ep.2
私は保育園に入る前に朝陽と向き合っていた。
「今日はパパが迎えに来る日だからね。着替えはカバンの中。わからないことがあったらパパにちゃんと聞くんだよ。大丈夫?」
「大丈夫!」
朝陽は大きく頷いた。
夫と離婚してから二年。
仲が悪いというわけではないが、会話をすることは少ない。
もともと離婚を言い出したのは夫からで、好きな人ができたから別れてほしいと突然言われた。
私は夫が浮気していたことも知らず、その言葉に唖然とするしかなかった。
朝陽のことを考えると簡単には決められなかったが、夫の裏切りが許せず、結局離婚した。
夫はその子と結婚するつもりだったようだが、一回りも若いその子は翌年あっさりと別の若い男に乗り換えたらしい。
今は夫への恨みよりも情けなさが勝っている。
離婚後、夫が彼女と別れて寂しくなったのか、今度は朝陽に会いたいと言い始めた。
恋人がいた時は、半年に一度程度しか会わなかった癖にと非難したい気持ちを抑えて、月に一回会う約束をした。
これも朝陽のためだと思って。
実際、朝陽が父親のことをどう思っているかはわからない。
それに、一度も朝陽が父親に会うことを拒んだことはなかった。
また、私たちが直接会うことはない。
朝陽と会う日は夫が保育園まで迎えに来て、翌日に保育園へ送る。
そういう約束になっていた。
私は朝陽を保育園に預けると、急いで会社に向かった。
「なにやってんだ、お前はぁ!!」
開口一番にそう怒鳴られた。
私は訳も分からないまま、呆然と課長に顔を向ける。
「今、取引先から支払遅延連絡が来たぞ。あざみ商事はお前の担当だろう!!」
――あざみ商事?
確かに3か月前まで、私の担当だった。
けれど今は後輩の利内さんが担っている。
私はそっと利内さんに目線を向ける。
彼女も気付いているのか、顔を真っ青にしていたが、机に頭を埋めるようにして隠れていた。
私は一度深呼吸をして、顔を上げる。
「今は利内さんが担当です」
私の言葉に利内さんはびくっと肩を揺らした。
課長は一度、彼女を見たが、再び私に目線が戻った。
「今は利内の担当でも、前任者はお前だろう。引継ぎしたんなら、最後まで責任もって確認しろよ。お前は後輩に責任を丸投げして、恥ずかしくないのか!?」
――そんなこと言ったって……
私はぎゅっと下唇を噛んだ。
引継ぎはちゃんとしたはずだ。
彼女が初めて入金手続きをする際には、私も一緒に確認し、先週の頭には支払い忘れがないか再度チェックするように声もかけた。
それに全社の支払漏れがないかを最終チェックするのは、チーフである御木本さんの仕事である。
それなのになぜ、私だけが怒られているのかわからなかった。
しかし、今の課長にどんなに正論を言い返しても無駄だ。
反論もせず、私は頭を下げた。
「申し訳ございません。今すぐ、やります」
そのままパソコンに向かおうとした時、再び課長が手を振って大声を上げる。
「あああ、もういい。後は御木本にやらすから」
そう言って、課長は御木本さんにアイコンタクトを送った。
彼女はそれを受け頷き、何事もなかったように仕事を始める。
「お前は昨日頼んだ仕事を、明日の朝までには提出しろよ」
「でも、それは来週が締め切りじゃぁ……」
「なんだ。不満か?これだけ人に迷惑かけておいて、よくそんなこと言えるなぁ。自分の今の立場、わかって言ってるの?」
その言葉で私は口を閉ざした。
こうなった課長は私の言葉など、全く聞く気はないのだ。
そして、課長は席を立って、ゆっくり私に近づいてくる。
「なぁ、俺、何か間違ってること言ってるかぁ?俺はさぁ、会社員として言われたこと、ちゃんとやってくれって言ってるだけなの。一会社員としてね、責任ある行動してほしいの、わかる?俺、別に変なこと言ってないでしょ。上司として当たり前のことしか言ってないと思うけど?」
また始まったと思った。
有無も言わせない発言。
これが理不尽なことだとわかっていても、私はただ謝ることしかできなかった。
課長が満足して席に戻った後、必死に隠れていた利内さんが私を見て、課長に聞かれないよう小さな声で囁いた。
「災難でしたね」
――元はあなたのミスでしょ!
私はそう叫びたくなる声を必死に飲み込んだ。
そして、いつも以上の早さで通常業務を終わらせ、課長に頼まれていた仕事にとりかかった。
そうはいっても、1週間かけて終わらせる仕事だ。
簡単に終わるわけがない。
定時になると一人、二人と退社していく。
隣で利内さんが立ち上がり、手をひらひらさせて退社していった。
私は大きなため息をついた。
今日の残業は確定。
何時までかかるかわからない。
唯一の救いは、朝陽の迎えを夫がしてくれる日だということぐらいだ。
「ああ、もったいねぇな。仕事の遅い社員のために残業代払うだなんて、本当に経費の無駄遣いだよな」
人が少なくなった社内で課長が独り言のように呟いた。
そして一瞬、私を横目で覗き、言った。
「勘違いしないでよ。上司が部下を叱るのはさぁ、期待してるからなんだよ。叱られるうちが花だっていうでしょ?苅田さんもさぁ、もう新人じゃないんだから、そろそろ学ばないとね」
彼はそれだけ言って、鞄を持ち、部屋を出て行った。
部屋の中には私だけが取り残された。
私は、腸が煮えくり返っていた。
――何が、『叱られるうちが花』よ!?八つ当たりしてるだけじゃない!!
私が何も言えないことをいいことに、好き勝手言ってくる課長に、殺意すら沸いていた。
机の上でぎゅっと拳を握りしめ、目を閉じ、自分を落ち着かせる。
――我慢、我慢、我慢、我慢、我慢……
私は呪文のようにその言葉を唱えて、冷静を保った。
そして、課長の席をちらっと見る。
噂では、彼のパソコンの中にとんでもない資料が入っているらしかった。
おそらく鍵のかかった引き出しには、見られたらやばいものもあるだろう。
もしその資料を流出させれば、なんて考えたけれど、すぐに辞めた。
仮に課長が何かしていたとしても、私に暴く勇気なんてない。
内部告発なんて性に合わないし、パワハラで訴えたところで居づらくなるのは私だ。
私は、改めて仕事に戻った。
カーテンから漏れる朝日で私は目を覚ました。
気が付くとそこは自分の寝室だった。
いつの間にか眠っていたらしい。
部屋の中の明るさに気が付いて、私は目を見開き、ベッドの上に転がっている携帯を探した。
時刻は朝の八時。
保育園の預けがなくても、完全に遅刻だ。
私は慌てて鞄を持ち、家を飛び出した。
化粧も服も昨日のままだったが、気にしていられない。
運よく遅刻は免れたものの、昨日の仕事のことが気になっていた。
きっと終わらせないまま帰ってしまって提出が間に合わず、また怒鳴られると思ったのだ。
慌ててパソコンを起動させ、データを確認する。
――終わってる?
あの膨大な仕事が出来上がっていたのだ。
しかし、終わらせた記憶がない。
思い出せるのは、残り半分ぐらいのところで眠くなって、自動販売機の缶コーヒーを買った後、席に戻ったところだ。
その時、軽い眩暈がしたのは覚えている
けれど、すぐに落ち着いたため、仕事に戻った。
その後の記憶はない。
当然、家に帰った記憶もない。
――どういうこと?
私は訳も分からず混乱していると、席に戻ってきた課長が嬉しそうに私を見つけて、話しかけてきた。
「苅田ぁ。昨日の仕事、ちゃぁんと終わっているよなぁ」
そういって課長はメールをチェックし始めた。
そして、届いたメールを確認し終わったその顔に笑みはなかった。
まさか課長も、私が昨日のうちに終わらせているとは思わなかったのだろう。
「今後も仕事は、言われる前に終わらせとけよ」
悔し紛れに言い捨て、課長は仕事に戻った。
私はその憎まれ口に怒ることも忘れ、ただ茫然としていた。
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