ep.4
課長が逮捕された後の数週間、本当に平和な日々が続いた。
次の課長が決まるまでは、部長が経理部を兼任することになった。
部長は課長とは違って、私がシングルマザーとして忙しくしているのを理解してくれる。
出勤に間に合わない時は、急がず連絡してくれたらいいからと、優しい言葉もかけてくれた。
それは本当に有難かったけれど、他の人の目がある以上、甘えるわけにはいかない。
ただ、仕事を定時で帰れる日が多くなってからは、自分で弁当を作ることが増えた。
生活も少しずつ余裕が出てきた気がする。
そんなある昼休み、一緒に食事をしていた利内さんに、スマホ画面を見せられた。
「知ってました?広岡課長、麻布にある隠れた名店で密会してたんですって。すっごいおしゃれだし、高級な食材ばかりで。ずるいですよねぇ」
利内さんが口を尖らせて話す間、私はそのホームページを凝視していた。
ホーム画面にはお店の外観と内装の映像が映っている。
麻布なんて行ったこともないはずなのに、なぜだか見覚えがあった。
「先輩、どうしたんですか?もしかして、ここ知ってます?」
利内さんの質問に、私は慌てて首を振った。
そりゃそうですよねと妙に納得した様子で、再びスマホを自分に引き寄せ、眺める。
私はなぜだが暴れだす胸の鼓動を抑えながら、弁当に口をつけた。
すると利内さんが嬉しそうにじゃぁんと声を上げて、再び違う画像を私に見せてきた。
それはあの広岡課長と例の取引先の密会写真だった。
「なんで利内さんがそんなものを?まさか!?」
私の確信めいた言葉に、利内さんは慌てて手を振った。
「違いますよぉ。仲の良い人事の子に内緒で送ってもらったんです。これが他の資料と一緒に人事宛でメールが送られてきたんですって。匿名みたいですけどぉ」
私は改めてその写真を凝視した。
洗礼された部屋で、嬉しそうに笑う課長と取引先の人の姿。
その後ろにはデザイン性あふれる時計が映っていた。
――9時40分?
なぜかその時間が引っ掛かっていた。
私は、最後に一つだけ利内さんに確認する。
「ねぇ、そのレストランって名前わかる?」
利内さんは得意げな顔で答えた。
「わかりますよ。『グランメゾンAZABU』です」
平穏な日々もそう長くは続かなかった。
我が経理部にもとうとう新しい課長が就任してきたのだ。
その課長は前の課長とは全然雰囲気は違ったものの、どこか頼りなく気の弱そうな人だった。
わからないことも多いからと、チーフである御木本さんが課長のサポートに指名される。
しかし、それが最悪な日常を告げるゴングの音だった。
出勤早々、御木本さんが課長の隣にいることが増えた。
何か二人でこそこそと話しているようで、たまに私の顔をちらちらと見てくる。
不安げな課長と目が合う度、私も不安が募った。
いつぞや、今日は息子を早めに迎えに行かないといけないので残業ができないと告げに行くと課長は眉間に皺を寄せて、「それって本当だよね?」と聞かれたことがあった。
私には嘘をつく理由はなかったが、課長が私を疑っているのはわかった。
私が思いつく限り、課長に何か不安に思わせることをしたつもりはない。
何もしていないどころか、彼が就任してきてまともに口をきいたのは数回で、課長はいつもチーフである御木本さんを通して指示してくる。
御木本さんはチーフなのだから当然なのかもしれないが、それでも私と課長の間の不信感は拭い去れなかった。
ある日の昼休み、冷蔵庫に収めておいた弁当箱を取りに行ったとき、それが冷蔵庫ではなくキッチンの上に無造作に置かれていたことがあった。
最近、少しずつ気温も上がってきて、念のため給湯室の共用冷蔵庫へ入れておこうと思って朝入れたのは覚えている。
となるとわざわざ誰かがここに出したことになるのだ。
私が弁当を手に取ったとき、後ろから声がした。
「ああ、それ邪魔だったから出しておいた」
後ろを振り向くと、そこには御木本さんが立っていた。
「どうして?」
「だって、給湯室の冷蔵庫って共有物でしょ。それなのに個人的なものを入れられたら迷惑じゃない」
私はかっとなって御木本さんに叫びそうになったが、ひとまず冷静になろうと息を吐いた。
「個人のものを入れているのは、私だけじゃないですよね。御木本さんだって、使ってますよね?」
「私は、今日買ったものだけを入れてるから」
「それなら私も今日作って、今朝入れました!」
私が強気で訴えると、御木本さんは私の顔を見て、不敵な笑みを浮かべる。
「ごめん。なんか汚かったから、ずっと置いてあるのかと勘違いしたみたい」
彼女はそう言って、冷蔵庫から自分の昼食を持つと、給湯室を出て行った。
今までも散々ひどいことを言われてきたけれど、最近拍車をかけて態度が悪くなっている気がする。
「そうですよね!私も思ってました」
昼休憩、会議室で弁当を食べていると、利内さんが口の中に菓子パンを放り込みながら、憤慨していた。
私以上の勢いに圧倒され、引いている自分がいた。
「新しい課長に代わってから、御木本さんの傍若無人ぶりが益々ひどくなったっていうか、私も今日、備品を戻してないってめっちゃ怒られて。昨日借りたばっかだっていうのに、いちいちうるさいんですよ」
丸一日持ち出しているなら怒られても仕方がないとは思うが、確かに広岡課長がいた頃より御木本さんの態度は大きくなっている。
私への不満をよく口にするようになり、面倒な仕事を振ってくることも増えた。
追加で頼まれた仕事を断ると、課長命令だからと無理矢理やらされた。
このような彼女の態度には、私も辟易としていた。
「これ、噂なんですけど、先輩には教えちゃいますね」
利内さんが急に顔を近づけ、何事かと思ったが、ひとまず聞くことにした。
「御木本さんって独身で、今は彼氏いるって言ってましたけど、実はあれ彼氏じゃなくて、通ってるクラブのホストなんですよ。要は『ホスト狂い』らしくて、デートのふりしてクラブ通ってるみたいなんです。痛くないですか?」
それは笑えないと、私は表情を歪ませる。
嘘はいけないとは思うけど、それぐらいの嘘は構わない気がした。
「それだけじゃないんですよ。そのホストに入れ込むあまり、会社の備品売り捌いてるって噂があって。それ、やばくないですか?」
「でも、確証はないんでしょ?」
「ないですけどぉ。怪しいとは思うんですよね。それにね、課長を密告したのも本当は――」
利内さんがそう言いかけると、会議室の扉が音を立てて開いた。
そこに立っているのは噂の御木本さんだ。
私たちは話を聞かれたのではないかと慌てたが、どうやら聞こえてはいなかったようだ。
ただし、その表情は不機嫌そうだ。
「ねぇ、なんで会議室で食べてんの?」
突然そんなことを聞かれたので、私も利内さんも唖然とした。
「なんでって、お昼休みですから」
利内さんがぼそっとした声で答えた。
「そうじゃなくて、なんで会議室なのかって聞いてるの」
「昼休みは会議室を使えるはずですよね。今までの先輩社員からそう聞きました」
不躾な態度を不満に思いながら私が答えると、御木本さんの顔は更に険しくなった。
「だぁかぁらぁ、それって誰が決めたの?うちらの上司は経理課長じゃん。先輩って誰か知らないけど、その人はここにいないんでしょ?なら、伺いを立てる相手は課長じゃない?ちゃんと課長の許可、取った?」
「……取ってませんけど」
そう言いくるめに来るとは予測できず、返事がたじたじとなってしまう。
その言葉を聞いて御木本さんはあからさまに大きなため息をついた。
「こんなことは言いたくないんだけどさ、みんな言ってるよ。午後からの会議が弁当くさいって。それって苅田さんのことだよね」
御木本さんは私の弁当箱を睨みながら言った。
私はかっと顔が熱くなるのを覚えた。
「みんなって誰ですか?そんな話、聞いたことないんですけど」
「言えるわけないじゃん。みんなはみんなだよ。今日はいいからさぁ、明日から気を付けてよね」
彼女はそう言って、会議室の扉を大きな音を立てながら閉めた。
私も利内さんも怒りに震え上がっていた。
「なんなんですか、あれ!マジ、キレそうなんですけど。もう、みんなにばらしちゃおうかなぁ。御木本さんが通ってるホストクラブ」
御木本さんが離れていったのを確認して、利内さんは大きな声で不満をぼやく。
私はついその言葉に興味が湧いた。
「お店の名前、参考までに聞いていい?」
私の言葉に反応した利内さんがいたずらっぽく笑い、耳打ちする。
「『クラブ・ナイトプリンス』ですよ」
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