推しのVtuberが引退するんだって。俺はどうしたらいい?
つづり
第1話 春、彼女は終わる
「ちょっと、今日ご報告があってさ、あえて、サムネには書かなかったんだけど」
寒い日だった。
二月中旬で、エアコンをつけた上で、さらに厚着をしていた。
明日には、雪が降る予報もあって、千秋は明日の準備をしながら推しの配信を見ていた。
推しは桜色のボブの髪型が可愛らしい、桜見あずさちゃん。
高校卒業前から推していて、もう二年推している。
毎週水曜の定期の配信は、千秋にとっては。
「えっと、明日の課題を持ったな⋯⋯」
癒やしとか、気持ちを高ぶらせるものではない。
当たり前の日常の風景になっていた。
「来月の三月一四日に引退します、ごめんね、今までありがとね」
一瞬、視界が揺れる。カバンを整理していた自分の手が止まった。
なんだってという思いで頭が揺れる。
耳で聞いた情報が本当なのか、それすらも判断がつかない。
でも確かに聞こえてきたのは、引退という言葉で。
彼女はふざけてそんなことをいうタイプでもなく。
「は⋯⋯?」
息が荒い。冷静になれない。衝撃が波紋のように心のなかに広がっていく。
動揺して何もかんがえられないまま、千秋は配信を見る。
【嘘だよな?】
【マジで?無理】
【絶対撤回して】
【あずさちゃん、ほんとに?】
【応援するけど…寂しい…】
ピンクの髪のカワイイあずさが、少し困ったように頭をかしげながら
押し寄せる波のようなコメントに向かって、話していた。
「うん、ちゃんと説明するね⋯⋯あずさね、実は看護師になろうと思うの。学校も受かってね」
コメントの波に驚愕が走る。
普段積極的にコメントしない、千秋ですらもキーボードを叩く。
【看護師さんにって、どういうこと???】
彼女は専属のVtuberをやれるほどに人気だった。
明るくて努力家で、カワイイ笑顔を浮かべる子だった。
話を聞いてるだけ、コメント対応してるだけでも。
なんだろう、喋ってる自分の気持が明るくなる。
ぱあと光が差してくる、そんな子だった。
「私ね、もともと看護師になりたかったの。昔私自身が入院したときに
看護師さんに助けられてね、こんなふうになりたいと思ったんだ。でも
条件が整わなくて、今まで夢を叶えられなくて⋯⋯でも、やっぱりやろうって
思った、夢を叶えようと思ったの」
真摯な声だった。
その声の調子に、千秋は圧倒された。
なぜなら、聞いたことがなかったからだ。
こんなリアルな夢に、自分をかけようとする声を。
どれだけ、彼女がやりたかったんだろうと思うと、心臓がドキドキした。
冷や汗が出る。知らない彼女が、今、喋っている。
「本当にここで、あずさの旅路を見せられなくなることは申し訳ない。
でも、私、みんなが好きだからさ、最後までいつもどおりに笑っていきたいの。
私はみんなの笑顔をつくりたい⋯⋯と思うし、ほんとに思うし」
彼女は笑顔の多いVtuberだった。
しかしこのとき。千秋は気づいてしまった。
彼女が笑顔なのは、あずさという体が笑顔に見えるようにカスタマイズされていて
本当はもっと生々しい感情があったのだろう。
声に滲み出す苦悩を感じて、千秋は何も言えなくなった。
思考が止まりそうになる。それこそ、祈るように、食い下がるように言いたくなる。
「看護師なんて、ならなくていいよ。いっしょにいようよ!」
しかしそれを言うには、あまりにあずさへの思いが邪魔をした。
【お前は推しの夢を諦めろっていうのか】と。
反芻するように頭を上下させ、千秋はその日、眠れなかった。
自分にとって、桜見あずさは推しだ。
人に言ったことはないが、ゆるいガチ恋というくらいだった。
自分の使えるお金の範囲内で、アクスタや缶バッジ、A4ファイルもよく買っていた。
グッズを通して彼女がいることを感じると、なんだかやる気が出る。
推しに恥じない行動をしようと思う、前向きなファンだった。
あずさは千秋にとって光だった。
ただ、そこにいるだけで自分を照らしてくれる。
千秋は無宗教で、仏様に頭を下げようと、ほとんど思わないが
あすさには祈ることができるなと思っていた。
自分にとっての心の柱だったのだ。
あんな優しい、カワイイ、笑顔を見せてくれればそれで良かったのだ。
そんな彼女が、いなくなるだって⋯⋯?
いわばそれは、世界の崩壊と変わらない。
穏やかな千秋の心の中、楽園に暗い影が落ちることとと
なんも変わらないのだ。
学食で暗い気持ちで、でも食べなくちゃだめだと
無理やりうどんをすすっていた。本当はあずさのことは一旦置いといて
課題や、就活のことや、いろんなことを進めないといけないのだ。
しかし、いま、そんな余裕が持てない。
眠れなくて、体は重いし⋯⋯とにかく逃げたいくらいに、辛くなっていた。
そんな千秋に声を声を掛ける人がいた。先輩の冬口先輩だ。
先輩も目の下を真っ黒にして、眉をさげていた。
先輩も、桜見あずさを推しにしている人なのだ。
昨日の配信、もしくはその後のお知らせを見たにちがいない。
先輩はそばをすすりながら、こう言った。
「あずっち、引退だってなぁ。三年半かぁ⋯⋯ってなっちゃったよ」
「先輩、初期からでしたっけ。押してたの」
「そう、収益化前から、俺の大学生活はあずさとともにあるって感じだった」
千秋はぼそりと聞いてみた。
「あの引退理由で、撤回ってないんですかね」
先輩はひじを組むと。
「俺たちのあずさは、そんなこといわんだろ」と言った。
それはそうですね、思わず笑ってしまう自分がいる。
彼女が意思を曲げるタイプではないことは、この二年推して分かってる。
それと同時に、わかりたくない現実に、うどんの味が苦くなった。
舌にいつまでも残る、嫌な苦さだった。
⋯⋯冬の終わりに近づく中、推しは自分はいなくなると言った。
彼女の名前の桜が咲く、春に。
「俺達は、ほんと、夢を見てたんですかね」
千秋は誰に言うでもなく、小さく呟いた。
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