どうせなら全部忘れて、
羽衣石 翠々
どうせなら全部忘れて、
______怖かった
ただ、貴方を忘れてしまうのが。
《若年性認知症》
大学生ながら、そう診断された。 高校時代から付き合っていたハルトに、私はすぐに打ち明けた。
「…俺が、ユキノのことを支えるから。 たとえ、ユキノが俺を忘れても」
『…っ…大好きだよっ…ハルト…』
そう言って抱きついた。 私は、ハルトの優しさを利用して生きている、とても図々しくて ずるい人間だ。
でもそうするしかなかった。 そうしないと、本当に全てを忘れてしまいそうだから。
ハルトは言葉通り、忘れやすい私を支えてくれた。 でも、だんだんと症状は重くなっていくばかりだ。
『………匂いが…しない…』
「……え?」
ハルトが作ってくれたカレーライスから、いつものようにツンとした鼻を抜ける匂いがしなかった。
カシャンと、スプーンがお皿に落ちて鳴る。
『っ…』
「わっ…どうしたの…ユキノ…?」
部屋着のパーカーを着たハルトの胸元に顔を埋める。 でも いつものように、ほのかな香水の、夏空のように爽やかな香りはしなかった。 私がこの香りが好きだと言ってから、ずっとつけてくれていたのに。
『っ…ごめんね…ハルト…。 匂いが…分からないっ…』
ああ…全部忘れてしまう。 ハルトとの思い出も、匂いも。
「…大丈夫…大丈夫だから」
ハルトの声は、私というより、自分に言い聞かせているようだった。
____________________
「ユキノが着てる服、可愛いね。 高校のとき、一緒に服屋行ったときに買ってたよね」
『…え? …あ、…そー…だっけ…? …そうだった…かも…!』
「…………………」
ハルトが、悲しそうな顔をすることが増えた。 また、私が覚えていなかったからだ。
『………ごめんね』
「…え?! あ、俺のほうこそごめん!」
そう言って、太陽みたいに笑った。
ハルトは優しい。 私を決して裏切らない。
だからこそ辛い。 私が貴方を苦しめていると思うと。
いつ、ハルトのことを忘れてしまうかも分からない。 私が覚えていないだけできっと、ハルトとの思い出はもっとたくさんある。
匂いも感じられない。 ハルトの落ち着く匂いも、花開いた桜の香りも。
『どうせなら全部忘れて、』
______いや、最初から知らなければよかったのに。 そうすれば、ハルトも私も、こんな思いをすることもなかった。
「…ユキノ…? どうしたの…?」
『…………ハルト、私たち 別れよう?』
私の言葉に目を見開くハルト。
「どうして…なんで、そんなこと…」
『きっともうすぐ、私はハルトのことを忘れる。 ……そのとき、私の隣に ハルトがいてほしくないの』
貴方は優しいから。 きっと記憶を無くした哀れな私にも、いいようにしてくれる。
これ以上、ハルトに負担をかけたくない。
「迷惑とか…そんなこと思ってないから…!! だから、心配するな。 俺は、ずっとユキノのそばにいるから…」
私を抱きしめようとするハルトを押し返した。 そうしないと、きっと私は揺らいでしまうから。
「……ユキノ…?」
『……今まで、あリがとう』
そして、さようなら。
「………最後に、一つだけ聞きたい」
『…なに…?』
「俺と一緒にいた間…
______きみは幸せでしたか?」
………そんなこと、当たり前なのに。
『っ…はいっ…!!!!』
______思わず、顔が綻んだ。
『……………………………どなた、です?』
「…!!!」
なにか、とても大事なことを、忘れてしまっている気がするの。 絶対に、忘れてはいけなかったこと。
「俺は…………ユキ…きみの……
一番の味方だよ」
悲しい顔………どこかで見たことがある。
でも分からないのが もどかしい。
『………はやく、思い出したい』
「………それがユキノの…本心なんだね…」
『………え…?』
その男の人は、何かを呟いて笑った。
「…大丈夫。 きみが俺を忘れてても、支えるから。 ……そう、約束したからね」
Fin
どうせなら全部忘れて、 羽衣石 翠々 @mimimaru-__-
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