第36話
モーツァルトの『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』。ドイツ語を直訳すると、「小さな夜の音楽」。冒頭の分散和音を跳躍する第1主題は躍動感に満ち溢れ、弦楽合奏の中で、最も有名な曲と言ってもいいと思う。それくらいメジャーで、それこそ、日本人の誰もが一度は耳にしたことのある曲だ。
前回聴いたのは、4月の新歓ライブの時。ドボルザークの弦楽セレナーデの前に演奏していた。その時は、2年生30人弱を福島先輩が牽引し、指揮なしでの演奏だった。今回は、1年生も加わったということで、顧問の毛利先生が指揮をしているが、それでも、部長兼コンミスの浅野先輩がリードする演奏は、軍隊のごとく統率が取れていて、一糸乱れぬ弓の動きは、まるで、マスゲームでも見ているかのようだ。今年入部した桜たちは、後ろの席の方で、先輩たちの背中に必死に喰らいついていて、幾多もの弦が情熱的に震えて鳴り響く音は、講堂内の空気を大きく包み込む。
「前聴いた時よりも、迫力があるな」
楽器を片手に、ステージ奥で待機する中、佐伯がこぼした。まさにその通り。人数が増えたというのもあるが、1か月後に迫る定期演奏会に向けて、仕上げのフェーズに入っている。2年の先輩たちの中には、来月、引退を迎える人たちもいる。引退する人が公表されるのは定演1週間前らしいけど、その人たちにとっては、高校最後の演奏会となり、その後は長く険しい受験戦争へと突入するのだから、気合が入ってて当然だ。
「弦、上手だね」
「うん、すごく綺麗」
桂さんと相原さんも同じような感想を抱いたようだ。その隣で、越智は緊張した面持ちで、ダブルリードを口に咥えたまま佇んでいる。
口羽君はモーツァルトだろうがなんだろうが、乗れる曲を聴いた時は頭を振る癖があるようで、世良さんは軽く腕を振って、指揮をしていた。
みんな、思い思いの過ごし方をしていると、浅野先輩と宍戸先輩が姿を現した。
「さっきロッシーニやって、今モーツァルトだから、これ終わったら、私たちの番ね。千代、スカートの丈、戻して。じゃないとパンツ見えちゃって、演奏どころじゃなくなる」
「分かったよ」
宍戸先輩は人目を気にせず、その場でスカートの丈を元に戻しはじめる。
何となく、目のやり場に困った俺は、そっぽを向いた。ガン見していた佐伯は、桂さんに「何見てるの?」と言われていて、一瞬空気が凍りついたけれど、すぐに桂さん持ち前の明るさでいつものとおりになった。
「じゃ、軽く、円陣組んどく?」
浅野先輩が提案する。
「円陣って、運動部じゃないんだから」
スカートを整えた宍戸先輩のつっこみ。
「安芸中吹奏楽部はみんなで円陣組んでたじゃん。その中心にいた部長が、なんてこと言ってるの?」
吹奏楽部は運動部みたいなもんだから、あながち間違いではない。ちなみに、俺がいた港中も独特の掛け声があった。
「千代先輩、安芸中の部長だったんですね……」
相原さんが、小さく、驚きの声を上げる。
「そうだよ~。全国大会常連、安芸中吹奏楽部の部長! 頼もしいでしょ?」
「頼もしいです。いえ、もともと頼りになる先輩だとは思ってましたが……」
部活と両立させながら、去年の入学式で新入生代表の挨拶を務めた宍戸先輩は、相原さんの憧れらしい。
「でしょ? じゃあ、円陣組んで、気合入れよう!」
浅野先輩の指示に従って、9人で向かい合って円を作る。
「弦の子たちの演奏、上手だよね。でも、大丈夫。私たち、人数は少ないけど、個々のレベルは全然負けてないよ。このごちゃまぜ管打9重奏の実力、お客さんにも、弦の子たちにも、見せてあげよう! 管打~ファイト!」
「おー!」
演奏の邪魔にならない程度に、声を抑えて気合いを入れた。その瞬間、弦楽合奏が終了し、講堂内はお客さんからの拍手に包まれた。
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