ep.3

「先輩!ひどい隈ですよ」

休憩時間になると、利内さんにそう言われた。

私は鞄の中の手鏡を取り出し、自分の顔を見た。

確かに濃い隈が出来ていた。

「昨日仕事が終らなくて、遅くまで残業していたからかな」

「先輩、かわいそぉ」

利内さんは、まるで他人事のように同情していた。

すると今度は向かいの机から、御木本さんが話しかけてくる。

「苅田さん、休憩取るのもいいけど、池田産業の伝票出してからにしてね」

彼女がこちらを見る目は冷ややかで、周りまで凍り付きそうだった。

私はわかりましたと返事をした。

これでまた、貴重な昼休みの時間が削られてしまう。

お昼明けから始めてもいいのだが、早めに終わらせないと、更に御木本さんの機嫌が悪くなる。

仕事を効率良くこなすために、ここは反抗せず、すぐに片付けることにした。

私は机の端に置いていたスケジュール帳を開く。

ここには納品日や大事な締め切りが書いてあった。

すると、今日のスケジュール欄に見覚えのないメモがあることに気づく。

――2140 麻生GM

何だろうと私は小首を傾げる。

こんなことを書いた覚えはないし、数字の意味もアルファベットの意味も分からない。

それに麻生に関係する取引先もなかったはずだ。

忘れているだけかもしれないと、メールを確認したが、それに該当するものはなかった。

大したメモではないのだろうと思い、考えるのを辞めて、再び仕事にとりかかった。


その日は順調で、定時には帰ることができた。

いつもなら課長の嫌味が一つや二つこぼれるのだが、今日は静かだった。

きっと、今朝のことがあったからだろうと思った。

私は少しだけ機嫌がよくなり、足取り軽く朝陽を迎えに行った。


「昨日はパパと何食べたの?」

私は帰り道、朝陽に聞いてみた。

すると朝陽がリュックサックの紐をいじりながら答える。

「ハンバーグ」

「え?ハンバーグって前の日にママと食べたよね」

すると朝陽は言いづらそうに答えた。

「……うん。でもパパがぼくのためにおいしいお店を見つけたから行こうって」

その言葉を聞いた瞬間、私は大きなため息が出た。

夫のやりそうなことである。

息子の意思を確認せずに、朝陽はハンバーグが好きだからと先にお店を予約してしまったケースだろう。

また、朝陽のことだからそれに不満も言わずに食べたのだ。

「じゃあ、今日はハンバーグ以外だね。なら、お魚にしようか。朝陽はどんなお魚が好き?」

「うぅんとね、お魚はねぇ、サメが好き」

「そっかぁ。でもサメはスーパーで売ってないかもしれないね。サメじゃないけど、白身魚のタラはどうかな?パン粉とチーズでカラッと揚げたサクサクのやつ」

「サクサク?ぼく、サクサク好き!」

「じゃぁ、決まりだぁ」

私はそう答えながら、チャイルドシートで楽しそうに歌っている朝陽を眺めていた。

今日ぐらいはゆっくり朝陽との時間を味わいたくて、私はこの時間を楽しんだ。

二人でご飯を食べて、ゆっくりお風呂に入って、絵本を読み聞かせた。

昨日の寝不足がたたってか、私も気が付けば息子と一緒に眠っていた。


「ママぁ、保育園遅れちゃうよ」

気が付くと朝陽がパジャマ姿で私の体を揺すっていた。

私はというと布団の上ではなく、ソファーに俯せるように寝ていた。

掛け時計の時間を見て慌てて立ち上がる。

「ごめんねぇ、すぐに用意するから」

私は急いで洗面台に向かい、顔を洗った。

そして鏡に映る自分の顔を見て、昨日より更に深い隈があることに気づいた。

――昨日はちゃんと寝たはずなのに……。

そう心でぼやいていると、もう一つの違和感に気づく。

私はすでに寝間着ではなく外出する服に着替えていたのだ。

いつの間に着替えたのか、それに布団ではなく、ソファーの上で寝ていたことも気になった。

「マーマー、はやくぅ。遅刻しちゃうよぉ」

朝陽は私の足元まで来て、地団駄を踏んだ。

今は考えている暇はないと思い、ひとまず保育園に行く準備をした。


無事に朝陽を保育園に預けた後、滑り込むようにして社内に入った。

今日も課長に怒鳴られる覚悟をしていたが、課長席は空席だった。

私が奇妙に思っていると、不意に利内さんが私の袖を引っ張ってきた。

「やばいですよ、先輩」

「何が?」

意味が分からず聞き返す。

「なんか、広岡課長、マジでやばいことやってたみたいで、今、人事の偉い人に連れていかれたんです」

「やばいことって?」

私は利内さんの要領の得ない言葉に混乱する。

「不正ですよ、不正!あの噂、マジだったんですよ!」

「不正って!」

私が驚いて大声を出してしまった瞬間、御木本さんの鋭い目線が飛んでくる。

私は隠れるように体を小さくして、再び利内さんに質問した。

「どういうこと?」

「詳しいことは、私も知りません。でも、営業部の同期が言ってました。内部告発があったって、課長、取引先からキックバックもらってたらしいです」

私は頭で必死に整理しながら、確認する。

「キックバック?会社の経理報告を詐称して、使い込んだとかじゃなくて?」

すると利内さんはあははと笑った。

「それはないですよ。うちの部長もそこまで馬鹿じゃないし、その辺はちゃんと管理していると思いますよ。でも、広岡課長のことだから取引先に都合のいい話持ちかけて、謝礼金でももらっていたんじゃないですか?」

私は驚いて声が出なかった。

広岡課長ならやりそうだと私も思っていた。

しかし、そんなことを本気で調べて、内部告発をする人がいることにも驚いていた。

私たちの話を聞いていたのか、向かいから御木本さんの声が聞こえた。

「内部告発した犯人、苅田さんじゃないの?」

私は驚いて顔を上げた。

御木本さんは冗談でなく、本気で言っているようだ。

「だってあなた、広岡課長からあんなに叱られていたじゃない。その腹いせにあなたが人事にちくったんじゃないの?」

「っ!?」

あまりに衝撃的すぎて、言葉を失った。

いくら私が課長に虐められていたからって、こんなことはしない。

すると、なぜか否定したのは利内さんだった。

「そんなわけないじゃないですか。苅田さんにそんな度胸ないですよ」

否定内容に疑問を感じたが、確かに私にそんな度胸はない。

いつも課長の言いなりになって、頭を下げるしかできなかった私だ。

「わからないわよ。根暗な人に限ってこういう時に積極的になる場合もあるじゃない。まあ、どちらにしても、良かったんじゃない?これでもう、遅刻しても怒鳴られなくなるんだから」

御木本さんはそう言って、口元を緩ませた。

私は悔しかったが、何も言えなかった。

「あ、先輩見てください!」

突然、利内さんが廊下に向かって指をさした。

指の先を見ると、警察に囲まれて暴れている課長の姿があった。

「俺は知らない!俺じゃない!!」

課長は警察官に腕を掴まれながら、屋外へと誘導されていた。

手には手錠もかけられているようだ。

「話は署で聞きますから、落ち着いてください」

警察官は何度もそう言い、宥めようとしたが、課長は聞く耳を持とうとはしなかった。

そこに痺れを切らした人事課長が、恐ろしい剣幕で言い放つ。

「いい加減にしてください、広岡さん。証拠は充分に揃っているんです。例の取引先にも確認したら、あっさり認めました。あなただけなんですよ、そんな往生際が悪いのは」

すると課長は目を見開き、人事部長に縋るように叫んだ。

「ゆ、許してくれ!これは俺の本心じゃない。あいつらにたぶらかされたんだ。俺も被害者なんだ。わかってくれるだろう?」

あまりのみじめな課長の姿に、私は絶句した。

人事部長が、そんな課長に冷ややかな目で突っぱねた。

「いつまで責任逃れするつもりですか?そのくだらないプライドを捨てて、自分の非を認めてください。以前からあなたに対する不審な噂が流れていたんです。もう、逃れようはありませんよ」

その言葉を聞いて、課長の表情は豹変した。

弱弱しく縋るような表情から、般若のごとく怒り狂った表情になる。

「俺は悪くない!お前らが悪いんだ!俺を見下して、足を引っ張ってきただろう。俺も同期の奴らと同じように、もっと出世するはずだった。今頃、部長だった。それをお前らが邪魔して、俺の実力を認めようともせず、嫉妬して、惨めにさせたんだ。だから、これぐらいしたって当然だろう。俺はこれまで散々会社に貢献して、尽くしてきたんだからな。お前らは裏切り者だ!薄情者だ!俺は許さねぇ!!」

課長は大声で叫びながら、警察官に無理やり引きずられていった。

彼がその場からいなくなるまで誰もが沈黙し、硬直していた。

そして、落胆の声とともに人事部長が髪を整え、私たちの方を見た。

「君たちは仕事を続けなさい。報告は後日します」

そう告げて、人事部長は廊下の奥へと消えていった。

私たちは驚きのあまり、数秒間何もできなかったが、御木本さんの「切り替えましょう」の一言で少しだけ冷静を取り戻した。

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