モンスター~もう一人の私~

佳岡花音

ep.1

——まさか、私の身にこんな事が起きるなんて……


「準備できた?行ける?」

自分の荷物と息子の水筒を持ち、靴を履きながら後ろに向かって話しかけた。

「うん。大丈夫」

息子、苅田朝陽かりたあさひはリュックサックを背負い、小さく頷いた。

「じゃ、行こっか」

私はそう言って、朝陽に靴を履かせ、手をつないで玄関を出た。

自転車がある駐輪場に向かい、朝陽を後ろのチャイルドシートに座らせた。

安全を確認すると私は全力疾走で保育園へ向かった。

いつも余裕をもって行動をしたいと思っているのに、なぜか朝はバタバタしてしまって保育園にも会社にもぎりぎりになってしまうのだ。

だから、疲れると分かっていても全力疾走は辞められなかった。

目的地に着くと自転車を急いで止め、朝陽を保育園に預けに行く。

既に多くの保護者が子供を預けた後で、顔見知りのママ友に声を掛けられた。

私は軽く会釈を返すと、急いで朝陽と一緒に教室まで向かった。

入り口にはクラス担任の保育士さんが立っている。

「おはようございます」

私が話しかけると、彼女は笑顔で答えてくれた。

「おはようございます」

そして姿勢を低くして、朝陽にも声をかけた。

「朝陽くん、おはよう」

「おはようございます」

朝陽は大きな声で答え、そのまま教室へと駆け出した。

私はよろしくお願いしますと軽く頭を下げ、その場を離れた瞬間、校庭の真ん中に集うママ友のじゅなママに呼び止められた。

「あさひママ!」

その手は頭上で大きく揺れていた。

急いでいたが、無視するわけにはいかない。

「おはよう」

私は駆け寄り、じゅなママと一緒にいた別のママ友にも挨拶をする。

その中には私が苦手なこうきママもいた。

彼女は雑誌のモデルが着ているようなハイファッションに身を包み、流行ブランドのバックを持っていた。

「今日も大変そうね。今から出勤?」

隣にいたじゅなママが私に聞いてくる。

ここにいるママ友はみんな、私がシングルマザーで会社勤めであることを知っていた。

「そう。いつもギリギリで、怒られてばっかり」

その言葉にじゅなママが瞬時に答える。

「わかるぅ。私も働いていた頃はそんな感じだった。遅刻じゃないんだから、いちいち文句言わないでほしいよねぇ」

わかるのならこの瞬間も、いちいち引き止めないでほしいと心の中で呟きながらも、黙って笑顔を作った。

このまま雑談に加われば、本当に遅刻してしまう。

そう思った私は話のタイミングを見て、手刀を切るとそそくさとその場を離れた。


出勤時間寸前で職場に到着し、机に鞄を置くと崩れる様に椅子に座った。

隣でそれを見ていた後輩が、こっそり私に話しかけてくる。

「苅田さん、今日はセーフですね」

後輩の利内里奈りうちりなは手のひらを合わせ、楽しそうに笑った。

睨みつけたい衝動を抑えながら、仕事の準備を始めていると急に課長席から怒鳴り声が響いた。

「苅田!今日もギリギリじゃねぇか!!」

魯鈍な性格なのに私の出勤時間には目敏い上司、広岡浩ひろおかひろしだった。

「いいか。出勤時間に間に合えばいいわけじゃないんだからな。出勤時間は仕事開始時間なんだよ。ギリギリだと準備の時間に間に合わないだろう。何か?お前は1分で仕事の準備が出来るのか?」

私がシングルマザーで忙しいことも、出勤がギリギリになってしまうこともわかっているのに、毎日懲りることなく同じ説教をしてくる。

私は頭を下げて、小さな声で謝罪した。

朝から怒鳴られて腹は立つけれど、私はそれをぐっとこらえて謝る毎日。

そうすれば課長は満足するのか、その後は黙るからだ。

それに、朝から気になるのは課長の目線だけではない。

もう1人、出勤早々私を凝視する人がいた。

経理担当のお局こと、御木本美智子みきもとみちこである。

彼女は常に私を監視して、私の汚点を探そうとしている。

直接嫌味を言うこともあるけれど、大半は呟くような声で愚痴を言い、私に聞こえる音で舌打ちするのだ。

その態度に反論したい気持ちもあるけれど、社内で騒ぎたくなかった。

私は常識人でいたいのだ。

すぐに怒号を上げ、不満ばかり口にする彼らと同類にはなりたくなかった。

仕事を始めると、早速後輩の利内さんが話しかけてきた。

「先輩、昨日の『コイ花』のドラマ、見ました?主演の成山君、超かっこ良かったですよ」

利内さんは私が忙しくてドラマを見る余裕もないことを知っていても、毎週この話をする。

仕事開始は一番忙しい時間帯なのに、どうでもいい話をしてくる彼女が真面目に働いているようには見えなかった。

「今度、『コイ花』の聖地巡りしようって彼と話してるんです。たしかロケ地、長崎でしたっけ。ちょっと遠いけど、有休使って行くつもりなんです。先輩は最近、旅行とか行ってないんですか?」

この彼女の無遠慮な言葉にうんざりし、ため息が出る。

仕事と子育てで手一杯の私が、旅行に行く余裕などあるはずもない。

当然、そんな予算もない。

有休も息子の急用で消えているので趣味で使ったことはなかった。

それにあの課長が、簡単に私に有休を許すはずもないのだ。

急用が出来て、退社せざる負えない時でさえ、課長に散々嫌味を言われた。

それなのに、利内さんには課長もあっさり有休承諾して、利内さんは忙しい月末でも平気で休んだ。

さらにその有休がなくなると今度は病欠と言って休むこともある。

そして、休み明けにはなぜかお土産を買って帰って来るのだ。

これがおかしいとわかっているのに彼女に注意する人は誰もいなかった。

「苅田!私語が聞こえるぞ!!」

話しかけている利内さんではなく、なぜか課長は私を名指しで注意してくる。

御木本さんはそんな私を横目で見ながら、鼻息を付いた。

この職場には、私が落ち着ける場所はないのだ。


定時で帰るたびに課長から不満を言われながらも、息子の迎えの為に私は急いで退社した。

丁度、電車を降りたタイミングで電話が鳴った。

慌てて画面を確認すると、元夫からだった。

私は改札を抜けた後に電話に出た。

「あ、香織かおり?オレオレ。明日、朝陽を預かる日だよなぁ」

私はその言葉で思い出した。

明日は離婚した夫と息子を会わせる日だった。

夫の要望で月一回は朝陽と会う機会を作るようにしているのだが、正直面倒くさかった。

だからと言って蔑ろにするわけにもいかず、気のない返事をした。

電話を切り、駐輪場から自分の自転車を引っ張り出して、保育園に急ぐ。

私のお迎えがいつも遅いので、保育園の先生方には申し訳ない気持ちでいっぱいだ。


「すいませぇん」

私は教室の扉を開けると、室内に向かって声をかけた。

最初に反応したのは、息子の朝陽だった。

朝陽はおもちゃをその場に置いて、私に駆け寄ってくる。

それに続くように、先生も後ろからやってきた。

「いつも遅くなってすいません」

私が詫びると先生は笑顔で首を振った。

「大丈夫ですよ。朝陽くんはいい子ですし、お母さんが来るまでの間、静かに待っていてくれるので」

その言葉だけが救いで、嬉しくなった私は朝陽の頭を優しく撫でた。

朝陽は顔を上げ、満面の笑みを見せる。

「じゃぁ、帰ろうか」

私がそういうと朝陽は頷き、おもちゃを片付けてくると言って元の場所に戻っていった。

その間に朝陽の荷物を受け取り、帰る準備をする。

先生に挨拶をし、朝日を自転車に乗せると、いつものように家の近くのスーパーへ向かった。

「ねぇ、朝陽。今日の晩御飯、何にしようか?」

私が朝陽に聞くと朝陽は元気よく手を挙げて答えた。

「ハンバーグ!」

「朝陽はハンバーグ好きだね」

「うん、ママのハンバーグが世界でいちばんおいしい!!」

毎日嫌なことばかりだけど、こうして朝陽と一緒にいる時間が本当に幸せだった。

朝陽の笑顔を見るたび、明日も頑張ろうと思えるのだ。

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