KAC20254 その夢、絶対に10回見てはいけない。【への恐怖】
一人三歩
第1話
あの夢を見たのは、これで9回目だった。
朝日が薄いカーテン越しに差し込む中、私は青ざめた顔で目を開いた。疲労感が体を覆い、背中には冷たい汗が流れていた。ベッドから起き上がることすら億劫で、手足はまるで重りでも付いているかのようだ。
ここ数週間、私は毎晩同じ夢にうなされている。
いや、「同じ」と言っても、状況は毎回微妙に異なる。
ある晩はデパートのエスカレーターで、前の人間が唐突に屁をこき、その臭いを浴びせられた。
また別の晩には、映画館で上映中に前を横切った人物が、ちょうど私の前で屁を放った。
そして昨日見たのは、葬儀場だった。
前の列に座っていた老人が立ち上がった瞬間、深い沈黙の中に鈍く響く屁をこいたのだ。
ばかげていると思うかもしれないが、これは冗談ではない。
夢とはいえ、回を追うごとにその屁の臭いは鮮明さを増し、あまりにもリアルで不快だった。最初はただの偶然、あるいは悪趣味な悪戯のような夢だと思っていたが、回数を重ねるにつれ、これはただの夢ではないと確信するようになった。
9回という数字は偶然にしては多すぎる。
何かがある。そう思うのは必然だった。
次は10回目というキリの良い数字だ。
嫌な予感が胸に重くのしかかる。
このまま今夜眠りにつけば、私は再び屁を浴びせられることになるだろう。
それがどんなシチュエーションになるかは分からない。
分からないが、必ず屁を嗅ぐことになると私は半ば諦めていた。
日常生活も次第に崩れ始めた。
眠るのが怖くなり、食欲も失せ、仕事も手につかない。
周囲からは心配されるが、こんなくだらないことを打ち明ける勇気もない。
精神的な疲労が限界を迎えようとしていた。
時計の針が進むほど、私の中の恐怖も増幅していく。
もし、今夜10回目の夢を見てしまったら……何が起こるのだろう。
10という数字には何か不吉な響きがあるように感じられた。
根拠のない恐怖に支配されているのだと理性では理解しているが、私の心は恐怖に支配されてしまっている。
日が沈み、再び夜が訪れようとしていた。
私は小さく震えながら、今夜もまた「あの夢」を見ることをほぼ確信していた。
そして私は、殺風景な部屋で椅子に縛られた状態で気がついた。
「また始まった……」
私は薄暗い空間を見回しながら、小さくつぶやいた。
湿った空気、白く塗られた壁、そして剥き出しの電球が天井で寂しげに揺れている。
これは間違いなく夢だ。
何度も繰り返された、あの悪夢。
私の目の前には、どこにでもいそうな、特徴のない男が立っていた。表情は穏やかで、むしろ丁寧に軽くお辞儀すらしている。
「どうも初めまして、 【妖怪屁こき浴びせ】 と申します。これまであなたに夢の中で大変失礼をいたしました」
男は不自然なほど礼儀正しく、丁寧な口調で自己紹介をしてきた。
「やっぱりお前か!今までの夢はお前の仕業だったのか!」
私は怒りに任せて叫んだ。
これまでの不快極まりない体験の数々が頭をよぎり、心底腹が立った。
「まあまあ、落ち着いてください。怒っても体に毒ですよ?」
男は笑顔のまま、私の怒りをあしらうように手を振った。
こちらの話をまるで聞こうとしない。
「お前……!」
「さて、あなたにとって記念すべき10回目ですので、今回は特別に直接、私の屁をお嗅ぎいただこうかと思います」
彼は楽しそうに言ったが、その内容に私は絶望的な恐怖を感じた。
「やめろ、絶対に嫌だ!やめてくれ!」
私は必死に抵抗したが、体はまったく動かない。
男は静かに笑いを浮かべ、ゆっくりと私に背を向けたのだった。
「食を摂りて胃を過ぎゆけば、小腸経て大腸至り、菌が食(しょく)をば分解し、発酵せしめて腸内(ちょうない)に、諸々(もろもろ)の気(き)生じて、おならとなりて放たるるなり――」
目の前の男が、粛々と、節を付けて謡うように告げた。
おどけた声だが、妙に流麗な節回しであった。
「こ、古典風に言っても、許されるわけじゃないぞ!」
縄で椅子に縛られた私は、なおも絶望と嫌悪を込めて叫んだが、
特徴のないその男は、もはや聞く耳持たずに薄笑いを浮かべるだけである。
そして、男はゆっくりと腰を構えながら言った。
「さあ、節目となる十回目なれば、今日は特別に直接嗅がせて進ぜようぞ――」
あたりには不穏な沈黙が流れる。
男――否、妖怪は、突然奇妙な笑みを浮かべ、妙なリズムを取り始めた。
手をヒラヒラと動かし、腰をくねらせ、異様なほど軽快にステップを踏む。
「ほーれ、ほれ、ほれ、へこきの舞い~、ぷうぷう、ぷぅ♪」
「お、おい、やめろ! 近づくな!」
妖怪は薄ら笑いを浮かべたまま、私の叫びを完全に無視して、得体の知れないステップを踏みながらじわじわと近づいてくる。
その奇妙な踊りの間も、「ぷぷぷぷぷ~♪」とおかしな効果音を口ずさむことを忘れない。
「頼むから、やめてくれ!」
必死に叫ぶ私を見下ろし、ついに妖怪は私の真正面に立ち、堂々と振り返った。
目の前には、なぜか完璧な位置にセットされた妖怪の尻があった。
絶望が私の脳内を支配した。
「準備完了~!発射フェーズ突入~!」
妖怪は芝居がかった口調で一人芝居を始めた。
「管制塔!発射準備よし!」
「了解!発射準備完了!」
「ターゲット補足、狙いヨシ!」
「尻圧確認、ヨシ!」
「放屁準備、ヨシ!」
「放屁準備確認!ご安全に!」
「カウントダウン開始! さん! に! いちぃ~!」
「ふざけるなぁぁぁぁああああ!!」
私の絶叫もむなしく――。
「発射ぁぁぁぁあああああああああ!!!!」
その瞬間、強烈な爆音とともに、強烈な異臭が私の鼻腔を直撃した。
「ぷぅうぅぅ~~~~~ん」
「あ、あぐぇぇえええええ!!」
激臭に耐えきれず、私は意識が飛びそうになった。
だが、待て、いつもは臭さとともに目が覚めたはずだ。なぜ目覚めない!?
「ちょっと待て、妖怪! おかしいだろ!!
今まで屁の臭さで夢から覚めてたんじゃないのか!」
憤怒に燃えて叫ぶと、妖怪は平然とした顔で振り向いた。
「ん? なに言ってんだアンタ。おならで目覚めてたのは単なる偶然だぞ?」
その軽い口調で告げられた残酷な事実に、私の心はガラガラと音を立てて崩れ落ちた。
あまりのショックに言葉を失った私を放置し、妖怪は満足げに頷きながら呟いた。
「ま、いいや。アンタももう飽きたし。
――次は、この話を読んでいる、そこのお前んとこに行くとするか」
妖怪の視線は、はっきりとこちらを見ていた。
「では、そこの君。近いうち、夢で会おうぞ――ぷう♪」
そう言い残し、 妖怪屁こき浴びせ はゆっくりと闇に溶けるように消え去った。
後にはただ、呆然とした私だけが残されたのだった――。
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