第35話

 桜は慌ただしく去って行った。どうしたものか。ぼっちになってしまった。


 クラスは出し物をやってるため、教室には帰れない。かといって、ひとりで回る気にもならない。佐伯はどうせ桂さんと一緒だし……。


「音楽室にでも行くか」


 どうせ誰もいないはず。ひとりで過ごすなら、ひとりになれるところの方がいい。そう考えた俺は、喧騒から離れて、3階奥の音楽室に向った。


 そこで待っていたのは、予想だにしない展開だった。


 扉を開けた先には、人形のような少女がいた。頭にホワイトブリムを着けて、膝上の黒のワンピースにエプロン……というか、メイド服を着用している。白のニーソックスで覆われた脚が清潔感を演出する一方で、丈の短いスカートとニーソの間に君臨する絶対領域は、神秘的な魅惑を解き放っていた。


 思わず見とれてしまった俺に、少女は視線を向けることはない。イヤホンをして、目をつむっている。そっと近づくと、その人形の正体が判明した。


 越智だった。


 傍の机に置かれたスマホの画面が光っている。どうやら、ヨハン・シュトラウスの『こうもり』を聴きながら、夢の世界へと誘われてしまったらしい。


 でも、どうして……?


 俺が疑問を抱くと同時に、越智は目を覚まして、ふわ~と欠伸をした。しかし、視界に俺を捉えたはずなのに、脳は覚醒してないらしく、何の反応もない。


 少女は再び目をつむり、5秒ほど経って、再び目を見開いた。まぶたを開く速さが勢い余ってしまったのか、動転して、そのまま椅子から派手に転げ落ちた。下着は……残念ながらガードがかたいようで、見られても大丈夫そうなやつを履いていた。


「河野君!?」


 思えば、越智のこんな大きな声を聞くのは初めてだったかもしれない。


「えっと……大丈夫?」


 越智は、即座に、スカートの中身が見えないよう、脚を閉じた。見せても大丈夫なのを履いているのに、その仕草はなかなか萌える。


「あ、いや、その……大丈夫……です」


 俯いているが、頬は紅潮しているのがよく分かる。


「体調悪いの? 熱とか」


 じっと見つめていると、両腕を上半身の前でクロスさせて、身体を背けた。


「見ないで……大丈夫だから」


 見ないで、と言われると見なくなるのが男の性だけれど、極力、見ないように努める。つい先ほど、執事服を着た桜の強調された曲線を見てしまったの、たぶん、本人にバレたから、今後は気をつけないと……。


「あ、そういうことか。越智、3組だから『メイド執事喫茶』なのか」


 桜から聞いたことを思い出すと、ふと、口から言葉が漏れていた。


「!」


 越智の身体がビクンと反応する。どうやら、図星らしい。


 よく似合ってると思う、なんて言って大丈夫なんだろうか。そんな暢気なことを考えている俺とは対照的に、越智は黙ったまま。越智が黙っているのはいつもどおりだけれど、なんとなく、その肩が震えているように見えた。


 越智の性格だ。ノリノリでこんな格好をするわけでもなければ、桜のようになんでもそつなくこなせるわけでもない。おそらく訳ありなのだろう。警戒を解くために、無理やり話題を変えることにした。


「ヨハン・シュトラウスの『こうもり』聴いてんだね。悪い、さっき携帯の画面、ちらっと見えた」

「……うん」


 大方、相原さんが好きと言ってたから、聴いてるのだろう。陽キャから見ると、随分と回りくどい方法と思われるかもしれないけど、越智はこうやって、健気に、共通の話題を見つけようとしているのだ。


「その曲、オーボエのソロあるでしょ?」

「うん」

「吹いてみたくなった?」

「それはいい」


 どうやら駄目らしい。


 気を取り直して、話を振る。


「『こうもり』ってオペレッタは、何も、その曲だけが有名じゃないんだよ」

「?」


 越智はこちらに顔を向けて、首をかしげた。少し、いつもの越智にもどったみたいだ。


「例えば、アデーレのアリアとか」

「……アデーレ?」

「アデーレってのは、主人公の屋敷の女中なんだよ。だけど、舞踏会に行きたいから、適当に嘘ついて屋敷を抜け出して、舞踏会に参加する。すると、主人公と舞踏会でばったり会ってしまう。その時に、『おかしなことを言わないで、人違いです。私は小間使いではなくて女優よ』ってとぼけて、アリアを歌う。これが『侯爵様、あなたのようなお方は』っていう有名な曲。こういうコミカルなところが、喜歌劇、オペレッタらしいよな」


 越智は再び黙り込んだ。あれ……?


「小間使いって、メイド……?」


 越智が小さくこぼした時に気がついた。


 桜は、欠員が出たから急遽クラスに戻ることになった。その欠員は、おそらくは越智なのだろう。ということは、今の越智は、アデーレと置かれている状況が似ている。何かしらの理由で、クラスを抜け出してここにいるメイドだから。


 越智は、オペレッタの登場人物のような行動に出てしまったことを自覚したのか、露骨に肩を落とす。周りから見れば喜劇でも、本人にとっては悲劇なのだろう。


「話、聞こうか」


 俺の提案に、メイドはこくりとうなずいて、ちょこんと椅子に腰かけた。今日はえらく素直だ。メイドのカチューシャで髪を固定しているからか、いつもより表情がよく見える。


「……急遽、メイドをやることになって……」


 バレー部の公休って言ってたっけ。


「私、嫌だった。でも、部活の子たちもみんな手伝うっていうから、断り切れなくて……」


 越智が話したのはそこまでだった。


 それで十分だった。ここまで聞いて話が読めてしまった。責任感から、メイド服を着たものの、あまりの恥ずかしさに、人目をしのげる音楽室に辿りついて、現実逃避しながら音楽を聴いていたら眠気に襲われた。そんな感じだろう。


「何で執事じゃなくて、メイド服に?」


 そんな丈の短いスカート、絶対嫌だろうに。


「似合うだろうからって、クラスの人に言われて……」

「まあでも、似合うとは思う」


 マジレスしてみた。すると、越智の顔は再び、見る見る赤くなる。


「……からかわないで」


 消え入るような声だけど、一応、ご立腹らしい。


「ごめんごめん」


 一応謝るものの、越智はそっぽを向いた。無表情なのに表情豊かだよなぁ。


 それにしてもこの状況、さてさて、どうしたものか。


 時刻は11時半。演奏会は14時から講堂で。点呼は13時。となると、1時間以上をここでつぶすことになる。越智はやっぱり、クラスに戻ろうとしているのだろうか。


「アデーレはどうする?」

「アデーレ?」


 越智の意向を確認することにした。


「俺に向って、人違いですととぼけ切るのもよし、アデーレですと自白するもよし」


 この際、せっかくだから、洒落の利いた方法で、決着をつけよう。


 越智は、少し考えた後、短く答えた。


「人違いです」

「惜しい。この場合、『侯爵様、あなたのようなお方は』って言うんだよ」


 越智はじっと俺を見つめる。そしてすっと息を吐くと、小さく澄んだ声でこう言った。


「ご主人様、あなたのようなお方は」


 恥じらいを孕んだその声に、俺の胸は静かに高鳴った。

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