜...彼女は分かっていた。もし発作が起きても、ナースコールでは助けを呼べないかもしれないことを」美月の目から涙が溢れ出した。「それなのに...彼女は一人だった」


「もし知っていたら...」桐生は自責の念に駆られたように言った。「もっと頻繁に巡回するなどの対策が...」


「彼女は怒っているんじゃないんです」美月は静かに言った。「ただ...真実を知ってほしかった。自分が医療ミスで死んだのではなく、病院のシステムの欠陥という構造的な問題で死んだことを」


「だから彼女は...」


「声を届けようとしたんです」美月は立ち上がった。「そして、私を選んだ」


部屋に静寂が広がった。月明かりだけが二人を照らしていた。


「これからどうするつもりだ?」桐生が尋ねた。


「私には分からない」美月は正直に答えた。「私の中の彼女は...どうしたいのかしら」


その瞬間、再び背後から気配を感じた。今度は痛みはなかった。代わりに、穏やかな温もりのようなものが美月の体を包んだ。


「ありがとう、気づいてくれて」


その声は美月の口から出たものだったが、彼女自身のものではなかった。もっと優しく、もっと深みのある声だった。


桐生は驚いた表情で美月を見つめていた。「水無瀬さん...?」


美月は―いや、その瞬間は水無瀬透子が―微笑んだ。


「長い間、誰かに聞いてほしかったの。私の声を」


「ごめんなさい」桐生は頭を下げた。「あの夜、もっと早く気づくべきだった」


「あなたのせいじゃない」水無瀬の声は優しかった。「あなたも病院のシステムの犠牲者よ」


「でも...」


「もう十分よ」水無瀬は言った。「真実は明らかになった。これ以上の罰は必要ないわ」


美月は自分の体が少しずつ自分の元に戻ってくるのを感じた。水無瀬の存在が薄れていく。


「行ってしまうの?」美月は心の中で尋ねた。


「ええ...でも、あなたに伝えたいことがあるの」


美月は静かに耳を傾けた。


「私は、かつてこの病院で殺された。ナースコールを押しても、誰も来てくれなかった。だから、"私の声"を、誰かに聞いてほしかったの。"あなた"に。"私"の代わりに―」


水無瀬の声はかすかになり、そして完全に消えた。美月は深いため息をついた。体が完全に自分のものに戻ったのを感じた。しかし、水無瀬の記憶だけは残っていた。自分自身の記憶のように鮮明に。


「彼女は...去ったの?」桐生が静かに尋ねた。


「ええ」美月はうなずいた。「でも、彼女の記憶は私の中に残っています。これからは私が彼女の声を届ける番です」


「どうやって?」


「証言者として」美月は決意を固めた。「警察の調査でも、将来起こるであろう裁判でも、私は彼女の体験を語り続けます」


桐生は安堵したように微笑んだ。「それが彼女の望みだったんだろう」


二人は静かに306号室を後にした。廊下には誰もおらず、病棟は深い静けさに包まれていた。


「夜勤を続けるの?」桐生が尋ねた。


「ええ」美月はうなずいた。「それが私の仕事ですから」


「では、また明日」桐生は別れ際に言った。「警察の調査が終わったら、きっと色々と変わる。病院も、システムも、そして私たちも」


「きっとそうでしょうね」


桐生が去った後、美月はナースステーションに戻った。残りの夜勤をこなさなければならない。しかし、彼女の心には奇妙な平穏が訪れていた。恐怖ではなく、使命感。執着ではなく、解放感。


---


翌朝、夜勤が終わり、美月は疲れた体を引きずるようにしてアパートに帰った。思いがけず深い眠りに落ち、目覚めたのは夕方だった。


「随分寝たわね...」


美月はゆっくりと起き上がり、窓の外を見た。夕暮れの街並み。別の日の始まり。彼女は久しぶりに心が軽いのを感じた。


携帯電話を確認すると、茜からの着信が数件あった。慌てて電話をかけ直す。


「もしもし、茜?」


「美月!心配したわ!あなた、朝から連絡が取れなくて...」


「ごめんなさい、疲れて寝ていたの」


「そう...良かった」茜の声には安堵が滲んでいた。「それより、大変なことになってるわ。病院が正式に調査を発表したの。7年前の事故について」


「本当?」


「ええ。森谷病院長も辞任を表明したらしいわ」茜は興奮した様子で話した。「それと...今日、病院に行ったら、みんなが変な目で私を見るのよ」


「どうして?」


「あなたと一緒に真実を明らかにした"内部告発者"として見られてるみたい」茜は少し困ったように言った。「でも、悪い気はしないわ」


「そうね...」美月は微笑んだ。


「それより、今日の夜勤は大丈夫?まだ休んだ方が...」


「大丈夫よ」美月は断言した。「私は元気よ。それに...」


「それに?」


「やるべきことがあるの」


電話を切った後、美月はシャワーを浴び、制服に着替えた。鏡に映る自分の顔を見つめる。もう違和感はなかった。完全に自分自身に戻っていた。しかし、心の奥底に水無瀬透子の記憶が刻まれていることも確かだった。


病院に到着すると、確かに雰囲気が変わっていた。スタッフたちは少し落ち着かない様子で、患者たちも何か異変を感じ取っているようだった。


ナースステーションでは、新しく任命された臨時の病院長が看護師たちに説明していた。


「...そして、今後はナースコールシステムの完全な見直しを行います。二度とこのような事故が起きないよう、万全の体制を整えます」


美月は静かにその場に立ち、話を聞いていた。


夜勤が始まり、美月はいつもの業務をこなしていった。しかし、今夜は違っていた。患者たちへの接し方、声のかけ方、全てが少し変わっていた。より丁寧に、より誠実に。


深夜2時、巡回を終えた美月はナースステーションに戻った。そこには茜が待っていた。


「ちょっと美月、あなた変わったわね」茜は真剣な表情で言った。


「そう?」


「ええ、なんだか...もっと優しくなった気がする」茜は言葉を選びながら言った。「患者さんたちへの接し方が...まるで別人みたい」


美月は微笑んだ。「そうかもしれないわ」


「あの夜、何があったの?」茜は静かに尋ねた。「306B号室で...」


美月は少し考えてから答えた。「私は...彼女の声を聞いたの」


「水無瀬さんの?」


「ええ」美月はうなずいた。「そして、彼女の記憶も」


茜は理解できないという表情をした。「記憶?」


「説明するのは難しいわ」美月は言った。「でも、もう彼女の声は封じられていないの。私が届けるから」


茜はしばらく黙っていたが、最終的にはうなずいた。「わかったわ...なんとなく」


夜が明け、夜勤が終わろうとしていた。美月は最後の巡回に向かった。306号室の前を通りかかったとき、ふと立ち止まった。


ドアを開け、中に入る。朝日が窓から差し込み、空っぽの部屋を明るく照らしていた。もう恐怖はなかった。もう声も聞こえなかった。


「さようなら、水無瀬さん」美月は静かに言った。「あなたの声は、もう封じられていないわ」


部屋を出て、美月はアパートへと帰路についた。病院を出ると、新しい一日が始まっていた。太陽は明るく輝き、人々が行き交い始めていた。


アパートに着いた美月は、疲れた体を横たえた。目を閉じる前に、もう一度鏡を見た。そこには確かに自分の顔があった。しかし、どこか違っていた。もっと穏やかで、もっと強い意志を持った表情。


「私...」


美月は自分自身に問いかけた。体も心も完全に自分のものだ。しかし、何かが変わったことは否定できなかった。水無瀬透子の記憶と経験が、彼女の一部となっていた。


眠りにつく直前、美月の耳元でかすかな声が聞こえた気がした。


「ありがとう...」


それが最後の声だった。美月は穏やかな表情で眠りについた。


---


次の日、茜が美月のアパートを訪れた。夜勤明けで寝ているはずの美月を起こすのは気が引けたが、重要な知らせがあったのだ。


「美月、起きて」茜はドアをノックしながら呼びかけた。


返事がない。何度かノックを繰り返したが、反応がなかった。


「おかしいわね...」


茜は管理人に頼み込んで、ドアを開けてもらった。


「美月?」


部屋に入ると、静寂が支配していた。ベッドには美月が横たわっていた。茜は安心して近づいた。


「美月、大事な知らせよ。起きて」


茜が美月の肩に触れると、彼女はすっと目を開けた。


「あら、起こしてごめんなさい」茜は微笑んだ。「でも、大きなニュースがあるの。病院が公式に謝罪会見を開くことになったわ。水無瀬さんの件で」


美月はゆっくりと起き上がった。茜はその瞬間、何か違和感を覚えた。美月の動きが...いつもと違って見えた。


「ねえ...美月、あなた、"誰"?」


その言葉は、茜の口から思わず漏れ出た。美月は茜をじっと見つめ、そして微笑んだ。


「茜...私は美月よ」


その声は確かに美月のものだった。しかし、茜には何か違って聞こえた。より深く、より成熟した声に。


「でも...」


「心配しないで」美月は茜の手を取った。「私は美月。ただ...少し変わったかもしれない」


茜は美月の顔をじっと見つめた。確かに美月の顔だったが、どこか違っていた。表情、目の輝き、そして何よりもその佇まいが。


「水無瀬さんは...?」


「もういないわ」美月は穏やかに言った。「でも、彼女の記憶は私の中に残っている。私は彼女ではないけれど、彼女の経験を持つ私になった」


茜には理解できないことだったが、それでも頷いた。


「大事なのは、彼女の声が届けられることよ」美月は立ち上がった。「それが、私の使命」


鏡に映る美月の顔は、確かに美月だったはずなのに、どこか違っていた――。


(完)

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「夜勤病棟の闇 ―― 封じられた声を聞いてしまった」 ソコニ @mi33x

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